07


 深夜、DIOがふらりと外へ出て行くのを夢主は風呂場の小さな窓から確認した。
 彼にとって夜こそが活動時間だ。DIOの昼夜逆転生活に無理矢理付き合わされた結果、夢主も日の出が近くなると眠気が訪れるようになってしまった。だから夢主にとって夜は朝に等しい。日が落ちると共に、快適に過ごせるガラベーヤに着替えて朝食を取り、館内でゆっくりと過ごすのが日課になっている。
 テレンスと一緒に紅茶を飲んだあの日以降、彼と世間話を交わしたり、勝てた試しはないがゲームの対戦相手をしているうちに少しは打ち解けてきた。未だに客人扱いなのはDIOに仕える執事として仕方がない事だろう。
「おはようございます、テレンスさん」
 階段を下りると夢主はすぐにキッチンへ足を向けた。朝食の間に一人で居るよりは誰かと一緒の方がいい。プッチと食事を共にしてから強くそう思うようになった。夢主は渋るテレンスにお願いして、彼らと同じダイニングの控え室で食事を取れることになった。その方がずっと気楽だからだ。
 ドアを開けて中の様子を見ると、フライパンを手にしたテレンスと椅子に腰掛けた見慣れない背中がある。カウボーイが使用するテンガロンハットにウエスタンブーツ、まるで西部劇のような出で立ちの男だ。
「ン? どうした、姉ちゃん?」
 彫りの深いニヒルな表情が格好いい。煙草をくわえた姿がやけに様になっている。
「あっ」
(ホル・ホース!)
 思わぬところで彼と出会って危うく名を呼びそうになった。
「おや、夢主様。おはようございます」
 笑顔で朝の挨拶をするテレンスにホル・ホースが目を大きく見開いた。
「テレンス……お前、今なんて言った?」
「夢主様、おはようございますと言いましたが……何か?」
 ホル・ホースは目を何度も瞬かせ、夢主の顔を穴が開くほど見つめてくる。
「こんな小娘になんで様なんか付けるんだぁ?」
「言葉に気を付けて下さい。夢主様はDIO様の客人ですよ」
「なんだと? オイ、客人と言ったのか?」
 テレンスはその言葉を無視し、夢主のためにホル・ホースの隣の椅子を後ろに引いて待ってくれる。
「さ、どうぞ」
「ありがとうございます」
 夢主はそそくさとその椅子に座る。ホル・ホースが横から凄い目つきで睨んでくるので居心地はあまり良くない。
「客人だとぉ? 俺は聞いてねぇぜ」
「それはそうでしょう。言ってませんから」
「ケッ」
 ホル・ホースはテレンスが作った食事を掻き込むようにして食べた。テレンスはこうして、たまに館を訪れる部下達のご飯まで用意しているようだ。
「はじめまして、夢主です」
 挨拶はしておいた方が良いだろう。彼のキャラクターは愛すべきものだし、嫌いにはなれなかった。
「お、おぅ……ホル・ホースだ。よろしく頼むぜ」
 小娘などと言ってしまった手前、ホル・ホースはDIOに言いつけられやしないかと戸惑った表情を浮かべている。
「ホル・ホースさんもスタンド使いなんですか?」
 彼がエンペラーの拳銃使いだともちろん知っているが、無難な話題としてそんな質問を投げかけてみた。
「ああ。ってことはあんたも?」
「それが、まだ上手く出せなくて……どうやれば上達すると思います?」
 夢主の言葉にホル・ホースは苦笑を浮かべる。
「どうやれば、ねぇ……そんなこと考えたこともねぇな」
 ホル・ホースは不意に右手を大きく広げ、メギャン! という音と共に拳銃のスタンドを見せた。
「わっ! 格好いい!」
 素直に喜ぶ夢主を前にしてホル・ホースは得意げな顔付きでニヤリと笑った。
「こんな事も出来るぜ」
 クルクルと拳銃を回してキャッチする曲芸を見せた後、キッチンの上に置かれた空のワイングラスを背中から派手な音をたてて撃ち抜いた。
「わぁー! すごいすごい!」
「……ホル・ホース、いい加減にして下さい」
 グラスを破壊されたテレンスの頬がぴくぴくと痙攣している。散らばったガラスの破片を片付けるのは彼だ。
「悪い悪い」
「夢主様もあまり彼を乗せないようお願いします」
 箒を手にしたテレンスがため息をついている。
「ごめんなさい」
