08


 まるで蛇が獲物を飲み込むようにゆっくりと毒されていくようだ。
 足下から忍びよる冷気は全身の毛を逆立たせ、夢主の思考の全てを奪っていく。その場を支配するのは恐怖であり諦念であり、来るべき死への絶望だった。
「……花京院、恐れることはない。友達になろう……」
 DIOの静かな声が脳内を犯していく。彼の数歩後ろでその言葉を聞いていた夢主も思わずクラクラと目眩がした。
 ひどく危険で、それでいて心から安心できるような……DIOの言葉は魔力そのものだ。
「吐き戻すほど怖がらなくてもいいじゃあないか。安心しろ……安心しろよ、花京院」
 DIOによって壁際に追い詰められ、吐き気を堪えつつ冷や汗を流していた花京院はその言葉でガクッと膝を折った。後々、自分を呪うことになるDIOに屈した瞬間だ。
 それを見たDIOが圧倒的な雰囲気をかき消すと、凍り付いた空気のすべてが正常を取り戻す。
「どうした、夢主? ……お前まで怖がることはない」
 振り向いたDIOは夢主にも優しく話しかける。大きな手が頬を撫でていく感触に夢主は止めていた息を吐き出した。
「安心しろ」
 目を細めて笑った後、彼はその場にへたり込んでいる花京院を振り返った。
「さて……話を続けるとしよう」
 邪悪な笑みを浮かべるDIOを見て、花京院はまた嘔吐しそうになった。


 夢主がDIOに抱えられてカイロ市内の夜空を飛んだのはつい先ほどの事だ。
 食事を終えてキッチンから出てきたところを捕らえられ、何の情報も脈絡も無いまま浚われるようにして外へ連れ出された。
 目的地に着いてようやく地面の上に立てた夢主は、二度目とはいえあまり経験したことのない移動方法に参ってしまった。フラフラと建物の壁に寄りかかっていると、明るく発光する看板が目に飛び込んでくる。
「ここは……ホテル?」
 カイロ市内で有名な観光客用のホテルだ。こんなところに一体何の用があるのだろう。夢主が不思議がっているとDIOは懐から何かを取り出した。
「ここにスタンド使いがいる」
 DIOの手の中でスタンドを発現させる矢のやじり部分が円を描いていた。驚く夢主を連れてDIOは施錠された屋上の扉をこじ開け、矢が示す方向に向かって静まりかえった客室の廊下を歩いて行く。
 DIOの後ろを素直に着いていくと703と書かれたプレートの前で彼は足を止めた。やじりは回転を止めて、ピタリとその奥を示している。DIOがノックした後、チェーンが掛かったドアの向こうに立つ人物を見て夢主はあっと驚きの声を響かせてしまった。
「……? 君たちは誰だ? ツアー客には見えないが……」
 長い前髪と端正な顔つき、耳に飾られた独特のピアス……エジプト観光に来ていたため彼は制服ではなく私服姿だ。そのうち承太郎たちと旅をすることになる花京院典明その人だった。
「私は君のような能力を持つ者を探し、研究している。少しばかり話を聞かせてくれないだろうか?」
 能力と聞いて花京院は素早く反応した。
「帰ってくれ」
 冷たく言い放ってドアを勢いよく閉めた。しかしDIOの怪力の前では何の意味も無かった。彼が少し力を加えただけで、バキリと鈍い音がして鍵とチェーンが無惨に壊されてしまう。
「私にも君と似たような能力があるんだ。それについて是非、教えて欲しい」
 廊下から客室へ、DIOが足を進めるごとに花京院はその分だけ後退り、次第に部屋の隅へ追いやられていった。
 夢主はDIOの後ろから入って壊れたドアを閉める。部屋には花京院しかいなかった。両親は別の場所にいるのか、夜のカイロを観光しているのかもしれない。
「そう怯えるな。悪いようにはしない」
「ぐ……」
 DIOの全身から吹き出す冷たい圧力に花京院と後ろにいた夢主は一瞬にして呑まれてしまった。一歩も動けず、DIOから目を離した瞬間に死が襲いかかってくるような、そんな恐怖だけが部屋に充満する。
「ぐぇ……」
