09

「ちょっと動いただけで捻挫するとかウケる」

「うるさいな」



 ふわりとベッドの上に下ろされて、ようやく終わった浮遊感にほっと息を吐く。隣に腰掛けてテーピングの巻かれた私の足首を撫でた悟は、はあと大きくため息を吐いた。じろりと向けられる視線が痛くて目を逸らすと、悟はさらに大きなため息を吐いた。



「怪我したって聞いて、心配したよ」

「ごめん。でも大したことなかったし…」

「そういう問題じゃないよ」



 悟が動く度にギシ、とベッドが軋む音がして耳が痛い。膝下に出来た大きな傷は反転術式で綺麗になったけれど、捻挫は完治できず、硝子にテーピングを巻いてもらった。しばらく違和感が残ると言われたそこは、歩く度に少しだけズキリと痛んだ。優しくそこを撫でながら私を見つめる悟は、怒っているような呆れているような、口をへの字に結んだまま何度もため息を吐く。目隠しのせいで表情までは分からないけれど、彼が私を心配していることは伝わる。ごめん、ともう一度謝れば、悟はもう一度ため息を吐いて頬を掻いた。



「まあ、美月を連れ戻したのは僕なんだけどね」



 少しだけ後悔を含んだ声で呟いた悟は、足首を撫でていた手を私の頬に伸ばすと優しく撫でる。私も彼に手を伸ばして真っ黒な目隠しに手をかけると、そのままそれを引き下ろした。透き通るような青と目が合って、心臓が音を立てる。毎日一緒にいるはずなのに、こうして彼の瞳を直接見ると、まるで学生時代に戻ったかのように思えてしまう。久しぶりに悟に会った日。あの日まで、私は呪術界には決して戻らないと決めていた。命の危険と隣り合わせで、日々仲間を失って、終わらない未来を見つめて。もうそんな日々は御免だと、思っていたのに。悟の目を見ると、辛くても楽しかった日々を思い出して、もう一度、彼と同じ場所に立って同じものを目指してしまいたくなった。危険だと分かっていても、自分にできることを精一杯やりたくなった。悟の傍にいると、魚が水を得るように、すっと呼吸が軽くなる気がする。「後悔してる?」とかけられた問いに、私は静かに首を振った。



「後悔なんてしない。戻ってきたのは、自分の意思だから」



 悟の目をしっかりと見つめたままそう言えば、「それでこそ美月だ」と彼の口角がにやりと上がった。心配するフリをして、結局悟の思い通りに動かされていたのだと思うと腹立たしい。彼はきっと、この世界の誰よりも私のことを分かっている。私が考えていることも、どう動くのかも、全部お見通しなのだ。「足が治ったら一緒に鍛錬しようか」と笑った悟は、結っていた私の髪をゆっくりと解いていく。窓の外はいつの間にか暗くなっていて、一日の疲れが一気に押し寄せる。今日はゆっくり休んでという悟の言葉に甘えて横になれば、ほんのりと眠気が襲ってきた。大したことはしていないけれど、久しぶりの任務で体も心も緊張していたらしい。丁寧にかけられる布団に包まれれば、だんだんと体から力が抜けていく。



「ありがとう。心配してくれて、嬉しかった」

「お礼はキスでいいよ?」

「はいはい、いつかね」



 軽く笑って目を閉じれば、ふわりと頭を撫でられる感覚がする。いつからだろう、悟がこうして私を甘やかすようになったのは。昔の私たちは喧嘩ばかりしていたし、落ち込むようなことがあってもこうして触れたりはしなかった。ただ、傍にいる。それが私たちの形だった。彼が私に触れてくるのは眠っている時だけ。こんな冗談も、こんな触れ方も、大人になったからと言えばそれまでだけれど、悟は確かに変わった。私を見つめる瞳も優しくなった。時折言いようのない熱を含んでいる時もある。その視線に未だ慣れなくて、私は彼となかなか目を合わせられない。悟の目を見てしまえば、ずっと押し殺してきた気持ちが溢れ出てしまいそうになる。そんなことを気づきもしない悟は、「おやすみ」と言うとそっと私の額にキスを落とした。彼が部屋を出て行っても触れた唇の感触が消えなくて、何度も寝返りを打っては布団を抱きしめるを繰り返して、結局あまり眠れなかった。











