同じ世界をループする


 術式を解いてそっと目を開けると、その拍子に温かいものが頬を流れていく感覚がした。熱い目元とは対照的にひんやりとしたタイルの冷たさが体を包んで、背骨がキシキシと痛む。眩しい照明で埋め尽くされた視界には何も見えなくて、私はもう一度目を閉じた。どのくらいの間術式を使っていたのだろう。消耗しきった体は疲労を訴えていて、動かそうにも力が入らない。“元居た場所”に戻ってきた私は、何が現実で何が夢なのかも分からないまま床に転がっている。手のひらには確かに由紀の冷たい頬の感触が残っている。また、駄目だった。由紀は命日を逃れ、それから何年も私の傍で生きていた。新しい人間関係、新しい環境。すべてが全くの別物だったのに、彼女が死ぬ運命は変えられなかった。呪術師として生きているからには死の危険は付き物だが、私の周りの者、悟も硝子も七海も伊地知も、彼らは一度も死んでいないのに、なぜ由紀だけが。悔しさに拳を握り閉めると、爪が食い込んで血が滲む。それでも心の中は一向に晴れる様子はない。そもそも本当に過去に戻っているのだろうか。彼らと過ごしている間は、微かではあるが、術式を使用している感覚がある。慣れてしまえばなんてことはないが、それでも“何もしていない状態”ではなかった。もし、これがすべて呪霊が見せているただの夢だとしたら、私のしていることは無駄なことなのだろうか。一度死んだ人間は、もう二度と生き返ることはないのだろうか。そもそも今いるこの世界は、本当に現実なんだろうか。それさえも分からなくなる。由紀が死ぬ度に一度戻ってくるこの世界。ここは、一番初めに私が呪霊を取り込んだ場所だ。この世界は一体どの時間軸に属しているのか。考えれば考えるほどに頭の中が混乱して、頭痛と吐き気に襲われた。少し調べればわかることなのかもしれないが、それよりも早く、もう一度と心が騒ぎ立てる。早く、彼女の元へ。目の前に現れた久しぶりに見る無数の目に、私はもう一度強く念じた。















 再び目を覚ますと、見慣れたような懐かしいような、薄暗い天井が目に入った。視線をそのまま部屋の中へ移すと、そこには無造作にテーブルの上に放り投げられた漫画本、干したまま仕舞うのを忘れられている洗濯物、棚の中に飾られている必要最低限の食器と調理道具が見える。ここは、高専時代の私の部屋だ。私はまた、ここへ戻ってきた。それを理解すると同時に、私はベッドから飛び降りて着替えることも忘れて部屋を飛び出した。



「由紀ッ……!」



ノックもせずに扉を押し開けると、ちょうど部屋を出ようとしていたのか由紀は驚いたように扉の前で固まっていた。どうしたの、と由紀の声を聞く間もなく、私は彼女の体を強く抱きしめた。この前と変わらない、私の腕にすっぽりと納まってしまう小さな体。抱きしめた背中は柔らかく温かい。触れ合った胸からはトクトクと確かに生を訴える鼓動が聞こえる。由紀は少し身じろいだが、私の尋常ではない様子に背中に手をまわすと、ゆっくりと優しくさすってくれた。上がっていた息が次第に落ち着いてきて、頭の中も少しずつはっきりとしてくる。私は、過去に戻ったんだ。大丈夫、由紀は生きている。



「いきなりごめん。でももう少し、このまま……」



 抱きしめる腕に力を込めると、由紀は「いいよ」と私に身を任せてくれた。彼女が生きているのは分かっている。私は戻ってきたのだから。それでも、確かめずにはいられない。離すことができない。動かない体、色を失った唇、冷たい頬、血に濡れた髪の毛。すべてが今目の前に転がっているように鮮明に思い出せた。もう彼女に触れることができないのだという絶望が全身を襲って、指先がかすかに震える。大丈夫、由紀は今こうして、目の前で生きているじゃないか。頭では分かっていても冷や汗が止まらなくて、ただ由紀を抱きしめることしかできない。身をよじって私の腕から抜け出した由紀は、座って話そうと私の腕を引いてベッドの端に腰掛けた。手を引かれるままに隣に腰を下ろせば、柔らかいベッドに体が沈む。その感覚が妙にリアルで、私は少しだけ落ち着きを取り戻した。



「怖い夢でも見たの?」



 安心させるように私の手を握った由紀は、様子を見ながら話しを促す。小さなその手がそのままこぼれ落ちてしまいそうで、私は強く握り返した。心配そうに私を見上げる瞳に息が苦しくなる。ついさっきまで、同じ瞳が私を見つめていたのに、まるで別人のように思えた。今目の前にいる由紀は私と付き合ったばかりで、私のことをあまり知らない。私の中には確かに、二人で過ごした何年もの思い出が残っているというのに。それでも愛しい彼女であることに変わりはない。ただ、どこまでもやるせなさを感じた。あの未来は、私が術式を解いたことで、私が無かったことにしてしまったんだ。由紀を生き返らせることと、引き換えに。



「君が、死ぬ夢を見たんだ」



 もう一度彼女を腕の中に閉じ込めると、今が現実であることがより実感できた。少し驚いて、すぐに微笑んだ由紀は「私は生きてるよ」と私の頬を撫でた。穏やかなその表情に、ずっと早く脈打ち続けていた心臓がゆっくりとスピードを落としていく。確かめるように私もまた彼女の頬を撫でると、指先が肌に沈む感触に指が震えた。そのまま引き寄せられるように口づけると、確かに温かさを感じた。何度も唇を合わせれば、少しじれったく由紀の息が唇の隙間から漏れ出す。彼女の左胸に触れれば、先ほどよりも少し速いリズムを感じられる。由紀は一瞬身体をこわばらせたけれど、私の顔を見て力を抜いた。



「傑、なんでそんな悲しそうな顔してるの」

「……由紀に、謝りたくて」

「どうして?私、傑に何もされてないよ」

「君を、助けられなかったから」

「傑」



 ごめん、と繰り返す私に由紀は自分から口づけると、私の頬を小さな手で挟んで、「全部夢だよ。私、生きてるよ」ともう一度強く言った。心臓がぎゅっと締め付けられて苦しい。私は一体どうしたら、彼女を救うことができる?もしかしたら来年、あるいは数年後に死んでしまうと分かっている由紀を、どうしたら助け出せる?もどかしくて悔しくてやるせなくて、瞳から水が落ちる感覚がした。ぎょっと目を丸めた由紀は慌てて私を頭を抱き寄せると、おろしたままでいた髪の毛に触れる。泣かないで、と祈るような声が聞こえて、私は自分が初めて泣いていることを知った。負の連鎖を断ち切れないでいる自分が、嫌で嫌で仕方がなかった。もうこれ以上、由紀が死ぬところを見たくなかった。どれが本当の記憶で、どれが夢で、どれが本当の現実なのかさえも分からない。今見ている光景が何なのかも分からない。どうして自分が生きているのかも、どうして由紀が死んでしまうのかも。自分の意思に反してぽろぽろと零れていくそれが由紀の肩を濡らす。それに構わず由紀は私をただ抱きしめて、頭を撫でた。その手は心地よくて、全てを投げ出して縋りついてしまいたくなる。何も知らない由紀に、ごめんと何度も心の中で謝った。








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