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「…ねえ承太郎」

「あ?」

「かぐや姫って、月に帰って幸せだったと思う?」


突拍子のない発言に煙草を取り出した手が止まる。
かぐや姫…細かいところまでは覚えてはいない。竹から生まれた赤ん坊が美しく成長し、言い寄ってきた男達を無理難題で追っ払った挙句、帝にまで求められたが突っぱねて月に戻っていく話だったと記憶している。
それをそのまま口に出せば、茉莉香はまあ、大体は合ってるね、と苦笑した。


「かぐや姫は、元居た月の都から翁たちの所にやってきて、いつしか本当の両親の事も思い出さないくらいになってたんだよ」


月を見上げながらぽつりぽつりと言葉を零す茉莉香は何を考えているのだろうか。細められた目は月よりももっと遠いところを見ているようで。


「それでも迎えはやってきて、天女の羽衣を被されることでかぐや姫は翁や帝への未練を全部忘れて、帰って行った。…大切な家族も、恋しく思っていた人も。すべて忘れて何も憂うことなく故郷に帰ったかぐや姫は幸せと言えるのかな」


かぐや姫は幸せだったのか。何も悲しむことも苦しむこともなく、天上の世界へと帰った彼女は幸せと言えるのかもしれない。だが――


「おれは、幸せだったとは思わねえな」


止まっていた手を動かし煙草に火をつける。こちらに目を向けた茉莉香の不安げに揺れている瞳を見つめ返す。


「感じなかろうと、忘れようと今までの思いがなくなったわけじゃないだろ」


と、言ったものの元から感情と言うのは目に見えない。感じていた当の本人が感じなくなったとしたらそれはないとしてもいいものかもしれない。そんな分析じみた考えが全くないわけではない。しかしそれを茉莉香に告げるのは、何故か避けたいと思った。


「…大体、行きたくなけりゃ行かなきゃあいいだろ」

「正論だね。でも、抵抗が通じない相手っていうのもいるでしょ?」


そう言って笑う茉莉香の目には諦めにも似た色が浮かんでいて。


「やるだけやってみなきゃ分からねえだろ」


子供の様な言い分だとは分かっている。ある程度年を重ねりゃ、天の使いだなんて馬鹿げたものはともかく避けようのない選択肢というものが存在することなんて理解しているのだから。それでもそう言わなければならないと何かが俺に囁く。ここで肯定してしまったら何か取り返しのつかないことが起こりそうで。
先程見た夢が脳裏にちらつく。名前を呼んでも、手を伸ばしても届かない。ただ、泣きそうな顔をする茉莉香を見つめることしかできず、…掻き消えてしまったあの情景が。


「…承太郎は強いね」


そう言ってほほ笑んだ茉莉香の顔は、今にも泣きそうに見えた。おれ達を照らし出す月の光と相まって茉莉香の存在がとても脆く儚いものに思えて。
思わず茉莉香の手を取る。馬鹿げた考えだとは思うが夢とは違い、ちゃんと手が届いたことに安堵した。そのまま繋ぎ止めるように手に力を込める。


「承太郎?」


不思議そうに俺の名を呼ぶ茉莉香には先程の儚さは見えない。そっと息をついて、もう一度手を握りなおす。小さくて冷え切ったその手を離すのが無性に恐ろしくて。そっと握り返してくる茉莉香が愛おしかった。


「…どこにも、行くなよ」


どうしてそんな言葉が出たのか分からない。けれど、茉莉香が困ったように笑いながら頷くから。手を引き上げてよろけた茉莉香を抱きしめる。そして口元に来た手にそっと口付けた。


「勝手にどこか行ったりしたら承知しねえからな」

「…うん」


茉莉香の手がおれの頬を撫でる。冷えていた手におれの熱が移されて、少しだけ温かくなった。お互いの熱が交換されて等しくなっていく感覚に目を閉じる。
もしも、茉莉香が居なくなるとしたら。誰かが奪っていくとしたら。きっとどんなことをしてでも阻止してみせようと、馬鹿げた考えが頭をよぎった。



掌へのキスは懇願
だからおれの前から消えてしまわないでくれ