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「ありがとう」
「いえいえ、どういたしまして」

瞬時に辿り着いた家の前で茉莉香が小さくお辞儀する。その手には何も握られていない。きっとスタンドで移動していたためわざわざ傘は必要なかったのだろう。少し考えた後花京院は茉莉香に自分の傘を差し出した。

「…えっと、大丈夫だよ?」
「いいからいいから」

不思議そうに首を傾げる茉莉香に花京院が楽しんだ様子で口を開く。

「ちょっとした意地悪くらいしてもいいだろう?」

財団から出る際茉莉香は承太郎に連絡を入れていた。彼もきっと茉莉香がスタンドで帰ってくると考えているはずだ。すぐに帰ってくるはずの茉莉香が帰ってこなかったらシスコンの気がある承太郎の事だ。きっとやきもきとするだろう。
茉莉香も花京院の言いたいことが分かったのかニヤッと笑った。

「典明君も悪よのう」
「いえいえ、お代官様ほどでは」

花京院のノリのいい返事に声を出して笑った後、茉莉香の顔が少し強張る。

「でも、かなり怒られそうな気がするなあ」
「その時は僕の発案だって言っていいよ」

茉莉香一人でやったらきっと承太郎は怒るだろうが、花京院も一枚噛んでるとなればきっと彼は例の口癖を零すに決まっている。やれやれだぜ、と。
そんな情景を茉莉香も思い浮かべたのか愛おしそうな穏やかな微笑みが浮かべた。

「ねえ典明君」
「なんだい」
「…幸せだね」

その言葉の意味は花京院にもすぐにわかった。あの旅では、誰が死んでもおかしくなかった。いいや、こうして誰一人として失わずに、何の陰りもなく笑えるのは奇跡だとすら花京院は考えている。
そしてそんな奇跡を起こすために、目の前の華奢な少女がどれほどの重荷を背負っていたことか。それはきっと自分が想像することも出来ないほどの辛さだったに違いない。

正直花京院は今でもふと考える。もしも自分が家族と、大切な友人…例えば承太郎を天秤に掛けたとしたら。茉莉香の様に全てを救う為に何もかも投げ出せるだろうかと。彼らや家族の為に命を掛けることはできる。しかし茉莉香の様に、どちらも手放さないと奔走できる自信は、なかった。
もしかしたらどちらかに、或いは両方から裏切りと見做され嫌われてしまう可能性だってある。それは想像するだけで足が震えるような恐ろしいことだ。だが、茉莉香はその恐怖を退けて見事にやってのけた。人によっては運が良かったというのかもしれない。茉莉香の中にそれでも大丈夫だという彼らに対しての信頼があったのかもしれない。
そのどちらにしても、花京院は心から茉莉香を尊敬していた。人は、弱い。きっと多くの人はどちらかを犠牲にする。片方を見捨て、仕方がなかったのだと、自分は間違っていないのだと言い訳をして。両方を救うことなんてできないと、僅かな可能性から目を背けて自分を正当化して、そして後悔を抱えながら生きるのだ。

「ねえ茉莉香」
「んー?」
「この幸せはね、君が作ってくれたものだよ」

恐怖を、弱さを乗り越えて。傷つきながらも精一杯僕らを守ろうとした、守ってくれた君の。君のおかげなんだ。
花京院の顔を見上げていた茉莉香が泣きそうな顔で笑った。

「もし、私がこの幸せを作ったとして。それは君や、皆のおかげだよ」

皆が、私を信じてくれたから。だから私は頑張れたんだ。そう言うと茉莉香は照れくさそうに微笑んだ。

「じゃ、帰るね」

踵を返そうとした茉莉香の手を花京院が掴む。茉莉香が振り返る前に花京院は彼女を引き寄せて、その小さな手に口付けを落とした。

「気を付けて、お姫様」
「…うん」

何度か口を開閉させてから、僅かに頬を赤らめつつ茉莉香は頷いた。それを確認した花京院が手を離すと、声を上ずらせながら挨拶をして駆けていく。
その小さな背中を見送りながら花京院は目を細める。もしもまた君が傷ついて、それでも誰かを守ろうとするなら。僕は君を守る騎士でありたい。そんなどこかの小説にありそうなことを考えて、彼はそっと笑った。



手の甲へのキスは敬愛
いつか、君の隣に立っても恥じることのない騎士に