1.彼女のいない時間
ブチャラティたちは意外にも未だヴェネツィアを脱出できずにいた。
だがそれもそのはずなのだ。
海で囲まれたこのヴェネツィアを脱出するにはタイミングが重要だった。
ヴェネツィアを出た途端ボスの追手に見つかっていたのでは笑えない。
ただやみくもに逃げているだけではいつかは掴まる。自分たちは一刻も早く、ボスの正体を知る必要がある。
だから彼らはトリッシュが目覚めるのを待っていた。
ここヴェネツィアで食事をしながら。
「………。」
久しぶりのリストランテでのおいしい食事のはずなのに、その空気は最悪だった。
誰も言葉を発そうとはしない。ただ食器のカチャカチャという音だけが、辺りに響いていた。
__ドンッ、
片手にワインを持ちながらスープを飲んでいたナランチャの肩に、後ろから男がぶつかる。
ワインはピシャリと音を立ててぶつかってきた男のスーツに跳ねた。
そして哀れな男はナランチャになんだかんだと因縁をつけ始める。
普段でも勿論キレていただろうが、今のナランチャは更に機嫌が悪かった。
いちゃもんをつけてきた男の腹に、容赦ない蹴りを叩きこむ。
「さてはテメー追手だなッ!?敵だな!?死ね!死ね!!死ねぇ!!!」
ナランチャの暴走を止めたのはブチャラティだった。
彼に制されてナランチャは漸く平常心を取り戻す。
「あー、クソッ!!」
しかしやりきれないと言った風にナランチャはブチャラティに捕まれた腕を振り払った。
ナランチャがこうしてブチャラティに対して反発することはかなり珍しい。
というか初めてかもしれない。
そしてついにナランチャは全員が言い淀んでいた核心に触れた。
「なぁブチャラティ!!なんでナマエを置いて行ったんだよ…!!」
ナランチャは納得がいかないというように叫んだ。
「だって見ただろ!?ブチャラティ!俺たちが島を離れるときのアイツの顔……、なぁなんでなんだよ!たった数日だけどよぉ、ナマエはもう立派に俺たちの仲間だったはずだろぉ!?俺たちだって何度もあいつの力に助けられた!それなのになんで…。」
ナランチャの言葉にブチャラティは何を言うわけでもなくただ黙って聞いていた。
ナランチャと同じく納得がいかないといった顔をしているアバッキオとミスタ。そして心のどこかでブチャラティの真の気持ちを理解してしまっているジョルノは冷や汗をかきながら事の成り行きを見守っていた。
「…ナランチャ。お前は根本的なことから間違っている。確かにナマエは良くやってくれた。俺が今ここにいるのも彼女のおかげなのだろう。だがな、所詮ナマエはパッショーネの人間ではない。
___俺たちの仲間などでは、決してない。」
その瞬間辺りに椅子が倒れる音、食器が地面に落ちて割れる音が響いた。
ブチャラティの真向かいに座っていたアバッキオが、目の前にあった机を蹴り上げて思い切りブチャラティにつかみかかったのだ。
「アバッキオ!!やめてくださいっ!!」
「るせーぞジョルノ!!ブチャラティ!!今言ったことは本心か!?だとしたら俺はテメェを心底軽蔑するぜ…!!テメェ、ナマエが一体どういう気持ちでお前の傍にいたと思ってんだ!?ただお前を助けたい一心で、あの弱っちいヤツが必死に俺たちに食らいついてきたんじゃねーか!!それを『あいつは仲間じゃない』だと…!?」
ナランチャと同じくアバッキオがブチャラティに対して怒りをあらわにすることも初めてだった。
いや、そもそもアバッキオは誰よりもナマエに対し敵対心をむき出しにしていたではないか。
目の前の光景にあっけにとられていたミスタはハッとして、ジョルノと共に今にもブチャラティを殴りそうなアバッキオを止めに入る。
「オイオイオイ!なぁ!やめろってお前ら!!だいたい今俺たちが仲たがいしてどうするんだよ!!