 しかし間近で見ることが出来たホル・ホースのスタンドに興奮するなという方が無理だろう。
「本物の拳銃みたい。本物を見たことないけど……でもこれがスタンド……」
「要は精神力の問題だ」
 ホル・ホースは再びエンペラーを回して見せ、そのうち手の平にフッと吸い込まれるように消して見せた。
「スタンドってのは出来て当然なんだぜ。俺らにとっては」
 フフンと笑うホル・ホースを夢主は見つめ上げる。
「出来て当然……」
 精神力もそうだが、エンヤ婆の言う認識が大事なのだろうか。
 この世界の人間ではないと思っているからいつまで経ってもスタンドが発現しないのかもしれない。
「ま、せいぜい頑張るんだな、お嬢ちゃん」
 そう言って彼は大きな手で頭をぐりぐりと撫で回してくる。
「ホル・ホース、夢主様に気安く触らぬように」
 破片をゴミ箱へ捨て、箒を元の場所へ戻したテレンスが女たらしな彼の行動を注意する。ホル・ホースはぴたりと手を止めて執事を振り返った。女で、客人で、触れてはならない存在……
「まさか……オイ、本気か?」
「おそらくはそうでしょうね」
 ミドラーに見せたDIOの怒りは本物だった。まだ清い関係のようだが、心は確実に近付いているように見える。気付いていないのは本人たちばかりで、一歩引いた外野から見れば一目瞭然だ。
「マジかよ……」
 ホル・ホースは帽子の鍔先を下げつつ、その向こうに夢主の顔をちらりと覗き見た。確かに可愛いが、普段DIOが侍らせている色っぽい女たちとは好みが違いすぎだろう。
「?」
「正直なところ見くびっていたが……俺が悪かった。ま、仲良くしようや」
 話について行けない夢主が首を傾げる前で、強い方につくことを信条にしているホル・ホースは愛想良く笑いかける。
 そんな実に彼らしい姿にテレンスは肩を竦めて料理の続きを開始した。


 ガンマンのホル・ホースと楽しい食事を終えた夢主は、その足で埃だらけの図書室に向かった。
 読書家のDIOが買い求めたのか、それとも前からここにあったのか、壁一面を覆い尽くす書籍の量には毎回、圧倒される思いだ。あちこちに張られたクモの巣をかいくぐり、夢主が手にした燭台で本棚を照らしていると不意に部屋の隅でカタッと物音がする。
 振り向くと同時に一陣の風が巻き起こり、頬のすぐ横を何かが掠めていった。
「ひっ……」
 息を飲む夢主の手から燭台が落ち、大きな音を立てて転がった。消えゆく炎が髪を逆立てた一人の男性の姿を映し出す。
「女か……すまない」
 そう言って謝ってきたのはフランス人のジャン=ピエール・ポルナレフだった。銀色の甲冑を身に着けたシルバーチャリオッツが夢主に向けたレイピアをスッと下ろす。
「大丈夫か? 傷つけるつもりはなかったんだ」
 心配そうに顔を覗き込まれても夢主は驚きすぎてなかなか返事が出来ない。頬にじわりとした痛みを感じたところで、彼に斬り付けられたことを理解した。
「本当にすまない」
 焦った様子でハンカチを取り出し、血が滲む頬に押しつけようとしてそれがひどく汚れていることに気付く。慌ててポケットに戻した後、他に拭う物はないかと体中を調べる仕草がコミカルだった。
「大丈夫ですよ。気にしないで下さい」
 夢主がそう言うと、彼はホッとしつつ場を取り繕うように笑った。
「君は……DIOの女か? それとも部下か?」
 相手にチャリオッツが見えた事を確信したポルナレフは、訝しむように全身を眺めてくる。
 この館で夢主の立ち位置は客人だ。DIOから命令されたり、抱かれることも無い。ただ彼の横で過ごして、時々、会話を楽しむだけの平和な関係が続いている。
「えっと、DIOの……客人です」
「客人? そうか……まぁ何でもいい。君は何故ここへ?」
「本を借りにきました。あなたは?」
「俺は……DIOに会いに来た。彼に捜し物を視てもらいたくてな。あちこちを探し回っているんだがどうにも見つからない」
 両腕が右腕の男、J・ガイルの事だろう。妹の敵討ちの情報を得るためにここを訪ねたらしい。
「そうですか……でも、DIOはどこかへ出かけてしまって今は居ないですよ」
 夢主の言葉にポルナレフは無念そうに表情を曇らせる。
