泣きはらした子猫の瞳


 夢の中で夢を見る。何度目覚めてもそこは夢の中で、いつまで経っても現実に戻ることができない。あるいはもうここは現実なのかもしれないが、それを私が知る方法はない。ただただひたすらに虚の世界を浮遊しては、現実だと信じる扉を開いては飛び込むを何度も繰り返すだけだ。次こそは、今度こそはとドアノブを握る手は止まることを知らない。たとえそれが、自分の身を削ることになろうとも。



「それでね、その店員さんってば……」



 同じ布団に潜り込んで身を寄せ合って、今日起きた出来事を話す由紀はいつも楽しそうだ。職場で起きたこと、友人との間に起きたこと、子どもとのこと。いったいどれだけの話を聞いてきたのだろう。いつ聞いたかも、誰から聞いたかももう思い出せない。目の前にいる彼女はいったい誰で、私とどういう歴史を辿ってきて、二人の間にどんな思い出があるのかももう分からない。高専に戻って、彼女と共に過ごして、彼女が死んで。そうして一体どれだけの月日が流れたのだろう。呪術師もやめた。結婚もした。子供だって、生まれた。どれだけ過去を書き換えても、由紀が生きている未来などどこにもなかった。どんなに頑張っても、努力しても、他のものを犠牲にしても、由紀の命はまるで運命だと言わんばかりに私の手からこぼれ落ちていく。私はいつになったら、この悪夢から抜け出せるのだろうか。



「……傑、聞いてる?」

「ごめん。何の話だったかな」



 ぼんやりとしていたら、由紀は心配そうに上体を起こして私を見つめた。彼女の左手の薬指にはシンプルなデザインの指輪が嵌められている。私とお揃いの、結婚指輪だ。今の私たちの間には、子どもはいない。いつだったか二人の間に生まれた、今にも壊れてしまいそうな小さな命をふと思い出す。由紀に似て、可愛い子だった。もし過去に戻らなければ、あの子が大人になる世界も存在していたんだろうかと思うと胸が痛む。私は由紀との子供よりも、由紀を選んだんだ。そうやって私の我儘でいくつの命が未来を絶たれたのだろう。再び考えに耽る私に、由紀はもう一度呼びかけると私の額に手を置いた。



「傑、最近なんか疲れてない?風邪でもひいた?」

「ちょっと疲れてるだけだよ」

「ほんと?」



 高専を卒業してすぐに結婚して、もう三年が経った。いや、それはもっと前の過去だった気もする。時の流れは一日ずつちゃんと過ごしてきたはずなのに、頭の中はいつも混乱していた。何度も見た景色、何度も聞いた台詞、何度も嗅いだ匂い、何度も抱いた体。目の前にいる由紀は何も変わらないのに、自分だけが歳をとっていくような感覚。話しが噛み合わないことも次第に増えていった。由紀の大切なものは私も守りたいとあんなにも思っていたのに、毎回呪霊に殺される由紀を見ていると、以前にも増して猿への憎悪が深まるばかりだ。

私の言葉をまだ疑っているのか眉間に皺を寄せた由紀に、おいでと言って両手を広げる。大人しく、甘えるように由紀は私の胸に頬を押し付けた。小さな背中を引き寄せて触りなれた柔らかな髪に指を通す。こうして由紀に触れている間は、夢か現実かなんて忘れて心の底から落ち着くことができた。触れる度に広がる甘い香りは、いったいどこから来るのだろう。シャンプーとも香水とも違う、自然と引き寄せられるような香り。いつだって、この香りだけは変わらない。



「変なことを、聞いてもいいかな」

「うん、なに?」

「由紀は、もし自分が死ぬ未来が見えたら、どうする?」



 なに突然、と笑った由紀は私の腕を枕に仰向けになると、しばらく考えるように天井を眺めた。月明かりに照らされた由紀は綺麗で、儚い。長い睫毛を震わせる瞳も、綺麗な声を紡ぐ唇も、私が触れる度に色づく頬も、何もかもが愛おしい。こんなにも綺麗なものを、どうして神は奪うのか。普段信じてもいないくせに、こういう時ばかりは頭の中に浮かぶ都合のいい存在。もし本当に神様がいるのだとしたら、私は神を呪っていただろう。



「やっぱり、死なない道を探すかな」

「どうやっても死ぬとしたら?」

「そしたら、最期の時まで精一杯生きるよ。やりたいことも出来ることも、全部やる」



 由紀らしい答えだと思った。辛い時も苦しい時も、前を向いて決して諦めない。いつか公園で見た眩しい微笑みを思い出して、息が苦しくなった。真っすぐに私を見つめる瞳は少ない月明かりを反射してキラキラと光っている。絶望を味わった私の暗い瞳とは正反対だ。「あぁでも、」突然思いついたように声をあげた由紀は、体を起こすと私の頬を撫でた。



「傑を一人置いていくのは、唯一の心残りかも」



 困ったように眉を下げた由紀は、「傑は私がいないとダメでしょ?」と笑った。その声と顔に途端にこれまでのことが頭を過って、目頭が熱くなった。由紀にそれを気付かれないように彼女の頭を再び自分の胸に押し付けると、私の名前を呼びながらも大人しく身を預けてくれた。そうだよ。私は、君がいないとダメなんだ。由紀がいない世界は息苦しくて、心から笑うこともできない。お願いだから、私を置いて行かないでくれ。顔を上げた由紀は私を見ると、いつの間にか濡れた目元を拭って、あやすように「大丈夫だよ」と笑った。根拠もない言葉なのに、ひどく安心した。呪術師を続けていると、たくさんの人の死に遭遇する。知らない人であったり、見知った人であったり、友人であったり。そんな毎日を繰り返していると、ふとした瞬間に気力が途切れて、押し留めていた涙があふれる時がある。由紀はたぶん、私が仕事に疲れていると思ったのだろう。私の目元を小さな手で覆うと、「全部忘れて、今日はゆっくり休んで」と優しく言った。言われた通りに目を閉じると、手の温もりも相まって次第に意識が薄れていく。静かな自分の息遣いと室外機の音だけが響く空間で、「おやすみ」と呟いた由紀の声がやけに耳に残った。






 ゆっくりと瞼を上げると、無機質な床と固そうなベッドだけが視界に入った。真っ白なシーツに包まれているそれはやはり色がなく、温もりも感じられない。絶えず頭の中で再生されるたった数日前の夜が嘘のように、真っ白な部屋は残酷にも現実を叩きつけてくる。やりたいことはやりつくした。二人の思い出があれば私一人でも生きていける。そう言うには由紀の生はあまりにも短すぎる。まだ二人でやりたいことなんてたくさんある。思い出だって作り足りない。それなのに、彼女はいとも簡単に私を置いて逝ってしまう。目の前で固く目を閉じたまま動かない由紀に、もう声をかけることもできなかった。








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