幾度も君の死を看取る


 エアコンの冷気が充満した部屋は居心地がよく、全身を思い切り伸ばすと溜まりに溜まった任務の疲れが外に逃げていくようだった。秋、冬、春と季節が過ぎて、またセミたちが騒ぎ出す夏がやってきた。あれから相変わらず忙しい日々を過ごしている私たちだったが、恋人になったせいか以前よりも一緒にいる時間は増え、こうして私の部屋で二人で過ごすこともいつの間にか当たり前になっていた。もちろん二人で過ごしたかったというのもあるが、悟が特級となり一人での任務が増えたため、必然的に悟との時間が減った、というのも大きいだろう。人の根幹というものは変わらないらしく、やはり任務に出るたびに呪霊の味に辟易し、猿共のためになぜ私たちが犠牲になるのかという疑問は尽きなかった。星奬体の任務失敗を機に、私は変わってしまったらしい。それは過去をやり直したところで変わらない事実だ。あの事件をきっかけに自分の中で何かが変わったのはよく分かっている。それでもこうして普通に呪術師をやれているのは、以前よりはいくらか大人になった精神力と、私の隣で健気に私を支えてくれている由紀のおかげだろう。どんなに猿共が嫌いでも、憎くても、由紀が隣で笑っていてくれれば、そんなことはどうでもよく思えてしまうのだから。



「あれ、」



 隣で私にもたれ掛かって本を読んでいた由紀は壁に目を向けたまま声を上げた。つられて壁に目を向けると、彼女の視線は壁に掛けられたカレンダーに止まっていた。年の瀬に二人で買って、一緒に予定を埋めていこうねと約束したカレンダー。二人のデートや任務の予定、たまに入る同級生四人での約束なんかは特に目立つように赤い文字で彩られている。その中でもひと際存在感を放っているのが、何も書き込まれることなく真っ黒な油性ペンで囲まれた一日。その日付を見て、由紀は首を傾げた。



「来週の水曜日って、何かあったっけ?」

「ああ。あれは私にとって大切な日なんだ」

「誰かの誕生日とか?」



 隣で見上げてくる由紀に、私は曖昧に微笑んだ。絹のような触り心地の由紀の髪に手を通すと、さらりと指にかかりそのまま元あった場所へ落ちていく。「傑?」と名前を呼ばれて、ごく自然に肩を抱き寄せて彼女の唇に口づけた。以前よりもいくらか滑らかになった二人のスキンシップは心地よく、ずっとこうしていたい、離したくないという気持ちが日に日に強くなっていく。

 来週の水曜日。忘れたくても忘れられない。この日は、由紀の命日だ。何年経っても忘れることなんてできずに、一度も欠かさず墓参りをしてきたのだから。このカレンダーを買ってから、どの予定よりも先につけた黒い印。これは自分への戒めであり、決意だ。ここに戻った時から決めていた、たとえどんな手を使ってでも由紀を死なせたりしないと。あの任務にさえ行かなければ、由紀は今も私の隣で笑っていたかもしれない、たとえ呪霊の力を借りようとも、そんな未来を何もせずに手放すことなんてできない。



「来週の日曜日は休みをとって、一緒に海に行こう。去年買った水着、まだ来てないだろ?」

「傑、あの水着見たがってたもんね」



 去年硝子と一緒に買いに行ったと言っていた、私がリクエストした由紀に似合いそうな少し可愛らしいデザインの水着。去年は何かと忙しく結局海には行けなかったが、この際二人でもいいだろう。悟は俺も行きたいと駄々をこねるかもしれないが、彼は最強だからいつでも行くチャンスはある。大人げないかもしれないが、どうしても“あの日”以降の未来の約束を、由紀と交わしたかった。楽しみだね、と嬉しそうに笑う由紀はこの後自分に起きるかもしれない未来なんて微塵も分かっていなくて、死とはいついかなる時でも理不尽なものなのだと痛感した。













「あれ、今日は夏油さんが行くんですか?」



 水曜日。正門で補助監督の車に乗り込むと、すでに乗っていた七海は驚いたように声を上げた。「今日はよろしく」とだけ伝えて隣に腰掛けると、七海は疑問を顔に浮かべたまま任務資料を私に手渡した。



