あぁ、また駄目だった


 夢から覚めたばかりの現実との区別が曖昧な感覚が好きだ。体がふわふわと浮いているような、沈んでいるような、もう一度夢の中に戻りたいような、早く目を覚ましてしまいたいような不思議な感覚。目を開けたら真っ白なシーツと見慣れた長い髪が視界に入って、ここがベッドの上で、外はすっかり明るくなっていることに気付いた。ベッドサイドの時計を見れば時刻は7時前。起きるにはまだ早い。こちらに背を向けて眠る由紀の背中に擦り寄れば、自分よりも暖かな体温を感じた。まだ眠っている彼女の髪からは甘い華のような香りがして、うなじに鼻を押し付けるようにして嗅げば、ぴくりと肩が動いた。おはよう、とそのまま耳元で囁くと、寝ぼけ眼のまま由紀は私を振り返って目を擦った。



「……おはよ。今なんじ…?」

「ごめん、起こしちゃったね。まだ7時前だよ」



 体をくるりとこちらに向けた由紀は私の胸にぐりぐりと頭を押し付けると、ふああ、と欠伸をこぼした。昨日は二人とも仕事で帰りが遅かったから寝不足気味だ。細い髪の毛に指を通すように頭を撫でると、先ほどよりも甘い香りが強くなる。まだ目が覚めないのか、由紀は私の腕の中に潜り込んだまま動かずにまた目を閉じた。あと5分、と呟いた彼女の声はすぐに寝息に変わる。こうして同じベッドで朝を迎えるようになってからもう何年も経っているのに、二人体を寄せ合って微睡むこの時間に飽きることはなかった。

 高専を卒業して、もう随分と時間が経った。そのまま呪術師として働き続ける私たちはお互い忙しく、会える時間を作る努力をやめ、いつしか一緒に住むようになっていた。帰る場所が同じであれば、どんなに忙しくとも一日に一回は顔を見れるし、一緒に眠ることもできる。まとまった時間はなかなか作れないけれど、寂しさはあまり感じなかった。由紀が死んで、私が呪詛師になるというあの現実が、まるで夢だったと思えるくらい、私は“ここ”で長い時を過ごしている。由紀は、生きている。



「傑、今日はお休みだっけ」

「そうだよ。由紀は今日任務入っていたよね?」

「今日は長野で。夕方には帰れるかなぁ」



 5分を少し過ぎた頃に目を覚ました由紀は、渋々と上体を起こすと両手を上にあげて全身を伸ばした。寝ぐせのついた毛先を引っ張って一つにまとめ上げると、そのままベッドを抜け出して洗面所へ向かう。私も後を追うようにベッドから降りて、洗面台の前に立った。二人で並んで歯を磨いて、交互に顔を洗う。どちらが休みの日でも、私たちの朝はいつもこうして二人で身支度を整えるところから始まる。その方が一緒に過ごす時間が増えるし、体内時計も整うからだ。すっきりした面持ちで洗面所を出て、由紀が着替えている間に私が朝食の準備をする。最初は手が空いた方が作っていたが、男より女の方が身支度に時間がかかることを考慮して、自然と私が朝食を担当することになった。料理はあまり得意ではないが、朝ごはんなら簡単なものでも許される、ということで喜んで引き受けた。焼きあがったトーストにバターを塗って、サイドにはサラダとベーコンを添える。いろんなメーカーを吟味して選んだコーヒーメーカーはスイッチ一つで美味しいコーヒーを淹れてくれるから、ここ数年で買って良かったものベスト10には絶対に入る。その匂いに釣られるように着替えを終えた由紀が部屋から出てきて、一緒に食卓に並べて「いただきます」と手を合わせた。朝食を食べながら、今日の予定や晩御飯のメニューを確認する。もう半分夫婦のようなものだが、プロポーズはまだしていない。もちろん結婚したい気持ちもあるけれど、私にはその前にやり遂げなければいけないことがあるからだ。



「美々子ちゃんと菜々子ちゃん、明日で卒業か〜」

「早いね。ついこの前まであんなに小さかったのに」

「なんかそれおっさんくさい」



 私が腐ったあの村から連れ出した、二人の少女。美々子と菜々子は明日で中学校を卒業する。最初こそ人間不信でなかなか懐いてはくれなかったが、私たちに害がないと判断したのか、次第に表情も明るくなり、今では家族のような存在になった。呪詛師として生きていた頃は私という存在しか拠り所がなかったものの、今では由紀も、学校の友達も、悟や硝子ともいい関係を築けている。この二人にはこんなにも明るい未来が待っていたなんて、あの頃の私には想像も出来なかった。それもすべて二人が自分の力で作り上げたもので、由紀の協力がなければ実現できなかったかもしれない。ずっと虐げられてきた二人が屈託のない笑顔を見せてくれることが、何よりも嬉しかった。彼女たちの保護者代わりとして、私は役割を果たせたのだろう。