「……ごめんなさい」
「君が謝る必要はないさ。それよりも驚かせてしまって悪かった」
 不在を聞いたポルナレフは仕方なく去っていこうとする。その背があまりに哀愁を帯びていたので、夢主はつい口が滑ってしまった。
「探している人ならきっと会えますよ」
 ポルナレフの反応は早かった。勢いよく振り向くと夢主の両肩をガッシリと押さえ込んできた。
「今、何て言った?!」
 ポルナレフに力強く掴まれたところがぎりぎりと痛い。夢主が苦痛の表情を浮かべたことに気付いて、ポルナレフはすぐに手を離した。
「悪い……だが分かるのか? 俺が誰を捜しているのか? 何か知っているのか?」
「あの、ちょっと落ち着いて……」
 あまりに鋭い眼光に気圧されて夢主はポルナレフから後ずさる。
「頼むッ! 何でもいい、教えてくれッ!」
 その場に片膝をついた彼は救いを求めるように必死に見上げてくる。
「わ、分かりましたから……お願い、跪かないで!」
 夢主は慌ててポルナレフの体を押し止めた。彼は夢主の言葉を一言も聞き逃すまいとする。
「近いうちにきっと……いえ、必ず会えますよ」
 彼がジョースター側の一員になれば物語はそのまま進んでいくだろう。そのうちさっき会ったホル・ホースたちと戦う事になるはずだ。
「君は占い師なのか?」
「……そんなところです」
 夢主は思わず目を泳がせてしまった。これ以上、彼と関わっていたら全部話してしまいそうになる。
 もし、そうしたらどうなるだろう? J・ガイルを探し出すことは簡単だろう。しかし倒すことは出来るだろうか? ……きっと駄目だ。アヴドゥルと花京院がいてこそ敵討ちが出来るのだから。
「Merci beaucoup」
 フランス語でありがとうと呟くと、彼は先ほどまでの気配を一変させて、実に晴れ晴れとした陽気な表情を見せた。それだけなく、夢主の手を素早く掴んでそこにキスを落としてくる。
「!?」
「今度会うときは君との恋路を占ってくれよな」
 驚く夢主を余所にポルナレフはウィンク一つを残し、図書室の外へ颯爽と出て行った。
 その気分の転換の早さに夢主は唖然となるしかない。彼が去って一人になったところで大きく息を吐いた。
 承太郎の仲間になるポルナレフとまさかこんなところで出会うとは思わなかった。
 夢主はドキドキと逸る胸を押さえる。彼ともう一度会ってみたい気もするが、それはいつになるだろう。もしかしたら次に会うのは……ヴァニラ・アイス戦かもしれない。
 その時のことを考えると暗い思考に陥りそうになる。
(……だけど、もうここにいるしかない)
 マライアの言う覚悟を決める時がじわじわと迫っている気がした。
 


 最近では館のどこに居ようとも彼女の匂いが漂ってくるように思う。
 夢主が持つ血の香りは吸血鬼になったDIOにとって心地よく、抗いがたい誘惑を含んでいる。とは言っても身を裂いて全身からそれを吸い上げようとは思わない。ただ近くに居るだけで穏やかになる自身を不思議に思うが彼女の存在に癒やされているのは確かで、首の繋ぎ目がジクジクと痛む日などは隣に置いて離したくないとすら思ってしまう。
 外から戻ったDIOは迎え出たテレンスに上着を手渡しつつ上階から流れてくる香りの先を目で追いかけた。
「お帰りなさいませ、DIO様。館内は何事も無く、夢主様は就寝中でございます」
 頭を下げて報告するテレンスを横目にDIOは階段に足を掛ける。
 暗がりを歩いて二階の寝室に辿り着くと音を立てないよう静かに扉を押し開く。ロウソクが揺らめく中を歩いて中央に置かれたベッドへ近付いた。
 色気を感じさせない寝衣に身を包んだ彼女は、太陽の光を浴びなくなったせいか少し顔色が悪いように思えた。
「ん〜……」
 夢主はDIOの気配に気付かず寝言を呟きながら寝返りを打つ。顔を枕に押しつけ、幸せそうに眠りを貪るその姿に思わず笑みがこぼれてしまった。
「……呆れた奴だ」
 ふと、苦笑するDIOの目に一筋の傷跡が飛び込んできた。鋭い何かで頬を切ったらしい。それを見咎めた瞬間、DIOの笑みはかき消えて険しい表情になる。
(これに傷をつけたのは誰だ?)
