11


 5thステージは着外となってしまったが、シルバー・バレットの脚が悪化しなかったことの方が大事だと言ってディエゴは順位にこだわらなかった。
「どうせ最後には俺が勝つ」
 ニヤリと不敵に笑う彼からヘルメットを受け取った夢主は、その傲慢さと満ち溢れる自信にむしろ感心してしまうほどだ。
 次の6thステージはシカゴからミシガン湖を北に向かい、ゴールのマッキーノ・シティまで690キロの道のりだ。レース当初にあった夏の名残はすでに消え失せて、11月もそろそろ終わりに差し掛かっている。そんな季節の中、北緯40度を越えれば当然、雪が降る。すでに数十センチの降雪が確認された中を駆け抜けるために、選手たちは冬支度を整えるのに忙しかった。
「冬用のグローブにファーの付いた暖かい上着、ブーツも厚めの物を選んであります。それからこれはディエゴさんがイギリスから持ってきたシルバー・バレットの馬着です」
 畳んで丸めた綿入りの防寒具を鞍の後ろに荷物の一つとしてロープで結わえ付ける。
「積み忘れはないな?」
 二人で作った冬装備のチェックリストをもう一度確認して夢主は大きく頷く。ディエゴは上出来だ、と言わんばかりに彼女の頭を馬上からひと撫でした。
「あとはいつも通りだ」
「はい。チェック・ポイントで待ってます」
 厚着を重ねたディエゴがいつものようにスターティング・グリッドへ歩き去って行く。そのうち開始の花火が打ち上げられると共に、ゆっくりとした速度でシカゴ市内を北へと駆けていった。


 それから一泊の後、夢主は動きやすい乗馬服のままで荷物の整理と補充をし、次の駅に向かおうとホテルを出たところで呼び止められた。
「取引を忘れてはいないな? 手を貸してもらうぞ」
「ホット・パンツさん!? え、レースは!?」
 6thステージが開始されたのは昨日のことだ。まだシカゴにいるとは予想外だった。
「レースより優先すべき事がある。まず確認しておきたいのは、4thステージの嵐の夜、君はどこにいた?」
 政府の建物に潜り込み、ルーシーを助けることになったあの日のことだ。夢主は驚きのあまり荷物を落としそうになって手に力を込める。
「……ホテルにいました。外は大雨でとても出掛ける気分には……」
「体重はいくつだ? 読心術を習ったことは?」
「どうしてそんな事を聞くんですか?」
 質問を質問で返されたのが気に食わなかったのか、ホット・パンツは目を細めながら夢主を馬上から見下ろす。そしてフッと口の端を上げて笑った。
「ルーシーを手助けしたのは君か。なるほど、あの能力であればどこにでも潜り込める」
 隠そうとした真実のど真ん中をスパッと切られて夢主は目を見開く。この場合、動揺するなと言う方が無理だ。
「調べたところ、君は馬に乗れない。となればルーシー・スティールが指輪を持ち、政府から追跡されている女ということだ」
「そんな……逃げ切れなかったの?」
 あれほど苦心したのに無駄だったのだろうか。夢主は力なく荷物を地面に置く。
「いや、運良くまだ気付かれてはいない。だがそれも時間の問題だろう。だからバレる前に大統領から他の指輪を盗み出してもらう」
「上手くいくとは思えない……ブラックモアみたいな強いスタンド使いがいる中に、わざわざ盗みに行けと言うの?」
「君なら簡単だろうが、肝心の指輪を持っていないからな……こればかりはルーシーに頼むしかないのさ」
 とても正気とは思えない提案だが、彼がそれを伝えに夢主の前に現れた事を考えれば、その手伝いは避けて通れないのだろう。まさか盗みの片棒を担ぐことになるとは思いも寄らなかった。
「私が代わりに盗んでくるのはどうですか?」
「それを許すと思うか? 分かったら、その荷物をもう一度ホテルに預けて俺の馬に乗れ。あまりゆっくりはしていられない」
 ホット・パンツを詳しくは知らないが、強引な性格の持ち主のようだ。ディエゴにも通じるところがあるので、この世の美形はきっと何をしても許されてしまう特権があるのだろう。
 夢主は仕方なく荷物を預けに戻り、路地裏の角で待ち構えるホット・パンツの元へ行く。サンドマンを助けたことに後悔はないが、これから起こることに多少の不安はあった。
「私、馬に乗れません」
「知っている。台になってやるから乗れ」
 まだイギリスの屋敷にいた頃、ディエゴにしてもらったように相手の太股を踏んで鞍に体を乗せる。あの時と同じように靴を脱いで行ったが、ホット・パンツは何も言わず地面に転がるブーツを夢主の足に履かせてくれた。
「行くぞ」
 ホット・パンツは夢主の後ろに腰を下ろすと、すぐに馬の腹を蹴って歩かせた。
「ゆっくりでお願いしますっ」
「無理を言うな。怖いならホーンにでも掴まっていろ」