 死と直面した極度のストレスに耐えきれず、その場に吐いてしまった花京院にDIOはようやく気配を緩める。夢主も震える足を動かしてバスルームからタオルを掴んで手渡した。吐き気に悶える背中を撫でてやれば、花京院は驚いた顔で見上げてきた。
「大丈夫……?」
「……君は……君たちは何者だ?」
 怯える花京院が心底可哀想になってくる。
「知りたいか? 知りたいのならば、まずはその椅子に腰掛けるといい」
 暗示でも掛けられたかのように花京院はフラフラと近くの椅子に腰掛けた。出会ってほんのわずかな時間だというのに、彼の顔は憔悴しきっていた。
 夢主は近くにあった水差しからコップに水を注ぎ、それを震える花京院に手渡す。DIOは一口だけそれを飲む彼を威圧的に見下ろした。
「僕の能力を……知っているんですか? これが見えるんですか?」
 花京院の背後にハイエロファント・グリーンが姿を現す。承太郎がメロンと言ったようにキラキラと輝く緑色のスタンドだ。
「ああ。私はそれをスタンドと名付けた。生命エネルギーが作り出すパワーあるビジョンだ」
「僕は……今まで同じような能力を持つ人に出会ったことがなかった……」
 DIOの得体の知れない雰囲気に恐怖しつつも、花京院は同じような力を持つ者と出会えたことを喜んでいるようだ。
 花京院はDIOの隣に立つ夢主をチラリと見た。
「もしかして彼女も?」
 夢主は頷いて見せた。花京院は感嘆の吐息を吐き出す。
「スタンド……というのか……そうか、僕以外にもいたんだな……よかった」
 見える者と見えない者、両者は心を通わせることが出来るだろうか。いや、きっと出来ない。だから花京院は友達も真に分かり合える人も誰一人として出来ないと、そう思っていた。
「限られた者にしかスタンドは発現しない。誰もが持っているわけではないのだ。そこでだ……」
 一人がけのソファーに腰掛けている花京院に、DIOは音もなく近づいて凍えるような笑みを浮かべた。
「私の力になって欲しい」
 力になる、とはどういうことなのか。花京院は怯えつつも不可解そうにDIOを見返した。
「どうしても分かり合えぬ敵がいるのだ。彼らを君のその力で退けてもらえないだろうか」
「敵……? 退ける……?」
 花京院は訳が分からず困惑する。それを見たDIOは婉曲な言い回しを止めた。
「私のために奴らを殺して欲しい。もはや二度と立ち上がれぬように、完全なるトドメを刺して欲しいのだ」
 花京院は不快感に顔を歪め、先ほどまでには無かった怒りを目に滲ませてDIOを見上げた。
「あなたは出会ったばかりの僕に殺人を行えというのか? この力をそんな事に使えと?」
「もちろん見返りは与える」
「見返りだって? 人の命を奪って褒美を望むほど、僕は落ちぶれちゃあいない」
 冷や汗を流しつつもムッとした表情を浮かべる彼に、DIOはつまらなさそうに呟いた。
「フム……どうやら貴様は向こう側の人間らしい」
 能力に溺れ、金と欲にまみれた薄汚い輩では無いらしい。DIOはベッド横に置かれたいくつかのスーツケースに視線を向けた。彼と家族の着替えやエジプトみやげが多く詰め込まれているのだろう。DIOはそれを指先でなぞり上げる。
「時に……家族旅行は楽しんでいるか? 観光客を楽しませるのは、なかなかに苦労するものだ……」
 薄く笑うDIOに花京院はサッと顔色を変えた。家族の身を案ずる彼がスタンドを出した瞬間、DIOの髪がぶわりと広がった。その異様さに花京院の反応が遅れ、彼の額に一本の肉の芽が突き刺さる。
「う、あぁッ!」
 おぞましい触手がズルズルと音を立てながら花京院の脳内へ潜り込んでいく。夢主は肉の芽が埋め込まれる瞬間を初めて目にして、あまりの生々しさから顔を背けた。呻き声が引いて視線を戻すと、ソファーにぐったりと身を預けた花京院の姿があった。髪を元に戻したDIOと目が合って夢主の体に緊張が走り抜ける。
「大丈夫なの……?」
