06


 午前は教養とマナー、午後からはピアノ、時間が余れば絵画にお菓子作りと、夢主はこれまでと全く違う生活に必死で慣れていった。問題が分からないとムチが飛ぶようなことはないが、物事に対してのあまりの無知さに自分が恥ずかしかった。今までいかにディオをあてにして生きてきたか、痛いほどに知らされてしばらく自己嫌悪に陥ったほどだ。
「夢主? 大丈夫?」
 ようやく春が訪れた水辺で野花を摘みつつ、小川に足を浸してぼんやりと空を眺めていると背後からジョナサンが声を掛けてきた。少し離れたところでダニーがお座りをしている。夢主を怖がらせないよう、主の命令を忠実に守っているようだ。
「ジョナサン、学校はもう終わったの?」
「ついさっきね。ねぇ、これ一緒に食べないかい? さっきキッチンからもらってきたんだ」
 彼はそう言って夢主の手の平に何枚かのクッキーを置いた。まだほんのりと温かいので、出来上がって冷ましているところを失敬してきたらしい。
「どうもありがとう」
 礼を言う夢主にジョナサンはにこりと笑う。父親と同じく彼もまた随分と立派な人柄の持ち主だった。
「ねぇ、ディオは昔からああなのかい? 勉強も作法も完璧で、僕は毎日父さんに打たれてばかりだ」
 しょんぼりと肩を落とすジョナサンに夢主は同情する。
「昨日も食事のマナーが悪いからって抜きにされたし……今夜のディナーも気が重いよ」
 ぼやくジョナサンの隣で夢主は受け取ったクッキーを一口かじった。卵と牛乳、バターをたっぷりと使ったそれは口の中でほろりと溶けていく。これまで夢主が狭いキッチンで作ってきたものとは比べ物にならない美味しさだった。ジョナサンは仕立てのいいシャツとベストを着て、大きな飼い犬を従えている。雨漏りや隙間風のない明るく大きなお屋敷で、優しい父親と多くの使用人に仕えられ、飢えや苦しみもなく、たっぷりと甘やかされて育ってきたことが嫌と言うほど透けて見えた。
「……ディオは努力してるから」
 毎日、父親に虐げられ、酒を買うために働かされていた。金のためなら平気で悪いことをするのも、そうしないと生きていけなかったからだ。夢主だって身勝手な大人によって稼いだ金を搾取され、街で何度もいわれのない侮蔑と差別を身に受けてきた。今更、それを嘆いても仕方ないが、生まれついての貴族と平民の差が今は何よりも苦しく思う。身近にジョナサンのような人が居ては尚更だ。
「努力か……はぁ、羨ましいよ」
「私も羨ましい……」
 ディオが持つ挫けない強い思いと、ジョナサンの分け隔てない優しさが心から羨ましい。惨めな気持ちに呑み込まれそうになって、夢主は小川に浸した足をバシャバシャと動かした。
「そうだ、君は泳いだことある? この裏の小川は綺麗だし、夏はとても冷たいから水浴びには最高だよ」
「ううん、ないわ。どうやって泳ぐのかも分からない」
「じゃあ、夏までに覚えるといいよ。水着が必要だけど、父さんか執事に言えば用意してくれるはずさ」
「……そうね。ええ……」
 クッキーの残りを食べて、夢主は濡れた足をハンカチで拭き、サッと靴を履いた。
「ジョナサン、お菓子をありがとう。私、ピアノの練習しなきゃ。また夕食にね」
「うん、君の演奏が聴けるのを僕も父さんも楽しみにしてるよ」
 軽く手を振って夢主は小川を離れた。口元やドレスについたお菓子の屑を手で払いのけ、足早に屋敷へ戻ると広いホールに置かれたソファーの上でディオが本を読んでいる姿があった。
「ディオ、お帰りなさい」
 前を通り過ぎ、ピアノのところへ向かおうとする夢主の腕をディオが掴んできた。
「なに?」
「あいつとあまり親しく話さない方がいいぞ」
「あいつ、って……ジョナサンの事?」
「ああ。お前は知らないだろうが、ジョジョは学校でチクリ魔として有名なんだぜ?」
「そんな嘘でしょ?」
 とても信じられない言葉に夢主は目を丸くさせた。
「もう何人もジョジョにチクられて酷い目にあってる。優しそうな顔をして騙してるんだ。そうじゃなきゃ、貴族の息子が僕らみたいなのと仲良くするわけがない」
「だけど……」
「分からないのか? あの笑顔の下で僕らをあざ笑ってるんだ。あいつは誰かがヘマをする度にこれだから下々の者は、って呟いているんだぜ?」
 ディオの真剣で哀れむ目に夢主の心が痛んだ。ディオの言うことがもしも本当なら……今頃、ジョナサンは泳ぐこともピアノも満足に弾くことが出来ない夢主を笑っているのだろうか。
「……」
 混乱し、目尻に涙を溜めた夢主をディオは慰めるように肩を抱く。
「あいつに何か言われても気にするな。お前は良くやってる」
「……本当に? 私、ディオの足手まといになってない?」
 探るような目にディオは小さく微笑んだ。
「ああ。ピアノだって習いたての割にはかなりマシなほうだ。マナーだって良くなったし、昨日のジョナサンみたいにジョースター卿には怒鳴られなかっただろう?」
 ディオからの滅多にない褒め言葉を受けて、夢主はようやく笑顔を浮かべる。
「とにかく気を付けろ。決して本心を見せたりするんじゃあないぞ」
 それはとても難しいことだったがディオのために頷いて見せた。
「分かったならいいんだ。ほら、ピアノの練習するんだろ? 馬鹿にされないよう少しでも上手くなっておけ」
「うん」
 ディオに促されて夢主はドレスを押さえつつピアノ椅子に腰掛ける。初心者向けの簡単な練習曲を拙い指先で懸命に弾いていく。ディオもソファーに腰を下ろし、所々を間違えている未熟な音に苦笑しながら読書の体勢に戻った。