 ディエゴが使うブリティッシュサドルとは違い、ウェスタンスタイルの鞍は牛を追うカウボーイのために負担のない作りになっている。本来なら投げ縄を結び付けるためのグリップに夢主は慌ててしがみついた。
「飛ばすぞ」
「ひえぇ!」
 へっぴり腰の夢主を乗せた青鹿毛の美しい馬が主人の合図に従って走り出す。それでも全力疾走の襲歩ではなく、一つ速さを落とした駈け足なのは多少なりとも気を遣ってくれているのだろう。だが、それでも充分すぎるほどの揺れが伝わり、夢主は相手の体に寄り掛かることになった。
「……?!」
 背中に感じるのは鍛えぬかれた筋肉ではない。柔らかく包み込むような二つの丘を感じ取って、勢いよく後ろを振り返った。
「え、え? ホット・パンツさんって……女性!?」
「それがどうした。乗馬服を着る女は珍しいか? だがそれは君も同じだろう」
「私のこれは馬の世話がしやすいためで……え、でも……えぇえ!」
 驚きに叫んでしまう夢主を街の人が何事かと振り返る。
「じゃあ、男装の麗人ってことですか? みんな知らないの?」
「何でもいいが……喋っていると舌を噛むぞ」
 夢主の驚く顔があまりに愉快で、ホット・パンツは苦笑を浮かべながら政府公邸に向けて馬を走らせ続けた。


 ……どうやら夢主が思っていた以上に事態は深刻らしい。
 公邸近くの雑木林の中で呼び寄せたルーシーと会話した時に思ったことだ。
 ホット・パンツの肉スプレーで一度きりの変装手段を得た彼女は、ファーストレディを利用して公邸内へ足を踏み入れるらしい。
 夢主はホット・パンツとの取引に応じ、彼女が大統領から指輪を盗み出すまでの護衛として雇われることになった。
「ローマ法王庁から命じられた事だなんて……」
「信じなくてもいい。だが、大統領に指輪を渡す事だけは出来ない」
 ヴァチカンとアメリカ大統領が共に奪い合う聖人の指輪……夢主もその奇跡を体験した者として、何かとんでもない力を秘めているのは分かる。そして誰かに独り占めされるのは避けたい。記憶の手掛かりは喉から手が出るほどに渇望しているのだから。
「ルーシー、ファーストレディは私が見張ってる。今のうちに行って」
 紅茶の中に仕込んだ睡眠薬を植木鉢に捨てながら、夢主はルーシーが奥の部屋に向かうのを見守った。
 30分の昼寝をするという大統領の寝室は今いる場所から3つ向こうの寝室だ。足音を忍ばせてそこへ向かう彼女を心の中で応援しながら、外や廊下を警戒する。
(きっと上手くいく……)
 カンザス・シティ以来の緊張感に胸を押さえ、流れる汗を拭きながらその時を待つ。ホット・パンツは違うルートから侵入すると言っていたが、それはどこなのだろう……気を紛らわすためにそんな事を考えていたら、突然、奥の部屋から悲鳴が上がった。
「!」
 広いバスルームを抜けて大統領の寝室へ飛び込む。これまで泊まったどこのホテルよりも豪華な造りだ。そこに眠る大統領本人と、足に太い釘を打ち込まれた彼女が痛みに悶絶している最中だった。
「ルーシー! 大丈夫!?」
「この犬……私だけを狙ってるッ!」
 オレンジ色のゴム風船で作られた犬は執拗にルーシーだけを追いかけ回す。見かねた夢主がスタンドを出して破壊しようとした時、
「何してるの? ……この騒ぎは? ルーシー? それにあなたは……」
 最悪なことにファーストレディがこの場に現れてしまった。
「!!」
 見つかったことに息を詰める二人の前で、相手は忍ばせていた銃口を向けてくる。
「このメス猫どもがッ! その顔ブチ抜いてやるわッ!」
 パーティで会った時の優雅な面影などまるでない。恐ろしく冷たい表情で引き金を引こうとする相手の腕に夢主は飛びかかった。
「!? 何……!」
 弾道を逸らすことに成功したものの、それでもルーシーの肩を数ミリ打ち抜いてしまったらしい。
「このあばずれがァァ! その乳房を削り取ってやるッ!」
 鬼気迫る顔に正直なところビビってしまう。しかし、ここまで来たら逃げる訳にはいかない。加勢のない今、2対1なら勝てるはず。そう思って銃を叩き落とし、ルーシーと一緒になってバスルームの中へファーストレディを引き倒した。
「どうして! このゴム犬……破壊出来ない!」
 見た目が柔らかなゴムのせいか、夢主のスタンドの拳をことごとく弾いてしまう。ならばと少しでも遠ざけようとする前で、怒りに満ちた夫人がルーシーの太ももに刺さった長い釘を無茶苦茶に動かし始めた。
「うぁあああっ」
「お前らをただじゃあ処刑なんかさせない……ギリギリまで生かしてすべてを失うまで追い詰めてやるッ!」
「! 何するの止めてッ!!」
 夢主が夫人を押さえつけようとするより先に、ルーシーが顔に張り付いていた肉スプレーをそのまま相手になすり付ける。その直後にゴム犬たちが夫人の頭部に潜り込み、大きな音を立てて破裂すると、辺りに血と脳漿を振りまきながら床に倒れ込んでいった。