「そのうち目が覚める」
 DIOはもはや興味を無くしたように花京院から離れ、窓枠に大きな背中を預けた。
「花京院を……彼をどうするの?」
 夢主は分かりきった事をあえて聞いてみた。
「私の手駒とし、抹消すべき因縁のために働いてもらうのだ」
「それって……ジョースター家のこと?」
 DIOはそうだと言わんばかりに頷いてみせた。
 夢主だってもちろん分かっている。だからこそ花京院を見て驚いたのだから。今は手駒でもこの先、彼は敵対する者になってしまう。承太郎の仲間になり、様々な困難を乗り越えて再びここへ帰ってくるだろう。そして今、目の前で妖しく微笑むDIOに胸を貫かれて死んでしまうのだ。
 その時のことを思うと胸が痛い。何とか出来ないのだろうか。DIOだけでなく、彼も助けられたらいいのに……
 夢主が花京院を見つめていると、彼は唸りながら身を起こした。
「う……一体、何が……?」
「大丈夫か」
 DIOが優しく声をかけると、花京院はぼうっとする頭を振って視線を向けた。彼の目がDIOとかち合うが、その目にはすでに恐怖も嫌悪もなかった。
「私はDIOという。私の力になってくれるな?」
「ええ……ええ、もちろんです。DIO……様」
「君が仲間になってくれて、私はとても嬉しく思う」
 花京院は崇拝する神の御言葉を聞くかのように、ただただ熱心に耳を傾けている。
「しかし、夜ももう遅い。君の両親も帰ってくる頃だろう。詳しい話は明日にしよう」
「わかりました」
 深々と頭を下げる花京院に夢主は空恐ろしくなった。肉の芽の威力を目の当たりにして、背筋に冷や汗がいくつも流れ落ちていく。以前、DIOに肉の芽を埋め込まれそうになった時を否応なしに思い出した。ギリギリで夢主はその支配下に置かれなかったが、もしも彼のようになっていたら……
(私もあんな風にDIOを慕うようになるのかな……自分の意志もなく、ただの操り人形として……)
 ゾッとした冷気が体の中を吹き抜ける。すぐ隣にいるDIOの存在が遙か遠くに感じられた。
 時に親しく話しても、血と命を奪い取る吸血鬼だと改めて思い知らされた気がする。彼がその気になれば夢主の命など、あっという間に消し飛んでしまうのだろう。
「行くぞ」
 DIOは立ちつくしていた夢主の手を取り、来た道を戻ろうとする。壊した扉を閉める瞬間、花京院が恭しくお辞儀をするのを見てしまった。
「夢主、アイツの名を知っているな?」
 客室が並ぶ廊下でDIOはちらりとこちらを見下ろしてくる。これまでの態度から確信したのだろう。夢主は繋がれた手に視線を落とし、それを口にした。
「花京院典明……スタンド名はハイエロファント・グリーンだよ」
 夢主の言葉にDIOはそうかと頷く。
「さて……一度、館に戻るか」
 再び屋上に足を向けた彼は、もはや当然のように夢主を抱え上げて空へと飛んだ。月に照らされた美しいDIOの横顔を眺めながら、夢主はもう決して後には引けないことを悟るのだった。



 翌日、人で混み合うホテルのフロントに現れたDIOたちを花京院は笑顔で出迎えた。
「あれから少し大変でしたが、おかげでいい部屋になりましたよ」
 さすがに壊れた扉のままで寝泊まりは出来ず、両親がフロントに文句を言って部屋を変えてもらったらしい。以前よりもグレードが上がった室内に親たちは満足そうだと、花京院は肩を竦めながら説明した。
「それは何よりだ。話はあちらでするとしよう」
 DIOに促されて夢主と花京院はロビーラウンジに足を向けた。大きな窓の向こうに緑と噴水が望めるそこは夕食時とあって人影はまばらだ。角の目立たないところに腰掛け、運ばれてきた飲み物をそれぞれが一口飲んでから会話を再開した。
「さて……まずは君の事を知りたい」
「分かりました」
 DIOの質問に花京院はためらいなく答えた。日本のどこに住み、学校や日常ではどう過ごしているのか。家族関係からスタンド能力まで、知っていること全てを彼は正直に話した。