 ディオの言葉を受けてから夢主はジョナサンから少しだけ距離を置くようにした。男女が好む遊びは違っているし、少しでも上達したくてピアノやダンスの練習を繰り返す彼女にはそもそもジョナサンと遊ぶ時間が無かった。それでもボクシングで怪我を負って帰ってきたジョナサンには心配したし、学友と喧嘩をしている姿を見て大丈夫だろうかと気遣ったりもした。
 どこからどう見ても悪い人には見えない。しかし「人は見かけによらないものだぞ」とディオに教えられてはどう判断していいか迷ってしまうのだった。
 ジョナサンと微妙な距離感を計りつつ、夢主もこの優雅な生活に慣れ始めた頃のことだ。
「もう夏だって言うのに、風邪を引く馬鹿がいるとはな」
 熱を出し、ベッドに伏せった夢主の姿を見てディオは呆れた口調で呟いた。ぬるくなった氷枕をメイドが交換するのと入れ違いで入ってくる。
「医者に診てもらったのか?」
「うん……二、三日で治るって。それまで安静にしてなさいって……」
 高熱で潤んだ夢主の目を見下ろし、ディオは近くにあったタオルで額の汗を拭ってやった。
「前にもお前を看病したことがあったな」
 夢主の両親が死んで、一ヶ月くらい経った頃だろうか。それまでの心労と疲れが一気に出て、随分とディオとその母親に迷惑を掛けてしまった。「病人は川に沈めてこいッ!」と怒鳴るダリオはディオが酒を与えて黙らせてくれた。
「今なら医者を何回でも呼べるんだ。さっさと薬を飲んで治せよな」
「うん……」
 夢主は掛け布団を引き上げ、その中で苦しげな咳をした。途端にディオは嫌そうな顔をする。
「……ごめん。うつすと大変だからもう部屋に戻った方がいいよ」
「フン、言われなくてもそうするさ」
 ディオはタオルを放り投げ、サッと背中を見せた。衣食住、すべての環境が最高に整えられたおかげか、ディオの体は半年で驚くほど大きくなった。すでに夢主の背を追い抜き、学力と共に逞しく成長するディオを夢主は誇りに思う。
「街にサーカス団が来るそうだ。それまでに治しておけ」
 サーカスと聞いて嬉しそうに目を輝かせる相手をチラリと見てから、ディオは部屋を出て行った。
 娯楽の少ない田舎でサーカスは一大イベントだ。そのために苦い薬を我慢して飲み続け、医者とメイドの言うことをしっかりと聞いて療養に励んだ。もう大丈夫、と診断された時には街外れに大きなテントがいくつも設置され、開演を知らせる花火が辺りに鳴り響いていた。
「病み上がりだというのに、大丈夫かね?」
 初めて育てる女の子とあって特に心配してくれたジョースター卿は不安そうに見つめてくる。新たに買い与えられたドレスと人形に囲まれて夢主は元気な返事をした。
「もう大丈夫です、ジョースター卿……ではなくて、えっと……お父様」
 正式な養子としての手続きは滞ることなく順調だ。その事もあって夢主とディオはジョースター卿という他人行儀な呼び名から、お父さんと呼ぶ練習をしている最中だった。
 ジョースター卿は幼さの残る夢主からそう呼ばれる度に朗らかな笑顔を見せてくれる。可愛らしい声で父と呼ばれる事が、何よりも嬉しいようだった。
「そうか……本人がそう言うのなら仕方ない。夢主もサーカスは見たいだろうからね」
 必死で何度も頷く娘にジョースター卿は微笑む。
「街外れまでは遠い。馬車を出して向かいなさい。ディオ、夢主を頼んだよ」
「分かりました。お父さん」
「さて、二人がサーカスを楽しめるように特別なお小遣いをあげておこう」
 そう言って二人の手に何枚かのコインが乗せられた。顔を見合わせて喜ぶ彼らに、ジョースター卿は優しく微笑んでパイプを口にくわえる。
「行ってきます、お父様!」
 夢主はディオの手を引っ張って玄関ホールを駆けていく。その元気な姿にジョースター卿は安堵し、それからふと朝から息子の姿を見ていない事に気が付いた。
「はて、ジョジョはどこに行った?」
「坊ちゃまならすでにサーカスへ向かわれました」
 執事がそう報告するのをジョースター卿は苦笑混じりに聞き、パイプからゆっくりと白い煙を吐いた。




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