今更なんだよ!!もう俺たちは後には引けねぇ!組織には戻れねぇし、島にだって戻れねぇ!!もう二度と、ナマエやフーゴに会うことはできねぇ!!分かってんだろ!?」
「ミスタ!!お前前から冷たいヤローだとは思ってたけどここまでだったとは思わなかったぜ!!
見損なったよ!!」
「んだと、テメェ、ナランチャ…!!俺が何も感じてねぇってか!?んな訳ねぇだろ!!俺だってなぁ、こんな形であいつらと別れたくなんてなかったよッ!!テメェこそ男のくせにいつまでもピーピー泣きやがってよぉ…、一人じゃ何の決断もできないガキがよぉ!!」
「ッテメーふざけんじゃねぇぞ!!ミスタ!!ぶっ殺してやる!!」
ナランチャは怒りに任せてエアロ・スミスを出現させる。
いよいよ事態の収拾が追いつかなくなってきた。店の人間も彼らから離れるように遠巻きに眺めている。
今にも殺し合いでも始めそうなチンピラたちに、注意をできる人間なんているわけがなかった。
「___やめろッ!!」
鶴の一声。ブチャラティが良く通る声で叫んだ言葉はスッと彼らの頭の中に入ってきた。
そしてそれは自分たちがブチャラティを自分たちの指導者として認めているからであり、だからこそ彼がした行動に納得ができずに苛立った。
「アバッキオ、ミスタ、ナランチャ。そしてジョルノ。お前たちが俺についてきてくれたことにとても感謝している。自らの命を危険に晒してまで俺についてきてくれたお前たち。そんなお前らに何も言わずに済まそうとした俺が悪かったんだ。
俺自身言ったら認めるしかなくなってしまいそうでな、情けないことに怖かったんだ。
だからそっと自分の胸の奥にとどめておこうとした。
………すまなかった。」
弱々しく笑うブチャラティにアバッキオは思わず彼の胸倉をつかむ手を緩めた。
初めて見る己の上司の弱々しい姿。その姿に彼もまた一人の人間であったことをまざまざと突きつけられた。
「俺はナマエのことを心の底から大切に思っている。家族以上に。自分の命よりも。
ギャングの俺といればナマエは傷つく。彼女には普通に幸せになってもらいたい、ただ、それだけなんだ……。」
フッとブチャラティは視線を下におろした。彼の長い睫毛が影になり、まるで涙を流しているかのようだった。
思わずアバッキオはブチャラティの胸倉から手を離して、よろよろと後ろにあった椅子に腰かけた。
スタンドを出しかけていたミスタもナランチャも、ブチャラティの見たことのない様子に言葉をなくす。
「…………いつからだ…?」
「さぁ…、俺にも分からない。ずっと昔から、彼女のことが好きだったのかもしれないな…。決断したのは俺たちが敵に捕らえられた彼女を見つけたときだ。ナマエの手首にあった凍傷の痕を見たとき、俺は彼女の傍にいてはいけない男だといよいよ実感したよ。
このまま一緒にいれば、俺はいつか彼女を死に追いやる。」
ブチャラティの言葉を聞いてアバッキオはギリリと歯を鳴らす。
「……ッ全部!俺のせいじゃねぇかよ…!お前たちを引き裂いたのは…!!