「生まれついてのスタンド能力者か……それはいい」
 矢で射貫いた者よりも幼い頃からスタンドの扱い方を知り、経験を積んでいる方が熟練者だ。DIOがほくそ笑むその横で夢主は運ばれてきた紅茶と甘い菓子を口にする。しかし花京院の話を聞けば聞くほど、味が分からなくなっていくようだ。
「今度はDIO様の敵をお教え下さい」
 肉の芽が埋め込まれた花京院の存在意義はDIOのために働くこと、その一つしかない。
「話せば長くなってしまうので詳細は省くが……奴らの身元はすでに分かっている」
 目を輝かせる花京院に向けてDIOは二枚の写真をテーブルに放った。そこにはジョセフと承太郎の姿が映り込んでいる。花京院は手にとって眺め、それぞれの特徴を記憶に留めた。
「なるほど。彼らが……」
「詳しいことは部下が知らせる。まずはエジプト観光を楽しんで日本に帰るがいい」
 DIOの言葉は意外だったようだ。すぐにでも行動に移すつもりだった花京院はわずかに驚いている。
「ですが……」
「そのうちの一人はお前と同じ国に暮らし、同じ年代の学生だ。殺す機会はいくらでも巡ってくるだろう」
「……分かりました。では、三日後に帰国した際はすぐに転校届けを出し、探りながら近づこうと思います」
「期待している」
「はい。どうぞお任せ下さい」
 DIOの気のない声に花京院は恭しく頷いて、二枚の写真を懐に仕舞い込む。
「話は以上だ」
 そう言い残して立ちあがるDIOを見て夢主は慌ててカップを戻す。しかしDIOは彼女が同じく立ちあがろうとするのを制した。
「向こうに知り合いを見かけた。しばらくここで待っていろ」
「え……、いいの?」
「花京院、こいつの相手を頼んだぞ」
「分かりました、DIO様」
 素直に頷く花京院に夢主を任せ、DIOはラウンジの反対側に悠々と歩いていった。すぐに民族衣装を着た何人かがDIOを取り囲み親しそうに会話をする声が聞こえてくる。
「彼らは石油で財を成した一族の者ですよ」
 意外そうにDIOを見つめる夢主に花京院がそっと話しかけてくる。
「そうなの?」
「DIO様の部下になれた喜びをああして伝えているのでしょう」
 花京院の言葉に夢主の背中が震えた。遠く離れているのでここからは見えないが、彼らの額にも花京院と同じ物が埋め込まれていると思うと薄ら寒くなってくる。どこからか調達してくる資金は彼らからの貢ぎ物なのだろうか。ここに暮らす人々の貧富の差が大きければ大きいほど、DIOは多額の金とそれに目が眩んだ者を手に入れることが出来るのだろう。
 離れたDIOを見つめながら沈黙する夢主をどう思ったのか、花京院はすぐに話題を変えて明るい口調で話しかけてきた。
「ところであの……僕、スタンドが見える人とこうして話をするのは、実は今が初めてなんです。DIO様やあなた以外にもこれを持つ人は居るんでしょうか?」
「大丈夫、他にもたくさんいるよ。花京院くんと友達になれる人は必ず居るから安心してね」
 友達という単語に花京院は年相応の笑顔を見せる。
「私、夢主。これからよろしくね」
「こちらこそよろしくお願いします。えっと……夢主様、と呼べばいいのでしょうか?」
「いいよそんなの。敬語も使わなくていいから」
「さすがに初対面の人を呼びつける勇気はないので……夢主さんでいいですか?」
「うん、もちろん」
 花京院に名を呼ばれると何だかくすぐったい気分になってしまう。そのうち光の側に戻ってしまう彼は、その時でも自分のことを覚えていてくれるだろうか。
「夢主さんもDIO様の部下ですか?」
「うーん……部下と呼ばれるほど働いてないけど……」
 言葉を濁す相手の顔を見て花京院は質問を変えた。
「ではDIO様の……恋人?」
「えっ……!? ち、違うよ!」
 とんでもない発言に夢主は焦りながら否定する。
「親しく見えるかもしれないけど、本当にただの客人だから」
