理解しなくてもいいよ


 高専に入学してもう三度目の夏。星奬体の任務が失敗に終わってから、俺はより術式を完璧なものにしようと努力した。強くなりたい、ただその一心だった。禪院甚爾に負けて自分の無力さを知って、ただただ術式の理解に明け暮れた。そのおかげで前よりももっといろいろなことが出来るようになったけれど、日常は何かが失われたように感じていた。その“何か”が何なのかは、俺には分からなかった。



「おかえり悟。もう終わったの?」

「おー」



 一つ下の後輩である灰原が死んだ。七海と一緒に向かった任務先の呪霊が予定とは違い、一級となっていたのだ。まだ一級にも満たない二人は苦戦し、そのうちの一人が死んだ。呪術界では別に珍しい話じゃない。日々誰かが倒れ、誰かが死ぬ。その尻拭いをさせられるのにももう慣れた。“最強”の意味をはき違えていたあの頃とは違う、今なら本当の意味で理解できる“最強”と呼ばれる力と立場。同じ高専生が死んでいく中でも、俺の中でのやるべきことは何一つ変わらない。それは、こいつも同じだと思っていた。何せこいつは、俺の行く先を示す道しるべのような男だったから。



「傑、なんか疲れてない?」



 風呂上りの髪を乾かそうともせず、窓辺のベンチに腰掛けて天井を眺める傑はなんだか前よりやつれて見えた。確かに今年は特別忙しいが、俺も傑もその程度でへばる様な人間じゃない。呪術師が忙しいのなんていつものこと。そういえば最近は二人で任務につくことも減ったな、と疲れた頭で考えた。自販機でコーラを買って隣に座ると、傑はそうかな、と乾いた笑みを見せた。前から考えすぎるというか真面目というか、そういう奴だとは思っていたけれど、今回はいろいろと思い悩んでいるようだった。



「なに、由紀と喧嘩でもした?」

「いや、彼女とは仲良くやっているよ」



 二年の春、星奬体の任務を終えた頃だったか、由紀と付き合うことになったと傑から聞いた。何でもないいつもの世間話みたいなノリで話していたけど、傑の顔が嬉しそうに綻んでいたのを覚えている。傑と由紀が以前から仲がいいのは知っていたし、二人でいる姿がなんだかしっくりきているとは思っていた。そっか、良かったじゃん。俺の言葉に傑は照れたようにありがとうと言って、由紀との馴れ初めとかを教えてくれた。こいつが恋人のことをペラペラと話すのは正直意外だったが、よほど誰かに聞いてほしかったんだろう。面白い漫画を見つけた時の傑も、いつも話したくてうずうずしていたから。親友が嬉しそうにしているのを見ると、俺まで嬉しくなった。いつも四人で過ごしていたところを、あえて二人きりにしてみたりとか。暇な日は気軽に声をかけていたけれど、少し遠慮してみたりとか。一応俺だって気を遣ったりした。たまに寂しく感じる時もあったけど、傑が幸せそうだからまあいいか、なんて考えたりもした。そんな傑が、このところ浮かない顔をしていることが増えた気がする。傑の言う通り由紀とは喧嘩した様子もなくいつも通りに見える。けれど、ふとした瞬間に悲しそうな、疲れたような顔をするのだ。僅かに感じる呪力の揺らぎも気になった。夏バテにしては暗い表情に、少しだけ心配した。



「由紀は、いい子だよね」

「ん?まあそうだな。お人よしって感じ」

「彼女を、死なせたくない」



 天井を見つめたままそう呟いた傑は、何かを思い出すように目を閉じた。好きな女を死なせたくない、そう考えるのは至極当然の思考だと思う。友人である俺でさえそう思うんだ、傑はもっと思いが強いだろう。もちろん、傑にも硝子にも、死んでほしくなどない。頭の中に浮かぶ由紀はへらりと笑っていて、どうして呪術師なんかやっているのか不思議に思うほどだ。お人よしで、優しくて、バカみたいにいい奴。呪霊と戦う姿は三年間一緒でもイメージがあまり浮かばない。そのせいか、由紀が死ぬ、なんていう想像ができなかった。買ったばかりのコーラを流し込むとしゅわしゅわとした感覚が喉を過ぎていく。今年の夏は、暑い。じんわりと体を侵食していく熱は、クリアな思考と理性を奪っていくようだ。



「私が悟のように最強だったら、大切な人を守れるんだろうか」



 こちらを見た傑の顔は、今までに見たことのない表情だった。お前だって最強だろ、それを聞いた時の傑も、俺は知らない。この男はこんな風に笑う奴だっただろうか。今年の夏は去年よりも呪霊が多い。立て続けに任務が入って、休む暇もない。前のように誰かと一緒に任務に行くことも減って、一人の時間は増えた。後輩も死んで、どこかセンシティブになっているのだろう。いつか由紀が死ぬかもしれない、そう考えたっておかしくはない。むしろ俺たち呪術師は、いつ大切な人が死んでもおかしくはないと常に考えるべきなのかもしれない。俺も傑も、俺たちは最強だからと、今まではそういうことをあまり考えてはこなかった。本気を出せば人一人くらい守り切れる。そう、思っていた。でも現実はそううまくはいかないことを俺たちは思い知った。だからこそ、不安になるのも分かる。けれど、傑がこんな風に弱音を吐くのは珍しかった。



「お前がどんな答えを求めてるのかは知らねえけど」



 足を組み直して先ほどの傑のように天井を見上げる。傑が見ていた場所には、何もない。自然と浮かんでくる同級生や後輩、担任の姿。俺にとって大切なもの。それらが危機にさらされたとき、自分ならどうするだろうかと考えた。



「大切なものは、どんな手を使ってでも守るよ。他の何かが犠牲になっても、自分の大切なものが守れるならそれでいい」



 最強だったら、なんて下らない理屈は置いておいて、俺なら何としてでも大切な奴を守る。それが俺の答えだった。自分にできるのはそれしかないし、それが本音だった。傑なら、守るべきものや自分の責務を優先するのかもしれない。きっとそれが人として正しい道なのかもしれないけれど、俺はそんな正論はごめんだ。俺は他の何かを失ったって、大切な奴が笑っているならそれでいい。傑が俺の答えに満足したのかは知らない。ただ、「……悟は、最強だもんな」と力なく笑った傑の顔が頭から離れなかった。こいつが一体何を抱えているのかも、何を不安に思っているのかも、どうしてそんなに悲しそうに笑うのかも、俺には分からない。この時無理矢理にでも聞き出しておけばよかったと、俺は後になって後悔した。馬鹿だな傑。俺の大切なものの中には、お前だって当たり前に含まれてんだよ。お前が由紀を大切だって言うなら、俺だって由紀を守るよ。だから、どうしてあんなことを言ったのか教えてくれよ。助けを求めてくれないと、いくら最強の俺でも、お前を守ることも救うこともできないよ。









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