 異変はなかったとテレンスは言うが、どういうことなのか。
「気に食わんな……」
 完成間近の帆船を故意に壊されたような、抑えきれない不快感がDIOの胸に渦巻く。女に対してそんな感情を持つのは初めてでわずかに戸惑うが、それを塗りつぶすように腹立たしさが込み上げてきた。彼女に触れて愛でるのは己だけ。傷つけて壊すことが出来るのも、もちろん自分だけだ。
 DIOは体の一部を操作して、獣のように鋭く尖らせた爪先を相手の頬に押し当てる。傷跡に重なるよう横にスッと動かせば、みるみるうちに血が盛り上がってきた。
「……?」
 眠りの中で痛みを感じた夢主が目を開くと、すぐ側にDIOが立っていた。視線を合わせると赤みを帯びていた目が次第に普段の色へ移り変わっていくのが見えた。
「DIO?」
 彼はいつ帰ってきたのだろうか。気配を感じさせない相手の帰宅に驚き、体を起こそうとすると肩を押さえ込まれてしまった。
「この傷は何だ?」
 親指で撫でられたところがぬるりと滑っている。不思議に思った夢主が指を伸ばすと手に血が付いてきた。ポルナレフに斬られた傷口が寝ている間に開いたのだ、と彼女はそう思い込む。
「うわ……、何か拭くものを……」
 寝具を汚しては一大事だと夢主は周囲を見渡す。そんな相手を無視してDIOは再び問いかけた。
「誰にやられた? 私の命令が聞けない愚かな部下は誰だ?」
「えっ」
 凍てついた気配を漂わせるDIOを見上げて夢主は硬直した。意に反することされて不機嫌そうな相手に、素直にポルナレフの名を告げたらどうなるのだろう。夢主は視線をさ迷わせつつ、とっさに思いついた嘘を口にした。
「これは……あの、紙で切ったの。暇だからアラビア語でも覚えようかなって……。それで、要らない紙を探してたらいつの間にかこうなってたの」
「……ほう?」
 嘘で誤魔化して誰かを庇おうとしているらしい。それがまた腹立たしく、DIOは相手を見下ろす目を細めた。
「そうか……それは災難だったな」
 そう言ってベッドに片膝を乗せ、両手をシーツに突いたDIOは驚く相手の顔に向かってゆっくりと身を屈めた。
「え? なにを……」
 ギシリと軋む音に既視感を感じながら、夢主は麗しい顔が近付いてくるのを怯えた様子で見上げる。避けようとしても枕がある以上どうにもならず、横を向くことで妖しい雰囲気を漂わせるDIOから逃げようと試みた。吐息が肌を伝い落ちていく感覚に身を震わせていると、柔らかいものが傷のある頬に押しつけられてしまった。
「ひゃっ……ちょっと……、やだっ」
 DIOの少し冷えた唇の感触に飛び上がってしまった。ふわりとした黄金色の髪が赤くなる夢主の顔を覆い隠してくる。相手を押し返そうとしても、体重を掛けられては身動きすら取れない。驚きと羞恥で高鳴る胸の音が相手に聞こえそうな程に近かった。
「やめて……! 私、美味しくないよ! それにほら、約束したでしょ!」
 頬を舐められる感触に身悶えする。夢主が震えながらそう叫ぶと、弄ぶように動いていた唇が動きを止めた。
「……お前は何を勘違いしている? この私が女に不自由していると思うのか?」