 ほんのりと頬を染め、必死で訂正するその様子に花京院はクスッと笑った。そんな彼を横目に夢主は一度気を落ち着かせるために紅茶を飲む。咳払いをしてから再び会話を戻した。
「花京院くんは……エジプト観光に来たんだよね?」
「ええ、両親がどうしても行きたいと言うもので」
「じゃあピラミッドは見た?」
「この前に見ましたよ。ギザのピラミッドでしょう? すごく大きくて感動しました」
「いいなぁ……カイロ博物館は? ツタンカーメンは見たの?」
「ツアーに組み込まれていたので。教科書で見るのと自分の目で見るのではやはり違いますね」
「本当? うわぁ、見てみたい」
「折角だから行ってみてはどうです。ここからそれほど遠くもないでしょう?」
「うん、でも……一人で行くには道を知らなさすぎるというか……」
「なるほど。僕が連れて行きたいところですが……生憎、僕もただのツアー客ですからね」
「ガイドさんがいないと心配になるよね」
「博物館もいいですが、ナイル川を下る遊覧船も素敵でしたよ」
「遊覧船?」
「たしかパンフレットが……ああ、これです」
 花京院は私服のポケットから小さく折り畳まれた観光紙を取り出し、それをテーブルに広げて見せた。
「市内から船が出ているんです」
「わぁ……楽しそう!」
 目を輝かせて内容を読みふける相手に花京院は笑顔を浮かべる。これまで日本にいても、ここまで飾らない態度で人と接した事がなかった。素直な気持ちになれる自分が不思議で、清々しいほどに心地よく思う。同じ能力者になら何も隠さなくていい。もう一人きりではない。孤独で頑なだった心の箍が外れたせいだろう。
「とても楽しかったですよ。夢主さんもぜひ」
 嘘偽りのない笑顔を向けて、花京院は密かに安堵のため息をついた。

 そうしてエジプト観光に花を咲かせる二人を会話を済ませたDIOは少し離れたところから眺める。
 紙面を指差して楽しそうに笑う夢主の表情に自分でも気付かないうちに眉を寄せた。花京院とは会ってまだ二度目だというのに、同じ国の生まれという共通点のおかげで早くも親しくなったようだ。そこに自分に向けられたような恐れや怯えは見いだせない。彼女に特別だと告げ、腕輪を贈ったときのような顔をもう一度見たいと願うDIOの前で、花京院にはあっさりとそれを向けてしまえるらしい。
「……フン」
 得体の知れない不快感を吹き飛ばすように鼻で笑って、彼らの元へ近づいた。
「あ、DIO。もう話はいいの?」
「帰るぞ」
 夢主にそう言い捨ててすぐに背を向ける。慌ただしく席を立つ様子を背後にDIOはラウンジを後にした。
「そのパンフレット、よければどうぞ」
「いいの? どうもありがとう、花京院くん」
「いえ、それではまた……」
 深々と頭を下げる彼を見届けて夢主は数歩先を行くDIOを追いかけた。何を考えているのか分からない無表情な彼と共に花京院が宿泊するホテルから外に出る。
 彼が帰国した数ヶ月後には、戦いを通して友人になった承太郎たちと再びこの地を目指すだろう。敵対するその時を思うと胸が締め付けられるようだ。
(彼と戦うことになったらどうしよう……)
 見納めになるかもしれないその姿を求めて振り返るが、DIOが伸ばしてきた太い腕に体を絡め取られて、夢主はあっという間にカイロの空へ連れ去られていた。



 花京院と話を終えた翌日、いつもと変わらない生活を送っていた夢主の前でゆっくりと人が倒れていく。床に頭を打ち付ける鈍い音が鼓膜を振るわせ、立ち止まった足に向かって血がドロリと流れてきた。
 何事もなくそのままスッと通り抜ければよかった……後悔しても遅いのは分かっていても思わずにはいられなかった。
 血を大量に吸われて人が息絶えていく姿を目の当たりにした夢主は、自分も同じように血の気が失せていくのが分かった。
