01


 暗闇の中で淡いすみれ色のドレスがふわふわと揺れている。この時代、誰も着ないようなクラシックドレスだ。以前、テレンスがリメイクして人形に着させるためにアンティークショップで買い求めた物だった。そうとは知らずに受け取った夢主は大きな姿鏡の前で胸元を飾るリボンをきゅっと締めて、衝立から姿を見せた。
「よくお似合いです」
 部屋の隅で控えていた執事が声を掛けてくる。
「どうもありがとう」
 礼を言うと執事は頭を下げて、焼け焦げたドレスと共に部屋を出ていった。
「夢主、こちらに来い」
 手招くDIOの元に夢主は笑顔で近づいた。それまで寝台の上で横になっていた彼はゆっくりと身を起こし、風呂から上がって身支度を調えた彼女を上から下まで眺めた。
「……すみれ色、か」
 血色のいい夢主の頬を撫でながらDIOはドレスの色を見て遠い過去を思い返す。
 ジョースター家に引き取られることになったあの時も、彼女は同じような色合いのドレスを着てディオの前に姿を見せた。ブラシを丁寧に通し、艶やかに生まれ変わった髪は柔らかそうにふわりと揺れ、誰かが着潰したものではなくレースやリボンで飾られたドレスに身を包む夢主は貴族の子女そのものだった。
「すみれ色は嫌い?」
 寝台に腰掛けていたDIOの顔を夢主が上から覗き込んでくる。
「いや……いい色だ」
 思い出深い色をまとう彼女はあの時のように少女ではない。共に成長して今では大人になった。締め上げたコルセットが胸のふくらみを押し上げて、DIOの前で誘惑するようにちらりとその柔肌を見せてくる。
「実にいい」
 DIOは腰を強く引き寄せて自身の膝上に抱き上げた。黒い煙塵が流し落とされた夢主の肌からは風呂上がりのいい香りが漂ってくる。就寝前におやすみの挨拶を交わしていた頃が色褪せることなく脳裏に蘇ってきた。
「ディオ、少し……離れてくれる?」
 硬い膝上が落ち着かないばかりか、吐息すら感じるほどにディオの顔がすぐ側にある。
「俺に触れられるのは嫌か」
 欲を宿した赤い目がこちらをジッと見つめてきた。そんな目の色といい、首筋に残る生々しい傷跡といい、体の変化もそうだが随分と雰囲気が違うディオに夢主は戸惑いが隠せなかった。
「嫌ではないけれど……」
 愛情を示すようにディオに抱きついた事は何度もある。時折ちらりと見せる優しさと、何でも一人で解決してしまう頼もしい彼が幼い頃から大好きだった。縁談を断り続けたのも彼に対する愛があったからだ。
 しかし心の準備が整わないうちにこうして近づかれると、どうしていいか分からなくなってしまう。夢主は速まる胸を押さえて困ったように眉を寄せた。
「人目など気にするな。ジョースター卿もジョジョも、お前を娶ろうとする貴族も……もはや誰もいない。ここには俺たち二人だけだ」
 DIOの言葉がチクリと胸を刺す。地獄に堕ちた自分ではあの高潔な二人に会えないのは当然だろう。それを悲しく思う一方で、結婚や偽りの兄妹関係に悩まずに済むと思うと心は安堵に包まれてしまう。
「二人だけ? ずっと……?」
 その問いを肯定するようにDIOは微笑むばかりだ。夢主はそろそろと手を伸ばし、相手の広い胸を抱きしめる。少し冷めた肌に額を寄せて、喜びか、悲しみか、自分でも良く分からない涙をぽつりと落とした。