「4月から高専に入学するんだよね。私たちの後輩になるのかぁ」

「なんだか変な感じだね」

「恵くんたちと仲良くできるといいね」

「確か一度会ったことあるはずだよ。あの時はまだ小学生だったかな」

「あの頃の恵くん、可愛かったね」



 初めて悟に連れてこられた伏黒恵に会った時のことを思い出しながら食器を洗う由紀を後ろから抱きしめる。シャンプーとは違う、爽やかな香水の香りが鼻をくすぐった。自分の腕の中にすっぽりと納まってしまう小さな体が愛おしい。「どうしたの?」と笑ってこちらを振り向いた由紀の唇を塞ぐと、リップの無機質な味がした。リップが、と言いながらも抵抗をしない由紀の唇に何度も自分のそれを押し当てて、次第に鼻にかかるような吐息が聞こえてくる。すっかりと色を失った彼女の唇を指でなぞると、もう、と胸を叩かれた。



「今日帰ったら話したいことがあるんだ」

「今聞いちゃダメなの?」

「ゆっくり話したいから。もう時間だろう?」



 そう言って時計を指差せば、由紀は大人しく頷くと私の腕を抜け出して鏡の前でリップを塗り直した。その姿を見守って、クローゼットの中から由紀がいつも着ているコートを取り出してやる。ありがとう、とそれを受け取った由紀は、慌てたように玄関まで小走りで向かうと、ブーツに足を通しながらこちらを振り返った。



「できるだけ早く帰るね。じゃあいってきます!」



 眩しい笑顔で手を振った由紀が玄関の向こうへ姿を消すと、途端に部屋の中が静かになる。さて、と私も身支度を済ませて、人で賑わう街へ繰り出した。目的の場所は駅から少し離れたところにある、由紀が好きなブランドのジュエリーショップ。以前から注文していた指輪ができたとの連絡がつい先日あったばかりで、逸る気持ちで足を急がせた。ずっと面倒を見てきた美々子と菜々子が卒業式を明日に控えた今、ようやく私たちの役目は終わる。二人は高専に入って、これから一人前の呪術師として自分の力で生きていくのだ。もう何年も前から、私はこの時を待っていた。由紀が帰ってきたら、一世一代のプロポーズをしよう。二人が高専に入ったら、仲間内だけで結婚式を挙げよう。由紀は和装も洋装もどちらも似合いそうだ。本人が望むなら両方着せてやるのもいい。悟と硝子と夜蛾先生も呼んで、久しぶりに高専時代の思い出話に花を咲かせよう。その後はもう少し広い家に引っ越して、今はまだ二人で居たいけれど、いつかは子供も欲しい。ある程度稼いだら呪術師を辞めて、家族で田舎で静かに暮らしてみるのもいい。今の私は昔の私とは違って、明るい未来の光景しか浮かばなかった。














 指輪も受け取り部屋の掃除も終えて、疲れて帰ってくるであろう由紀のために不器用ながらも夕飯を作った。彼女の好きなメニューをテーブルの上に並べて、いつでもスムーズに取り出せるように小さな箱をポケットに仕舞う。どう言葉を切り出そうか頭の中でシミュレーションをしていると、テーブルの上に置かれたスマートフォンがぶるぶると震えた。画面に表示された「高専」の文字に、急な任務だろうかとすぐに電話を取った。電話の相手は由紀と仲の良い補助監督の人で、震える声で用件だけを伝えた。彼女の言葉に、すうっと血の気が引いていくのを感じる。ポケットに入っていた物が落ちる音も無視して、私は家を飛び出した。





『今すぐ高専に来てください。……………由紀さんが、亡くなりました』





 もう何年も立ち寄ることのなかった、高専の安置室。固くて重い扉を勢いのまま体当たりをするように押し開くと、ベッドの横に立ちすくんでいた悟がゆっくりと振り返った。星奬体の任務が失敗した時と同じ、疲れたような、絶望したような目で、彼は私を見据えた。「……ごめん。間に合わなかった」と悟の口から零れた言葉に、弾かれるように彼の胸ぐらを持ち上げた。がしゃん、と椅子が倒れる音が部屋に響く。慌てて止めに入った補助監督の女は、涙を流しながら必死に私を止めた。



「五条さんは悪くありません!すぐに駆けつけてくれたけど、その時には、もう………ッ!」



 そんなことは、分かっている。悟が悪いわけではない。由紀を殺めたのは呪霊で、どの呪術師も死と隣り合わせにあるもので、もちろん由紀だってその可能性があるわけで。何年もの間平和に生きてきたせいで、そんな当たり前のことを忘れていた。抵抗もせずただ俯いている悟の胸から手を放して、そのまま崩れるように地面に膝をついた。目の前に横たわっているそれは、以前にも見たことがある。今度はちゃんと全身があるようだが、その頬は血の気を失って真っ白だ。閉じた瞼はぴくりとも動かずに、まるで人形のように眠っている。今日は早く帰ると、言っていたのに。どうして今日なんだ。今頃、私は由紀にプロポーズをして、由紀は笑って頷いてくれて、将来のことを二人で話していたはずなのに。先ほどまで頭の中で描いていた未来がガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。彼女の頬は、まるで自分の過ちを忘れるなと言わんばかりに冷たく固い。もうこんな由紀に、触れたくなどなかったのに。何度名前を呼んでも、彼女が私に応えることはなかった。








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