「今日の任務は由紀さんと行く予定でしたが」

「少し夜蛾先生に無理を言ってね、変えてもらったんだ」

「相手は2級呪霊ですよ?夏油さんが行くほどの任務では……」

「気になる呪霊でね。できれば手に入れておきたい」



 適当にそれらしい理由をつければ、七海は納得したようにフロントガラスに目を向けた。その様子に安心して資料に目を落とすと、今になればいかに調査不足かがよく分かる。現場にいるのは資料にかかれているような2級ではなく、おそらく1級相当の土地神だ。窓の調査による報告と実際に現場で遭遇する呪霊の階級が違うなんていうのはよくあることだし、七海と由紀では勝てるはずもない相手だったというのはどうしようもない現実だ。だからこそ、由紀の死の瞬間に傍にいたであろう七海を、私は責めることが出来なかったのだ。でももう同じ轍を踏むわけにはいかない。さあ、行こうかと補助監督に声をかければ、静かな音を立てて車のタイヤが滑り出した。












 任務を終えて日が傾いた頃、高専についた車を降りてすぐに由紀の部屋へ向かった。少々手こずりはしたが私にとってはいつも相手にしている呪霊と同じ、特に怪我をすることもなく呪霊を取り込むことができた。これで由紀をこの世から消し去ってしまった張本人はいなくなった。頭では分かっているものの、早くその姿を見て安心したかった。ただいまと言って抱きしめて、体中にキスをして、由紀が生きていることを全身で確かめたい。きっと由紀はおかえりと笑って、全てを受け入れてくれるだろう。そしたら日曜日の約束の話をして、それから先の予定も立てよう。高専を卒業した後の進路とか、いつか一緒になろうとか、早く伝えたいことは山ほどある。無意識に速足になる自分に少し笑ってしまったが、この逸る気持ちをどうにも抑えられなかった。女子寮に足を踏み入れて、何度も訪れた由紀の部屋の扉をノックして、返事も聞かずに開く。ただいま、私の声は誰もいない部屋に吸い込まれただけだった。



「由紀………?」



 由紀が待っていると思っていた部屋は真っ暗で、人がいる様子はない。急な任務に行ったのか脱ぎ捨てられたままの部屋着がベッドの端に引っ掛けられている。グラスもテーブルの上に出しっぱなしだ。なんだ、いないのか。また出直そうと扉を閉めた時、「夏油」と聞きなれた声が聞こえて後ろを振り返ると、いつものようにタバコをふかした硝子が壁に寄りかかって私を見つめていた。ちょうどよかった、由紀がいつ帰ってくるか知らないか?と問いかければ嫌な沈黙が続いて、硝子は視線を床に落とした。



「由紀は、もう帰ってこない。死んだよ」



 それから、どうやって安置室まで行ったかはよく覚えていない。硝子に引っ張られた気もするし、衝動に駆られて走り出した気もする。ベッドの上には白い布が掛けられた山があって、そっと捲ると、まるで眠っているかのように綺麗な由紀の青白い顔があった。前は見ることが出来なかった、初めて見る、由紀の死に顔。ごくりと唾を飲み込む音がひどく静寂な部屋に響いて、時が止まったように私はその場に立ち尽くした。白い山はベッドの上半分だけで、途中から質量を無くしている。どうして、私のほとんど独り言の呟きに、硝子はいつもより少し震えた声で今日起きたことを話してくれた。急な呪霊の討伐任務が下って、高専で待機していた呪術師数名が向かったこと。由紀もその中の一人だったこと。そんなに強い呪霊ではなかったが知性があったらしく、非術師を人質にとったこと。その人質を、由紀が身を挺して救ったこと。ああ、なんて彼女らしい死に様だ、自らを顧みずに人を助ける、いかにも彼女らしい最期。そうか、それ以外の言葉が出てこなくて、私はただ由紀の冷たくなってしまった頬を撫でた。なぜ私はここにいるのだろう。彼女を助けるとそう息巻いて、呪霊なんかの手を借りてここまで来たのに。なぜ、どうして。今朝まで温かく柔らかかった由紀の頬。いつの間にか水溜まりを作った目元から一筋の水滴がその頬滑り落ちて、まるで由紀が泣いているようだった。







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