 その言葉に相手を見上げると、DIOは心外だと言わんばかりに口元をへの字に曲げて冷たく見下ろしてきた。
「私の誓いの言葉を疑うとは……酷い奴だ」
 瞬きを繰り返す夢主にDIOは傷ついたような顔を見せた。それでも、頬を撫でてくる指がとても優しくて夢主は混乱する。
「そ、そんな事は……だって、じゃあ……」
「この傷を治しただけだ。勘違いさせて悪かったな」
 吸血鬼の再生能力を少しだけ与えて、自分と誰かが与えた傷跡を消し去った。血の味と抗う様子をたっぷり堪能したことは伏せつつ、DIOはわざとらしい大きなため息をついてみせる。
「あ……ご、ごめんなさい……」
「フン……」
 恥じ入る夢主からの謝罪をDIOは鼻先で笑い飛ばす。そしてプイッと顔をそらし、逞しい背中を向けてベッドの反対側に寝転んだ。
「ごめんね、DIO……違うの、だって急にあんなことされたら誰だって驚くでしょ? それにほら、先日だって……」
 隣の部屋で女と戯れていた彼を思い起こすのは簡単なことだ。餌が不足して色々と餓えているのだと思っても仕方がないだろう。
「先日? 何のことか分からぬ」
 冷たい口調で言い放たれて夢主の胸がひどく痛んだ。
「あの……DIO……、本当にごめんなさい……」
 背中に伸ばしかけた指が静止し、そこからどうしていいか分からず彷徨っている。それを気配で感じたDIOは笑いが込み上げてくる口元を密かに押さえた。何も知らず、こちらを気遣う相手が愚かで愛らしい。もっと手酷く虐めてみたいと思ってしまうではないか。
「悪いと思うのなら、行動で示してもらおう」
 そう言ってちらりと振り返った先に、今にも泣いてしまいそうな情けない顔をした夢主と目が合った。
「行動……」
 同じように頬へのキスで許してやろうと考えるDIOとは裏腹に、彼女は意気込む様子を見せてあっさりとベッドを降りてしまう。
「……? オイ、どこへ行く?」
「待っててね、今日はもうどこにも行かないで!」
 彼女に言われるまでもない。太陽が昇り始める前にDIOは帰ってきたのだから。
 思惑とは違い、一人残されてしまったDIOは再び眉を寄せ、ため息を吐いてベッドへ沈み込んだ。


 ……それから数時間後。
 部屋を出て行った夢主が再び戻ってきた。DIOはそれを気配で知るも、捨て置かれた意趣返しだとばかりに素知らぬ振りを決め込む。テーブルに何かを置いてこちらに近付いてくる様子だけが耳に届いた。
「DIO……まだ寝てる? もうすぐ夜が来るけど……」
 彼は何時まで眠るつもりだろうか。揺り起こすべきか躊躇う夢主の手を、DIOが素早く捉えた。
「何の用だ?」
「わ……、睡眠を邪魔してごめんなさい。ねぇ、起きてるならこっちに来て」
 DIOはのそりと体を起こし、訝しそうに彼女を見つめる。それでも言われるがままに着いていくと、以前、夢主の話を聞いた際に使った一人掛けのソファーへ導かれた。花を飾ったローテーブルには大きめのポットにカップ、それから甘い香りを放つデザートが用意されている。
「……これは?」
「座っててね。紅茶を入れるから」
 DIOは無言で腰掛け、目の前で茶の用意をする夢主を憮然と眺めた。
(この私を菓子ごときで懐柔するつもりか?)
