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 昨日の雨がまるで嘘だったかのように、窓の外は快晴で清々しい。家入さんの治療のおかげで体はもうすっかりいつも通りだけれど、心はどこか晴れなかった。最後に見た同級生は、出会ってまだ数週間。特別な思い出があるわけでもないし、親しくなるには時間が足りなすぎた。虎杖、あいつは、いいやつだった、それだけは分かる。あの場に居合わせたのは、虎杖と一緒に高専にやってきた綾瀬先生だ。彼女は前の学校でも虎杖と交流があったようで、きっと俺よりも悔やんでいるだろう。あの日、俺が意識を失っている間に駆けつけてくれた綾瀬先生は、宿儺と戦って、そして突然倒れた。虎杖も倒れてすぐに彼女を高専に連れ戻したが、家入さんには治せないと言われ、今も部屋で休んでいる。外傷はさほど酷くはなかったが、触れた肌は燃えるように熱く、息も苦しそうだった。様子を見に行きたいが、女性の部屋にアポなしで訪ねるのはどうも気が向かない。でもやはり心配だ。そんな考えを繰り返しているうちに、足は自然と寮へと向かう。



「恵」

「…五条先生」



 ふと聞きなれた声に呼び止められ振り返ると、五条先生がビニール袋を片手に手招きをしていた。その顔にはいつもの笑顔は張り付いていない。もう伊地知さんから事の詳細を聞いたのだろう。「今から美月のところに行くの?」と首を傾げた五条先生に、正直迷っていたけれど「はい」と答えると、五条先生は持っていたビニール袋を差し出した。



「これ、美月に持っていってくれない?僕は今から悠仁のところに行くから」



 差し出された袋の中身を覗くと、中には冷えピタやスポーツドリンク、アイスがぎっしりと詰められていた。「行けば分かるから」と告げながらその場を去っていく五条先生の背中を見送って、袋の中身を疑問に思いながらも綾瀬先生の部屋を目指す。確かに彼女の体は熱かったけれど、ただの風邪という風には見えなかった。何か呪いに中てられたのか、それとも他の何かが原因なのか。五条先生は綾瀬先生に何が起きているのかわかっているようだった。漸く目の前に現れた自分の部屋と同じ木製の扉を控えめに叩くと、中から少し弱った様子の声が聞こえた。



「失礼します」



 ギイ、と鈍い音とともに扉を開けば、ベッドの端に腰をかけた綾瀬先生がいた。自分の名前を呼ぶ声はどこか掠れていて、頬は赤く染まっている。俺と目が合った綾瀬先生は申し訳なさそうに目を伏せると、「ごめんね」と一言だけ謝った。彼女の言う「ごめんね」が何に対してなのかは、なんとなく分かる。あの場にいたのは俺と綾瀬先生だけ。宿儺を止められるのも、虎杖を助けられるのも、俺たちだけだった。その言葉には返事をせずに近くにあった椅子に腰かけて、持っていた袋の中身をテーブルの上に広げる。「それ、伏黒くんが?」と驚いた様子の綾瀬先生を見て、「五条先生からです」といえば、彼女は眉を寄せて俯いてしまった。



「………風邪、ですか?」



 アイスの蓋を開けて綾瀬先生に差し出しながら問えば、それを受け取った綾瀬先生は小さなスプーンでアイスを掬って、口に運んだ。



「私の術式は、熱を操るの。でも体が術式についていかなくて、無理をするとこうして熱が出るんだ」



 ハハ、と乾いた笑いを漏らした綾瀬先生は、持っていたアイスをテーブルに置くと俯いた。彼女の話によれば学生の頃からよくこうして熱を出しては寝込んでいたらしい。その体質は大人になっても変わらず、未だ体が術式に順応できずにいる。俺も式神を無理して出し続ければ呪力切れを起こすし、彼女の場合はそれが副作用となって現れるのだろう。呪力切れを起こす呪術師は別に珍しくはないが、綾瀬先生にとって一番近しい呪術師が五条先生となれば、それが劣等感に繋がってもおかしくはない。



「悠仁は……」

「虎杖は、ダメでした。両面宿儺があいつの心臓を抜いていたので、あいつが戻ったところで、もう……」



 そっか、と力なく呟いた綾瀬先生は、目も合わせないままに俺の袖をぎゅっと握った。心なしか震えているその手は俺の手よりも小さくて、先生なんて呼んでいても俺より強くて当たり前なんかじゃないと実感する。ぐず、と鼻をすする音に目を逸らせば、続けて小さな嗚咽も漏れ始めた。ごめんね、と繰り返す綾瀬先生に、俺は「先生は悪くありません」なんてありきたりなことしか言えなかった。きっとこの小さな手を慰められるのは五条先生だけだ。二人の関係がどういったものかは分からないけれど、なぜだかそう思えた。「夜には、五条先生が来ますから」とそっと手を包むと、彼女は頷いて、ただ静かに涙を流した。









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