「……」
 生暖かい血を同時に浴びた二人の喉元に、強い吐き気が込み上げてくる。
 しかしそれをトイレに流す時間すらなさそうだ。寝室に雪崩れ込もうとする警備員たちの足音がすぐそこまで迫っていた。
「ルーシーを隠せ」
 気付けば排水溝からホット・パンツが姿を見せているではないか。窓の外から中を覗くスタンド使いと夢主たちの間に立ってスプレーを構えていた。
「ここは……私がヤツを始末したら脱出だ」
 ふわふわと浮く金属で作られた風船に追い込まれながら、ホット・パンツはそれらを無視して直接本体を叩きに行く。何度か反撃を食らいつつも、それを上手く躱して見せたのは騎手の反射神経から来るものだろう。
「きさま……夫人に何をしたぁああ!」
 ルーシーの姿は夢主が隠しているものの、ファーストレディのことまで気を回せられなかった。激高してバスルームに入ってくる敵に身構える。
 攻撃態勢に入った次の瞬間、決着はすでについていたようだ。
 絶命するスタンド使いから目を離し、ホット・パンツは背後の二人に向き直る。
「残念ながら……ルーシー、君を脱出させるのは不可能だ。スプレーで君を細切れには出来ない。それにこの状況を説明出来る者がいなければ、嵐の日の犯人捜しは続くだろう」
「そ……そんな……」
「だから君はこのままファーストレディになり切るんだ。それしか生き残る道はない。そして、いいか? ここに侵入したのはこの私だけだ。ホット・パンツが全ての犯人だと奴らにそう言うんだ。体重51キロ以下の女で一晩を100キロ走る馬の乗り手……この条件に合う。少なくとも君は疑われない……後のことは私たちに任せて、君はそのまま耐えろ。ファーストレディとして」
 ホット・パンツは本物の遺体をスタンドで細切れにして排水溝へ流し、ルーシーの傷を治して顔を再び夫人のものにする。
「取引は終了だ。お前も早く逃げ出せ」
 夢主にそう告げて来た道から戻っていく。言われるままスタンドを使った直後に警備員がバスルームに飛び込んできて、血まみれのマイクOの死体に誰もが青ざめていた。
「希望を捨てないで……今は無理でも必ず助けになるから」
 震え泣く夫人の姿をしたルーシーにそっと耳打ちをする。慰めるように肩を撫でれば、こちらの姿が見えないながらも夢主に向けてかすかに頷き返してくれた。
 その後、大統領にホット・パンツが犯人だと告げる彼女を置いて、夢主は人の隙間を縫いながら外へ向かう。走って走って、ルーシーと最初に会話した雑木林の中に飛び込んだ。
「来たか……。君も無事で何よりだ」
 街の外へ流れる排水溝から姿を見せたホット・パンツに夢主もスタンドを解く。
「私……何も役に立てなかった……」
 夫人から目を離してしまったし、銃口を逸らしてもルーシーに怪我を負わせてしまう有様だ。その場にへたり込みそうになる夢主をホット・パンツが腕を引いて立たせる。
「スタンド能力に目覚めたばかりにしてはマシな方だ」
 落ち込む夢主の尻を持ち上げて馬に乗せると、遠慮のない最高速度で街中を駆け抜ける。
「あなたは怖くないの? 政府から追われるのに……」
「恐怖はない。あるのは使命感だ。この指輪を守り抜くのが私のすべて……」
 あの紋章が飾られた袋を大事そうに抱える相手を夢主は振り返って目に映す。
「私もその奇跡が欲しい……失った記憶が戻るのなら……政府に追われたっていい」
「確か、君は記憶喪失者だったな。だからといって渡すことは出来ないぞ」
 ホット・パンツがじろりと睨んだ瞬間、曲がり角から急に人が飛び出してくる。急停止する馬と人の悲鳴が響いて二人がバランスを崩した結果、紋章入りの袋が夢主の背中に押しつけられた。
『三日間の休息が必要です』 
 その言葉を皮切りにして、再び様々な風景が目の前を通り過ぎていく。
 鈍い色を放つ金貨とダイヤモンドやルビーなどの宝飾品が、有名な絵画と共に無造作に床へ打ち捨てられて、その間を埋めるように何人もの人間が転がっている。首から、胸から、腹から滴る赤い液体はドロリとした粘度を持って足下へと流れ込んできた。
「……夢主」
 春の陽気のように優しく、冬の湖よりも冷たい声が闇の奥から響いてくる。美しい金色の髪が揺れるその人の名を呼ぼうとしたところで……また意識が弾け飛んだ。
「大丈夫か? おい! しっかりしろ」
 ホット・パンツに背後から強く揺さぶられて意識を戻す。
 舌先まで出かけて飲み込む羽目になった相手の名を夢主は泣きながら探し求めた。




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