 子供を手懐けるような方法が自分に通用すると思っているのだろうか。
 人間を辞めてから味覚が変わってしまったDIOには、人が食べるような食事は味気なく、口に含んでももはや旨味など感じない。血と精気だけが主食となった今では甘味も分からぬままだろう。
「テレンスさんに無理を言って一緒に作ったの。DIOは嫌いかもしれないけど……これぐらいしか思いつかなくて」
 ジョースター家でよく食べたスコーンとジャム、茶色い焦げ目が付いたプティング、それから一口サイズのフェアリーケーキにはチョコレートで文字が書き連ねてある。DIOはそれらを手に取って文面に目を落とした。
「……」
 一つ目にはごめんなさいの謝罪、二つ目にはここで暮らせる感謝の言葉、三つ目は綴りを間違えながらも敬愛の文字があった。そして最後にひときわ文字が歪んでいるものに指を伸ばすと、ついニヤリとした笑みがこぼれてしまった。
「私と仲良くしたい、か」
 すべてに目を通した後で夢主の顔を窺えば、相手は恥ずかしそうにしながら湯気の立つカップをDIOの前へ置いた。
「勘違いしてごめんなさい。……許してくれる?」
 不機嫌だったのは本当だが、怒ってみせたのは演技だ。その言葉にDIOは仕方なさそうに微笑んで紅茶に口を付けた。
「!」
 いつもならどれほど濃く入れても水を飲んでいるような味がするのに、今日に限って豊かな茶葉の香りがする。驚きに目を見開くDIOを向かい側で見た夢主はギクリとした表情で固まった。
「あ……やっぱりワインにした方がよかった? ……口に合わない?」
 焦る相手を無視してDIOは小さなケーキを口の中に放り込む。バターと卵の香りが鼻をつき抜け、久しぶりに感じた甘い砂糖に舌が溶かされるようだ。
「うぅむ……」
 低く唸りながらも、食べることを止めなかったDIOを見て夢主は胸を撫で下ろす。テレンスの言うとおりに作って良かった……ただそれだけを思った。
「これらをお前一人で作ったのか?」
「ううん、テレンスさんに手伝ってもらったよ。私より上手でしょう?」
 安堵する夢主を見つめながら、DIOは味覚の変化に思いを馳せる。今まで執事の料理でこうはならなかった。一時的に人間の舌を取り戻したのだろうか? これもやはり彼女を側に置いているからだろうか?
「注いでくれ」
「! はーい!」
 嬉しそうな返事をして空になったカップへ紅茶を注ぎ足す。
 許してくれたらしいと安堵する夢主の目に、DIOの背後で空気が大きく揺らぐのが見えた。空中に女の人の姿が映し出されてぎょっとするも、そのすぐ横に以前に見た自分のスタンドが立っていて、これはその能力なのだと思い知る。
 見知らぬ女は小さな子供を膝上に乗せて本を読んでいた。体の具合が悪いらしく、咳を繰り返しては声を詰まらせている。金髪の子供はそんな母親の背中をさすって不安そうに気遣っていた。
 フッと場面が切り替わり、母親と子供はテーブルの前で何かをお祝いするような食事を取っていた。手作りの焼き菓子を二人の親子は幸せそうに微笑みながら食べている。
(……その子供、ディオなの?)
 スタンドは頷いた。
(DIOの思い出を見せてるの?)
 そうだと言うように再び頷く。そんなスタンドから夢主は目が離せない。
 黙々とスコーンを食べているDIOは何も言わないが、心の中では過去を思い出しているらしい。これらの菓子はそのきっかけを与えてしまったようだ。
 忘れたくないのか、忘れられないのかは分からないが、百年を経た今でもそれだけは鮮やかなようだ。
 スピードワゴンはDIOのことを根っからの悪党だと断言したが……それでも形見のドレスを売られて激怒する程には愛情があったのだろう。
(……そう信じたい)
 小さなディオの姿を最後に思い出は空気に溶けて消え、後はただ紅茶から立ち上る湯気がその場に満ちている。
 背後の暗闇からDIOへ視線を戻すと、唇の端にジャムを付けた彼と数秒間、見つめ合ってしまった。盗み見た気まずさを隠すように、明るい声で話しかけてみる。
「どう? 美味しい?」
「フン……まぁ、不味くはないぞ」
 そう言いつつも心なしか嬉しそうな表情を見せてくれる。夢主は胸に広がっていく喜びを押し殺し、三杯目になる紅茶を相手のカップに注ぎ入れた。