 そうして新たな客人を迎えた館はにわかに騒がしくなった。主が暮らす上階ではなく、彼の部下たちが雑務を行う一階の話だ。その内の一人、DIOに呼ばれたエンヤ婆が階段を下りてロビーに姿を見せると、どこからともなくアイスやテレンス、マライアにンドゥールが現れて情報を聞き出そうと周囲を取り囲んでしまった。
「エンヤ婆、彼女がDIO様の妹君というのは本当ですか?」
「スタンドは見せてもらえたの? 私たちと同じスタンド使いなんでしょう?」
「いやそれよりどうやってこの館に? 私の警備に至らぬところがあったのだろうか?」
「DIO様と同じ存在だと聞いたがそれは真実か?」
 詰め寄ってくる彼らをエンヤ婆は杖で床を叩いて静かにさせた。
「煩い奴らじゃの。DIO様のお耳に届くではないか。少しは口を閉じたらどうじゃ」
 その場にいた四人はピタリと口を噤む。静かになったところでエンヤは顎をしゃくって奥の音楽ホールに彼らを集めた。
「テレンス、お前は引き続きDIO様とその妹君のお世話をするのじゃ。妹君とハッキリ言っておくぞ。DIO様が仰せられたことじゃ、疑う余地はあるまい。マライア、お前の言うとおりスタンド使いじゃ。ただ、まだ力の使い方を分かってはおられぬ。不用意にその力を確かめようとするでないぞ」
 エンヤ婆はそこで一度言葉を切り、近くにあった椅子に腰掛けた。
「それから……アイス。お前の不手際ではなさそうじゃ。それよりもDIO様のお食事を以前より目立たぬ方法で用意せい。死体はもちろん女の悲鳴すら聞かせてはならぬ。ンドゥール、夢主様はわしらと同じただのお人じゃ。だからアイスにテレンス、間違っても……」
「まぁ! 夢主様ですって?」
「それが彼女の名ですか?」
 エンヤ婆の話に出てきた人名にマライアとテレンスが飛びついた。
「これで何とお呼びするか解決したな」
「うむ。ずっとDIO様の妹君では呼びづらいからな」
 ンドゥールとアイスも納得するように頷き、滑らかに呼べるよう何度も練習を繰り返している。
「こら、お前たち……人の話を聞いておるのか? ともかく夢主様の事は他の者にもしっかりと伝えておけ。餌の女と間違われる事だけは避けねばならんからの。特に女好きのホル・ホース、あ奴は要注意じゃ。調子に乗って口説こうものなら首が飛ぶぞ」
 薄気味悪く笑いながらエンヤ婆は持っていた杖を振り回した。
「アイス、ンドゥール、マライア、話は終わりじゃ。さっさと行け。テレンス、お前はスタンドを出して疲れておられる夢主様にお茶を差し上げよ」
 エンヤ婆の命令に従って四人はすぐにその場を後にする。マライアとンドゥールは他の仲間たちと連絡を取りに、アイスはDIOの食事を用意するために、椅子から降りたエンヤ婆も老獪な顔付きで玄関から外へと出て行った。まだ昼の日差しが降り注ぐ中庭に出てきた彼らを一羽のハヤブサがジロリと鋭い視線で見下ろしている。
「……」
 一人残されたテレンスは玄関扉を閉めると、お茶の用意をするために急いでキッチンに向かう。
「妹にしてはあまり似ていませんね」
 聞き間違いだと思ったがどうやら事実らしい。もしかして異母兄妹なのだろうか? テレンスはふとそこで、彼女はDIOの謎めいた過去の全てを知っている事実に辿り着く。囚われるほどに美しく、悪のカリスマが全身から迸っているDIOの“過去”……それはパンドラの箱を開くよりも罪深い事かもしれない。テレンスはぶるりと頭を振ってその誘惑をはね除けた。
 血の香りが薄まった廊下を歩き、テレンスは紅茶が乗ったトレーを手にDIOの部屋を訪ねる。中からDIOの許可を得て室内に足を踏み入れると、揺らめくロウソクの明かりが寝台で横になる男女の姿を照らし出した。
「夢主様のためにお茶をお持ちしました」
 紅茶と菓子を手際よく並べるテレンスにDIOの視線が突き刺さる。
「エンヤ婆といい、お前といい……気の利く者たちばかりだな」
 枕に片肘をつき手で頭を支えていたDIOは執事に向けて皮肉めいた言葉を投げかける。空いたもう片方の手は夢主の手の甲を優しく撫でていた。
「どうもありがとう」
 執事に礼を言って体を起こした夢主は待ちかまえる椅子に笑顔で腰掛けた。一人、ベッドに残ったDIOはつまらなさそうな表情でカップに口を付ける彼女を眺めている。
「夢主様、夕食は何にいたしましょう。お好きな物、苦手な物があれば私にお教え下さい」
「あの、もしかして……イモリやカエルの黒焼きが出てきたりする?」
 怖々とそんな事を聞かれてテレンスは何度も目を瞬かせた。
「イモリ、ですか? いえ、まさか。ごく普通の夕食をご用意いたしますが……」
「ああ、よかった。じゃあそれでお願いします」
 あからさまにホッとする夢主に頷きつつも、テレンスは内心で首を傾げながら退室する。少々、変わり者のようだがあのDIOが兄では仕方ない事かもしれない。そう思い直すテレンスの耳にDIOの小さな笑い声が響いて消えた。




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