ウィンドナイツ


 鼻を突く焼け焦げた匂いが辺り一帯を覆い尽くし、時折、寒風が吹き抜けては瓦礫の山に降り積もる雪を撫でていく。
 数日前、火事に見舞われたジョースター邸は見るも無惨な姿だった。屋根が焼け落ちた衝撃で美しいステンドグラスは砕け散り、壁に掛けられていた数々の絵画は灰と化し、先祖代々受け継いできた威厳ある甲冑も押し潰されて以前の華やかな佇まいは見る影も無かった。
「ディオ様、こっちにも見当たりませんぜ」
 炭と化した残骸を掘り返していたワンチェンとジャックが申し訳なさそうにこちらを見てくる。フードを目深に被ったディオは、用意させた車椅子の肘置きを指先で叩いて不機嫌さを示した。
「朝まで時間はある。何でもいい。くまなく探せ」
 主の言葉を受けたワンチェンは冷や汗を流しながら黒い土をかき分けた。しかし出てくる物は消し炭ばかりだ。これではたとえ探し当てたとしても主の望む姿では無いだろう。それでも絶対の命令には逆らえず、ひたすらに地面を掘り続けた。
 ガラガラと物音がするジョースター邸を前にディオは月夜に流れる雲の下でこれから先を思う。
(この傷ついた体を癒やすにはより多くの生き血が必要だ……ロンドンが最適だったが、今は無理か……)
 切り裂きジャックの行方を警察が今も追いかけているし、彼の手口の異様さに竦み上がった市民は家に閉じこもって早々に寝付いてしまう。おかげで賑やかだったロンドンの歓楽街は人通りが絶えてしまった。体を癒やすための血はあまり奪えなかったが、代わりにジャックという手強いしもべを得られたのは幸運だ。あの日、同じく生き残ったジョナサンを倒すべく、ディオは少しずつでも確実に力を蓄えなければならない。
(ここよりも小さな町がいい……若い娘が消えても都会に憧れて家出したと思うような寂れた町だ)
 二人の下僕に火事跡を掘り返させながらディオは脳裏に地図を思い描く。内陸よりも海に近い方が排他的ではなく、新参者を受け入れやすいだろう。穏やかで豊かな町……候補にいくつかを選び出し、その中でも中世には騎士の訓練場が作られ、今は監獄として多くの囚人を収容していると聞いた町の名を思い出す。
「ウインドナイツ・ロット」
 残虐な部下を増やすにはこれ以上無い場所ではないか。ディオはこれから牢獄で起こる惨劇を思い描くと低い声で笑った。彼の不吉な笑い声が葉の落ちた木々を揺らし、月に黒い雲を掛けてしまう。
「……ディオ様」
 そこへジャックが歩み寄って、静かに頭を垂れて手にした物を差し出してきた。
 ディオの焼けただれた手にねじ曲がった黒い炭が乗せられる。わずかに残った青い飾り石が女物の髪飾りだということを示している。それはディオが大学に入る頃、遊んでやれなかった詫びとして彼が夢主へ贈ったものだった。
「後はもう、あらゆる物が灰になっています」
 ジャックの報告を聞いてディオの胸にこれまでの思い出が押し寄せる。転けて膝を擦りむいて半べそになる顔、両親を一度に失ってむせび泣く声、ダリオに怒鳴られて流す涙、誘拐から助かって安堵に泣き崩れる表情……これまでその涙を受けとめてきたのはディオだ。泣き止んだ後、はにかみながら笑顔を浮かべる彼女が愛おしかった。
 最後に夢主の泣き顔を見たのは屋上へ向かうジョナサンを追いかけている時だ。吸血鬼となったディオが壁に足を突き入れて垂直に歩く姿を呆然と見上げていたように思う。彼女には何がどうなったのか、死ぬその間際まで分からず終いだっただろう。
「夢主……」
 彼女が敬愛するジョースター卿に毒薬を混ぜ、その背中を刺したディオの犯行を何一つ知らずに逝ってしまった。案外、その方が良かったのかもしれない。今頃は天国でジョースター卿と再会して、また涙を流しているのだろう。ディオはそう思うとフッと寂しく笑った。
 彼は手の平に乗った髪飾りの黒い破片を握りしめると、跡形も残らぬよう粉々に砕いてしまう。
「……もういい。行くぞ」
 北風に煽られてサラサラと吹き飛ばされていく遺品から目を背ける。愛慕と傷心をこの場に捨て去って、ディオは生まれ変わらねばならない。
 車椅子を押させ、用意させた窓の無い真っ黒な馬車へ乗り込むと、ディオは御者のワンチェンに向けて哀れな生け贄たちが待つ遠い町の名を告げた。


 あれから二週間も過ぎると、それまで絶えず生き血を飲み干してきたディオの体は次第に回復し、残すは慈愛の女神像で腹に開けられた傷だけとなった。同じ頃、あの死闘から生き残ったジョナサンも何とか動けるほどに回復したと聞いた。怪我人相手にディオ自らが赴くまでも無い。ワンチェンに全力で始末するよう命令を下しておいたので、数日も経たぬうちに優秀な部下は生首を届けに戻ってくるだろう。
「ディオ様、新しい食事をご用意しました」
 墓場の底から聞こえてくるような声でそう知らせるのは監獄で囚人だった屍生人のものだ。部屋に押し込まれた金髪と黒髪の若い女たちは恐怖に顔を強ばらせ、ジャックが突き付けてくる鋭いナイフに体を震わせていた。
 ディオが命乞いをする女を一睨みすると、あっという間に催眠術にかけられて恐慌状態だった心は静けさを取り戻す。指先から精気を吸い上げた後、無言で床に倒れこむ女の頭部を砕いてディオは笑った。
「生き血こそ力! 永遠こそ我が望み!」
 慎重に事を進めていけば、いずれはこの町だけではなくロンドンも手中に収めるだろう。その時を夢想すると笑いがこみ上げて止まらなかった。
「ジャック、喰っていいぞ」
 後始末は彼に任せて、もう一人の女に腕を伸ばす。黒髪が美しいその者は痛ましいほどに怯えて震え、死の恐怖と絶望で気が狂わんばかりのようだ。
「さて……次は君の番だ。このディオの糧となることを光栄に思うがいい」
 青ざめた顔を覗き込めば、若い肌の上を涙がいくつも流れ落ちていく。それを見た瞬間、ディオの脳裏にちらりと夢主の姿がよぎった。
 彼女を失うと知っていたらその命をさっさと奪ってしまえばよかった。言葉巧みに石仮面を被せ、この町へ連れてきて今まで通りの暮らしを与えただろう。永遠に続く夜の闇を二人で楽しみながらさまよえばいい。
 しかし同じく育った存在はもうこの世に居ない。揺るがない信頼と無償の愛を捧げてくれた唯一を失った事実に、今ようやく悲しみが追いついてきた。
「残念だ……あぁ、実に……」
 涙こそ流さなかったが、代わりにその場に吹き出した鮮血がディオの頬に飛び、ゆっくりと青白い肌を伝い落ちていった。

 終




- ナノ -