 お詫びを兼ねた夜のお茶会を楽しんでからというもの、朝食を食べている夢主のところへDIOが顔を出すようになった。最初、朝食の間ではなくキッチン横の小部屋で食事を取る夢主を見て、
「……私は客人の扱いをしろと言ったはずだが?」
 そう言ってジロリと執事を睨み付けた。
「誰も居ない広い部屋より、こっちの方が落ち着くからいいの」
 顔色を失うテレンスの代わりに夢主がここで食事を取る理由を述べると、DIOはそんなものか、と呟いてそれ以上責めることはなかった。
 館へやってくる部下たちが運悪く鉢合わせてギョッとする中、DIOは夢主の隣に腰掛けてテレンスが用意した紅茶やワインを傾ける。時折、夢主が食べているパンやサラダをつまみ食いしては、しみじみとした表情で料理を眺めているのだった。
「夢主、欲しい物はないか?」
 今日もふらりとやってきたDIOが部屋に入るなりそんな事を言った。
 パンを口にしようとしていた夢主はそれを止めて、隣の椅子に腰掛ける彼を見上げて聞いた。
「……欲しい物?」
「ああ。服でも宝石でも、何でもいいぞ。言ってみろ」
「そう言われても……服は買ってきたのがあるし、特に何も無いよ」
 その返答はお気に召さなかったようだ。DIOは少し眉を寄せ、指先でテーブルをコツッと叩いた。
「宝石も要らぬというのか?」
「だって無くても困らないでしょ? それに私が身に着けても不相応だよ」
「……そうか」
 どこか不満そうに呟いた後、夢主が紅茶を傾けている間にDIOは不要になった輝く塊を背後に向けて放り投げた。それを慌てて受け止める執事の気配を無視し、のんびりと朝食を楽しむ夢主の横顔を眺める。
「本当に欲しい物は無いのか……? せめて、一つくらいはあるだろう」
 やけに食い下がってくる相手に夢主は戸惑いが隠せない。DIOは何が言いたいのだろう……背後に控えるテレンスに助けを求める視線を送ってみたが、彼はわざとらしく礼をして部屋からそそくさと出て行ってしまった。
「最低限の物さえあればそれで十分だけど」
「それの何が面白い? 金は使ってこそ生きるものだぞ」
 館の中はまるで宝島から帰る海賊船のように金銀財宝が唸っている。信者からの貢ぎ物や、DIOがどこからか手にした物も含めて様々だ。
「それは分かっているけど……」
 言葉を濁す夢主をDIOは真横から眺めてくる。その視線といい、二人きりにされたこの空間といい、耐えきれずに冷や汗が流れ落ちてしまいそうだ。
「でも……どうして急にそんな事を言うの?」
 素直に先日のお菓子の礼だとは言えず、DIOは誤魔化すようにあえて非難するような言葉を選んだ。
「……身近な者に何かを贈りたいと思うのはそれほど妙なことか? お前は今まで誰一人としてプレゼントをしたことがないと?」
 そう言われると夢主も困ってしまう。
「チョコをあげたり、花を渡したりはするけど……貰ってもお返しできないし……」
「このDIOが見返りを求めると思うのか?」
 ムッとしたようにDIOが言うので夢主は慌てて首を横に振った。
 DIOはしばらく考えて、
「では、指輪なら良いか?」
 と言った。
「それもちょっと……」
 そんな意味深な物をプレゼントされても困ってしまう。どの指につけるかで意味が色々と変わってくる指輪なんて、夢主は身に着ける勇気がなかった。
「駄目か……。ではピアスは? 首飾りは?」
「ピアスの穴なんて開けてないし、首飾りも……付け慣れてないから鬱陶しそう」
 鬱陶しいとまで言われては諦めるしかない。
「アクセサリーよりも花とかお菓子とか、他にも色々あるでしょ?」
 夢主がそう言うとDIOは心底呆れた表情をした。
「このDIOにケーキでも作らせるか?」
「流石にそこまでは言わないけど……ちょっと食べてみたいかも……なんでもないです」
 ジロリと目を細めて睨まれてしまって夢主は言葉を濁した。
「花束も駄目……?」
「……」
 却下と言いたげにDIOはため息をついた。
「ちょ、ちょっと考えさせて」
 この調子だと、車が欲しいと言ってもあっさり用意してくれそうだ。だからこそ慎重にならざるを得ない。