アイツだって、アイツだってブチャラティ。お前のことを……ッ」
唇を噛みしめて血を流すアバッキオの肩にブチャラティは軽く手を乗せる。
「いいや。お前のせいではない。アバッキオ。いずれはこうなっていたんだ。
所詮俺とナマエとでは、住む世界が違過ぎる。彼女には本当に悪いことをしてしまったが…。」
何故こんなことになってしまったのだろう。
こんなのは誰も幸せにならないではないか。ナマエだって、ブチャラティだってお互い傍にいたいという気持ちは一緒のはずなのだ。
それなのに、この世界が彼らが一緒になることを拒む。
ジョルノの脳裏にブチャラティから冷たい言葉を言われたナマエの姿が浮かぶ。
その顔を思い出すと自分のことではないのに心がズタズタに引き裂かれるような気持ちがした。
「_____ボスを倒せばいいんですよ。」
ずっと黙っていたジョルノが突然言葉を発したことによって全員の注目がそちらへ集まる。
「だから、ボスを倒せばいいんです。元々そのつもりだったでしょう。ブチャラティ。何を弱気になっているんですか?らしくない。
このジョルノ・ジョバァーナには夢がある!僕は自分の夢をあきらめたりしませんよ。ブチャラティ。あなたはどうなんですか?」
全員がジョルノの言葉にあっけにとられる。
たかが15歳のガキの夢物語。いつものアバッキオならきっとそう言って馬鹿にしただろう。
だけど今は、ジョルノのその輝くようなキラキラとした夢を語る瞳に救われた。
何故かわからないが、彼に賭けてもいいのかもしれない。そんな気さえしたのだ。
全員が同じ気持ちだったらしい。一触即発だったその空気はいつの間にかどこかに行ってしまったようだった。
「フ…。ジョルノ。お前の黄金のような精神を見ていると、自分が酷く小さなことで悩んでいたのだと思えてしまう…。礼を言わせてくれジョルノ。」
ブチャラティに先ほどまでの暗い影はどこにもなかった。
キッと前を見据えると高らかに全員に宣言する。
「てめぇら!!俺たちはこれからボスを倒す!!すべては俺たちの正しいと思う道を歩いて行くため!
俺はジョルノの黄金のような夢に賭けたいと思うッ!!」
ブチャラティの宣言にミスタ、ナランチャ、アバッキオも力強く頷く。
先ほどまでバラバラになりかけていたのが嘘のように全員の心が一つになっていると感じた。
「父を倒したら、ナマエともう一度、会えるのよね?」
突然辺りに鈴の鳴るような高い声が響いた。
驚いてブチャラティたちは机の横を覗き込む。
そこには亀からいつの間にか出てきたトリッシュがいた。
「トリッシュ…!目が覚めたのか。今の話、聞いて…?」
「えぇ。すべて、聞いていたわ。そして理解しているもの…。」
トリッシュはジッパーでくっつけられた自らの腕をじっと見つめる。
その手は血は止まっているが、きっとまだ痛むだろう。だが彼女はその腕を見たまま顔色一つ変えなかった。
「思い出したわ。人生の足跡を消しているという言葉で…。私の母は昔父と『サルディニア』で出会ったと言っていた。母親が旅行したときに知り合い、『すぐ戻ってくる』と言った切り、父は戻ってこなかったのよ。」
トリッシュの言葉に全員がゴクリと喉を鳴らす。
「サルディニア……。ボスが組織のボスになる前の15年前!ひょっとしてボスが生まれそだった場所…!?」
「何故俺たちに教える…!?俺たちは君の父親を殺すかもしれない……、いや、倒そうと決意しているんだぞ!!」
ブチャラティの言葉にトリッシュはキッと彼のほうをにらみつける。
「あたしはどうしても知りたいっ!自分が何者から生まれたのかをっ!!