「私、前から気になってたことがあるんだけど」



 甘いフラペチーノを片手に窓の外を歩くサラリーマンたちを見下ろした野薔薇は、頬杖をついたままそう言った。前から約束していたショッピングを終えて、少しだけと寄ったカフェは冷房が効いていて涼しい。平日だというのに人で溢れる店内は騒がしく、私は少しだけ体を野薔薇の方へ寄せて耳を傾けた。聞くか聞かないか、少し迷うそぶりを見せた野薔薇は、私に視線を移すとゆっくりとフラペチーノを置いた。



「美月さんって、五条先生と付き合ってるの?」

「え?」



 あくまで真剣な表情でそう聞いた野薔薇に、吹き出しそうになったコーヒーを必死に飲み込む。じっと私を見つめた野薔薇は、どうなのよ、ともう一度聞くと眉間に皺を寄せた。なんだか最近、そういう質問をよくされるな。なかなか複雑な気持ちになりながら「付き合ってないよ」とコーヒーに口をつけると、野薔薇は納得がいかないような顔をして「ええ〜?」と声を漏らした。



「なんでそう思うの?」



 悟とはただの同級生で、たしかに昔から仲は良かった。波長が合ったしお互い気を遣わないし、一緒にいて心地いい。大人になってからスキンシップは増えた気がするけれど、それは他の人に対しても同じだろう。首を傾げていると、野薔薇はごくりと唾を飲み込んで、私の耳に唇を寄せると小さな声で囁いた。



「五条先生が、美月さんの部屋を出入りしてるとこ見たの。……それも何回か」

「あー………」



 急に高専に来ることが決まった私は、新居を探す時間がなかったために寮の一室を借りている。同じ寮には他の生徒も、もちろん野薔薇も住んでいるわけで。一応気をつけてはいたけど、やっぱり目撃されてしまっていたのか。教師として生徒に示しのつかない行動にため息を吐いて目頭を抑えると、興味津々な野薔薇の楽しそうな声が聞こえる。



「その、確かに泊まったりすることもあるけど、昔からの習慣というか、特別な関係ってわけでは…」

「泊まるってことは、つまりそういうことも?」

「それはない!本当に!ただ寝てるだけだから!」



 自分の教え子にこんなことを弁明するのも情けないけど、そこはちゃんと否定しておかなければ。担任と副担任が淫らな関係にあるなんて、絶対にあってはいけない。



「じゃあソフレってこと?」

「ソフレ、とは」

「添い寝フレンド」



 今は添い寝フレンドなんて言葉もあるのか、なんて感心しながら、その言葉が私たちに当てはまるのか考えてみる。どうもしっくりこなくて、私はもう一度首を傾げた。添い寝がしたいとか寂しいとか、そんな可愛いものではない気がする。悟以外とはそういうことはしていないし、悟もたぶん私以外とはしていない、はず。ただ、いつの間にか一緒に寝るのが当たり前になったというか、そこにいて当然というか、自分の生活の一部のようになっていた。



「ソフレっていうより、抱き枕みたいなものかな。そこにないと落ち着かないって感じ?」

「……ますます二人の関係性が気になるんだけど」



 私に釣られるように野薔薇まで首を傾げてしまい、二人の間にはハテナばかりが浮かぶ。正直私も、どうして悟が私の部屋に来るのかも、私がそれを受け入れてしまっているのかもよく分からない。好きだから、とかそんな簡単な言葉では表せない。「うまく言えないや、ごめんね」とコーヒーを飲み干したら、野薔薇は呆れたようにため息を吐いたけれど、それ以上は突っ込んではこなかった。









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