(服も靴もたくさんあるし、ご飯だってきちんと食べさせてくれるし、寝るところも最高な場所だし……これ以上何を望めばいいんだろう……) 
 首飾りや指輪よりもっと気軽な物がいい。しかしそれがなかなか思い浮かばず夢主はDIOの様子を盗み見る。返答を待つ彼にひたすらジッと見つめ返されて夢主は視線を下げた。
 ふと、その先にあった物に目が留まる。
「あ……腕輪」
 時折、DIOの腕からシャラリと涼やかな音がする金色の腕輪だ。
「腕輪?」
 待ったあげく夢主の口から出たのはそんな言葉だ。
「うん、それ」
 夢主が指差した物を見てDIOは不思議そうに何度も目を瞬かせた。
「……こんな物でいいのか?」
「あ、駄目ならいいよ。他にも考えるから……もう少し待って」
 DIOは夢主の言葉を待たず、金の腕輪の中で一番小さなものを手首からするりと外した。
「えっ」
 まさかDIOの物をくれるとは思わなかった夢主は驚きのあまり声を失ってしまう。DIOは夢主の左腕を掴み、外した腕輪をゆっくりと付けてやった。
「これでいいか?」
 DIOに顔を覗き込まれた夢主は、段々と頬を赤く染め、嬉しいような困ったような笑顔を浮かべた。
「う、うん……。だけどよかったの……?」
 両腕に付けたそれは同じ数だけある。それが一つ無くなったりしてもいいのだろうか。
「嫌だというのなら、外して部屋の隅に投げ捨てるがいい」
 機嫌を損ねたのかDIOはプイッと顔を背けてしまった。夢主はすぐに言葉を付け足した。
「そんなことしないよ! こんな素敵な物……本当にもらってもいいのかなって思っただけ」
「……本当にそう思っているのか?」
「思ってるよ」
 DIOは目の端で夢主の真剣な表情を見届けると、ようやく相手に向き直った。特注で作らせた男物の腕輪が細い手首に輝くのを見て満足そうに笑う。飾らない夢主が唯一身に着ける物が己の腕輪……というのは思いがけない喜びがあった。まるで従属させているようで、これまで満たされなかったDIOの支配欲がわずかに軽くなる。
「外すなよ」
 機嫌良くそう言って、与えた腕輪と夢主の手首を優しく撫でる。
「……え?」
「これを付け外して良いのは私だけだ」
「……お風呂に入る時なら外してもいい?」
「駄目だ」
「じゃあ、寝る時は?」
「無論、駄目だ」
 DIOは楽しそうに笑って却下した。一方、夢主は嬉しかった気持ちがどんどん急降下していった。
 それは重い。いくら何でも重すぎる。これはとんでもない物を貰ってしまったのではないだろうか。
「え!? じゃあ、いつ外したらいいの?」
「フフ……天国に辿り着けたら外してやろう」
 夢主はひくりと顔を強張らせてしまう。
 ただのアクセサリーのはずが夢主には次第にペットにつける首輪のように思えてきた。
 たとえそうでも貰い物は貰い物。滅多にないことは事実なので、きちんと礼だけは言っておいた方が良いだろう。
「……ありがとう、DIO。傷が付かないよう大事にするね……」
 嬉しいやら重苦しいやらで涙が出そうだ。
(DIOが居ないところでこっそり外しても、やっぱり駄目かな……)
 そんな事を考えているとは思わず、DIOは殊勝な態度で礼を言う夢主に釘付けになっている。健気に喜ぶ姿が実に愛らしい。そんな物で良ければ両腕に付けた全てをくれてやろうと思う。たったそれだけでそんな言葉と顔が見られるならいくらでも……。
「夢主……アンクレットはどうだ? 腰飾りもあるぞ。それも私とお揃いの物にするか?」
 楽しそうに他の装飾品を勧めてくるDIOの言葉に夢主は勢いよく首を振った。外せないアンクレットなどただの足枷だ。それにハート型の飾りなど、テレンスやアイスともお揃いになることを彼は分かっていないようだった。
「こ、これだけで十分だから……本当にありがとう」
 遠慮する夢主に指を伸ばし、DIOは一度だけ優しく髪をすくい上げる。穏やかな表情を浮かべる相手に夢主は何もかも忘れ去って吸い寄せられてしまいそうになった。
「そうか」
 見つめ合う中でDIOが静かに笑った後、ゆっくりと席を立つ。食事の邪魔をしたな、と言って彼が部屋を去っても、早まる鼓動を抑える夢主の赤く染まった耳に甘い声が留まり続けた。




- ナノ -