それを知らずに殺されるなんて、まっぴらごめんだわっ!!」
トリッシュの固い意思にこの場にいる全員が息を飲んだ。
アバッキオはフゥ、と一つ息をついたかと思うと口を開く。
「…ブチャラティ。ナマエといいトリッシュといい……、女ってやつはどうしてこんなに強いんだろうな。俺たち男より、よっぽど強いと俺は思うぜ。」
ナランチャもミスタも罰が悪そうに苦笑いをする。本当にアバッキオの言う通りだと今身を持って実感したからだ。
「ブチャラティ。ちょっといいかしら。」
カツン、とトリッシュのブーツのヒールが音を鳴らす。
呼び止められたブチャラティは勿論彼女のほうへと向きなおる。その瞬間だった。
__バシンッ!!
辺りに乾いた音が響いた。
頬を打たれたブチャラティは勿論、周りの人間も唖然とした。
トリッシュがブチャラティを平手で打ったのだ。しかもケガをした方の手で。
案の定トリッシュは痛みのあまり尋常ではない冷や汗をかいているし、若干涙目になってしまっている。
せっかくふさがりそうだった傷口は、再び開いてしまったのかジッパーの接続部からボタボタと血液が滴り落ちた。
その痛みの程度を良く知るアバッキオは、彼女がした行為を咎めることもなく、ただただ顔を青ざめさせた。
慌ててナランチャがトリッシュに駆け寄る。
「バッカ!トリッシュ!!なにやってんだよお前ッ!!血ぃ出てるじゃあねぇか!!」
「放っておいて!!ナランチャ!!私はブチャラティと話しているのよ!!」
強い怒りの目を向けるトリッシュに、ブチャラティは呆然とする。
「私、自分が父に殺されそうになったとき、少しだけだけど意識があったの。ブチャラティ。あなたは私のために組織を裏切った。とても感謝しているわ。あなたの優しさがなかったら、私は今この世界にはいなかったはずだもの。
だけどあなたがナマエにしたことはたとえ彼女のことを思った行動だったのだとしても許せない…っ!あなたがとった態度によって、ナマエは心に癒えることのない傷を負ったはずよ!」
涙を流しながら訴えるトリッシュ。トリッシュは自分のケガをした腕を目の前に見せつけた。
「これは、この私の血液はナマエの涙よッ!!ナマエはほとんど意識がない私を抱きしめてこう言ってくれたわ。『私を殺そうとした私の父のことを許せない』って!私、本当にうれしかった…!
だけど、そんな彼女が一番つらいはずの時に、傍にいてあげられない…ッ!」
感情のまま涙を流すトリッシュは年相応の少女に見えた。
彼女にとってナマエといる時間は唯一素の自分を出せる、落ち着ける場所だったのだ。
トリッシュだってどうしようもないことだったとは分かっている。
きっとブチャラティが冷たく突き放さなければ、意思の強いナマエのことだ。あきらめずに彼を追ってくるくらいのことはしただろう。
ナマエの気持ちも分かる、だけどブチャラティの身を切るような決断も分かる。
だからこそやり場のない怒りを目の前の彼にぶつけるしかなかった。
「トリッシュ!もうやめろって!お前だけじゃあねぇ!ブチャラティだって辛いんだ!分かるだろう!」
「分かってる…。分かっているわ…。
ブチャラティが一番辛いんだって…。だからこそ腹が立つの…。
あの時何もできずに気を失っていただけの自分自身に……。」
「わかったからもう休んでろって!お前、顔色悪いぞッ!!」
ナランチャは心配してさめざめと泣き始めてしまったトリッシュの背中を支えるようにしてさする。
「トリッシュ…。俺は…。」
「ブチャラティ、約束して。私の父を見事倒して、そして必ずナマエを迎えに行きなさい。」
ビシッとトリッシュはブチャラティに向かって指を突きつける。
ナランチャは彼女の行為に今度は別の意味で顔を青ざめさせた。仮にもブチャラティになんてことを。
咎めようとするナランチャをブチャラティは目で制する。
そして今さっきトリッシュが自分の傷が開くにも関わらず打った自分の頬に手を当てる。
自分より5つも下の娘にこんなにはっきりと言われてしまえば、ブチャラティはもはや認めるしかないと微笑んだ。
なんだかはっきりと目が覚めたような気持ちだった。
「……あなたの命令とあっては、俺は従うしかないようだな。
しかしトリッシュ、あなたに言われるまでもない。俺はボスを倒したらナマエを迎えに行くつもりだ。彼女には言わなきゃいけないことが山のようにあるんだ。」
「…ブチャラティ。」
トリッシュの血が滴り落ちる手をブチャラティはとると、ジッパーを増やして止血する。
そしてその傷を労わるように自分の両手で彼女のか細い手を包んだ。
その優しい仕草にトリッシュは顔を真っ赤にして再び苛立ちを爆発させた。
「あなたのそういう誰にでも優しすぎる態度が!ナマエを不安にさせているのよッ!!
分かるッ!?」
猛烈な勢いで怒り出したトリッシュに余裕の笑みを見せていたブチャラティも今度こそ度肝を抜かれた。
苦笑いを浮かべてブチャラティはトリッシュから距離をとる。
「……ブチャラティ。女ってのはよ、ホントに強いな………。」
「…あぁ。違いない。」
アバッキオとブチャラティの呆然とした声が、風に乗って消えていった。
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