 DIOは館のあちこちで食事を行う。今まで夢主がその場面を見なかったことが奇跡というよりも、客人を迎えた館を綺麗に保つ役目を負ったアイスの存在が大きいだろう。
 呆然と立ちつくす彼女の後ろからアイスがふらりと現れて、命の残骸を彼のスタンドが飲み込む。吸い残した血が床に大きな染みを作っていた。
「夢主様」
 アイスがそう呼ぶようになって何日が過ぎただろう。夢主がここに来てからずっと敵愾心しか感じなかったのに、いつしか心を込めてそう呼ぶようになった。彼の中で何があったのかは分からないが、DIOとはまた違った威圧感が消えたことは単純に嬉しかった。しかし……アイスはテレンスと違って愛想笑いの一つも浮かべないので、やはり何を考えているのかさっぱりわからない。
「は、はい」
「見苦しいものをお見せして申し訳ない」
 人一人の命を彼らは見苦しいものと言ってしまう。この館の中で命ほど軽く扱われているものはない。
「いえ……」
 彼らは命を奪うことに慣れている。自分は本当に何も知らない普通の生活を送る一般人だったのだと痛いほどに思い知らされた。過去形なのはそんな彼らを見ても問い詰めたり、止めろと制止しない……することが出来ない自分も同罪だと分かっているからだ。
「夢主」
 女が消えたその先でDIOがこちらに顔を向けた。どんな暗闇でも覆い隠すことが出来ない赤い目でアイスと夢主を見ている。
「来い」
 DIOは夢主に近づいて強張った体をぐいっと引き寄せた。服にべったりと血糊が着いても彼は気にも止めない。促されるままに夢主は歩くしかなかった。
 すぐ近くの図書室に連れ込こまれ、一人掛けの椅子に無理矢理に座らされる。彼にとっては軽く押した程度なのだろうが、その力は強大で夢主は背もたれに頭を打っただけでも脳震盪を起こしそうになった。
「怖いか? 私が」
 二メートル近くもある巨体を折り曲げ、凍てついた表情で覗き込んでくる様は確かに恐怖だ。そうでなくてもDIOは吸血鬼、女を道具と食料にしか思わない彼を酒の力無しでどうすれば怖がらないで済むだろう。
「目の前で人が亡くなれば……誰だって怖いよ」
「何だ、初めて見たのか?」
 息を飲む夢主をDIOは愉快そうに見下ろす。指先で長い前髪を払い、目を合わせてくる彼に夢主の視線と心は吸い寄せられてしまった。
「さっきの人……とても嬉しそうだったね。普通、あんな風には死ねないと思う」
 催眠状態なのか、それともDIOのカリスマが成せる技なのか、女は陶酔した表情でDIOに血と命を捧げていた。止めてと叫ぶことも嫌だと泣きわめくこともなく、ただ目にDIOの顔を焼き付けながら死んでいった。
「……そうだったか?」
 命を奪ったくせにDIOは何も感じていないようだ。本当に食事をしたというだけなのだろう。
「少しだけ羨ましいな」
「死に方を羨むとは愉快な奴だな……安心しろ、お前が死ぬ時は私がすべてを奪い取ってやる」
 これ以上ない殺し文句に夢主はDIOの方こそ面白い人だと思う。
「本当?」
「ああ。血も一滴残さず、すべてを喰らいつくしてやろう」
 彼なら本当にするだろう。そんな死に方も案外悪くないかもしれない。その時のうっとりとした自分の顔を思い浮かべると可笑しさが込み上げてきた。
「……」
 DIOはその様子に目を見張り、書物に囲まれた部屋に小さな笑い声が響くのを耳に拾い上げる。
(何だ、簡単ではないか)
 人の心を引きつける術は何も恐怖ばかりではない。その事を改めて知ったDIOは相手の髪をそっと一撫でする。
「何?」
 夢主が笑いを押し戻しながら見上げれば、彼はいつにも増して美しい笑みを湛えているではないか。優しい目元に驚く夢主をその場に置いてDIOはスッと背中を向けた。
「食事の続きをする。お前は……この場を好きに使うがいい」
 そう言い残してDIOは再び暗闇の中に溶け込んでいった。




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