もしかして今度こそは

 どれくらいの間そうしていたんだろう。ゆっくりと深呼吸をして、再び過ごした過去が走馬灯のように過ぎ去っていく。一体どこで間違えたのか。なぜいつも間違えてしまうのか。何度考えても映像の中に答えは見つからなくて、もう一度、もう一度と思い返してはこみ上げてくる吐き気と喪失感に胸が焼けつくように痛かった。重たい瞼を開いて部屋の中を確認すれば、もうとっくに朝日は昇っているようだ。カーテンの隙間から差し込む朝日は部屋の埃をキラキラと照らしているが、前は幻想的に思えたその光景も今では物寂しく見える。頭が痛い。寝起き特有のダルさを引きずる体を無理矢理起こして時計よりも先にカレンダーを確認する。今日の日付は2006年7月。私はまた、過去へと戻ってきた。



「傑、起きてる?」



 あの日と同じ時間、部屋の扉を控えめに叩く音と同時に由紀の声が聞こえてきて、分かってはいたが思わずほっと息を吐いた。ベッドを飛び出して勢いのままに扉を開けたら、先ほど見た冷たくて固い由紀とは違い、確かに血の気の通った由紀が、未だに部屋着でいる私を見て目を丸くしていた。彼女が、生きている。それを確かめたくて何も言わずにその体を包み込めば、由紀は戸惑ったように「遅刻しちゃうよ?」と肩を叩いた。もう少しだけ、そう言って彼女の首筋に顔を埋めたら、確かに脈打つ動脈を感じられた。少し遠くではとくとくと少し速いリズムで鳴る心臓の音も聞こえる。「寝ぼけてるの?」なんて笑う彼女の体は、温かく柔らかい。生きて、いる。



「傑、着替えないと本当に遅刻する…」

「………………うん、分かってる」



 急にごめん、と謝って体を離せば、由紀は少し頬を染めて何度か瞬きをして首を振った。すぐに着替えるから待っててと一度扉を閉めて、すでに着慣れた学生服に袖を通して、いつものように髪を括る。過去に戻ってもう一年の時を過ごして、学生の生活習慣はもうしっかりと身に着いた。また、この一年が始まる。













 再び始まった一年はあっという間に過ぎ去った。以前よりも由紀を大事にするようになったし、些細なことにも気を配るようになった。彼女が死なないように、何度か一緒に鍛錬もした。ほとんどが以前と同じ繰り返しだったが、時折イレギュラーなことも起き、過去を変えられるということは実証できた。それがどこまで人の生死に影響を与えるのかは分からないが、少なくとも絶対に死ぬ、ということはないように思えた。少しだけ未来に希望が見えた。

 そしてやってきた由紀の命日。連日続く暑さと任務に限界を迎えた由紀は、ついに昨日倒れた。今流行りの夏風邪らしく症状は軽かったが、任務はしばらく休むことになった。彼女の穴はその他の全員で埋めることとなったが、元々階級の高くない彼女の穴埋めは大した苦労ではなかった。彼だけを、除いては。



「なんてことない2級呪霊の討伐任務のハズだったのに……!」



 怪我を負った七海は目元を覆ったまま、力なく壁に寄りかかった。つい一年前の同じ日にも訪れた安置所の無機質なベッドの上には、よく見知った顔の男が横たわっていた。固く目を閉じた彼はぴくりとも動かない。血まみれになった体と、頬にできた大きな傷が目に焼き付いてなかなか消えてくれない。産土神信仰。昔由紀を殺した土地神と呼ばれる1級呪霊の今回の餌食となったのは、私でも由紀でもなく、後輩の灰原だった。明るく前向きでモチベーションも高かった後輩、人を見る目があったかは定かではないが、私のことをとても慕ってくれていた。惜しい後輩を、亡くした。それでも私の心は穏やかで、少しも心は揺らがなかった。目の前にあるのは自分の大切に思っていた同じ呪術師の死。非術師を消し去ってでも守りたかった彼ら。それなのに、安堵で満たされていく心。



「今はとにかく休め、七海。任務は悟が引き継いだ」



 静かに眠る顔に布を掛けてやれば、ほんの少しだけ感じていた痛みが和らいだ。ごめんとも、ありがとうとも、私に言う資格はない。君が犠牲になったおかげで由紀が生きているのか、それともそんなことは関係なく由紀が生きているのかは分からないが、私には前者である気がしてならなかった。何かを得るためには何かを失うのが自然の摂理だろう。欲しいものをすべて手に入れようだなんてそんなおこがましいことは考えていない。きっと、由紀はお前のおかげで助かった。灰原が亡くなったことは悲しくもあるし、悔しくもある。七海にとっても辛いだろう。ただそれよりも、由紀がこれで死なずに済んだという事実だけが、私の頭と胸を埋め尽くしていた。いつからこんなに薄情な人間になってしまったのだろう。いや、私は元々薄情な人間だったのかもしれない。非術師を消し去るという大義も、全て独りよがりだったのかもしれない。私はただ由紀に生きていてほしい、今の私を動かしているのは、それだけの感情だった。














 通い慣れた部屋に足を運んで、起こしてしまわないようにそっと扉を開いた。カーテンも閉め切ったままの薄暗い部屋の奥からは小さな寝息が聞こえる。足音を忍ばせてベッドの端に腰掛けると、由紀は額に汗を滲ませて目を閉じていた。だいぶ顔色がよくなっているものの、まだ熱は下がっていないようだ。少し汗ばむ髪に指を通すと、ぴくりと瞼が跳ねて何度か睫毛が上下に揺れた。



「ごめん、起こしちゃったかな」

「………………すぐる、?」



 未だ覚醒していない頭で私を見つめた由紀は何度か瞬きをして、「おはよう」と掠れた声を出した。起き上がろうとする体を支えて背中にクッションを挟んでやると、由紀はそれにもたれ掛かって乱れた髪を手櫛で梳かした。いつも以上に血色を感じる赤い頬に、彼女が生きていることを強く実感した。引き寄せられるようにその頬を撫でると、由紀は冷たくて気持ちいいと目を閉じる。平熱よりも高いその温度が今日はとても心地よくて、そのまま肩を抱いて小さな体を腕の中に閉じ込めると、戸惑った由紀の声が耳に入った。



「わ、私お風呂入ってなくて…汗臭い、から」



 抵抗するように胸を押されたが、そんなことはどうでもいいと私は腕に力を込めた。今は、この温もりを離したくない。少しでも離れてしまえば、以前のように冷たく固い由紀の頬を思い出してしまう気がして。「臭くないよ」と彼女の首筋に顔を埋めて呟けば、諦めたのか由紀はすぐに肩の力を抜いて大人しくなった。いつまでも無言で抱きしめたまま放そうとしない私に、「何かあった?」と優しく問いかける由紀はあやすように私の背中をとんとんと心地よいリズムで叩く。あったとも、なかったとも言えない。灰原が死んだおかげで君が生きているなんて、由紀は知らなくていい。



「私は、君が居てくれればそれでいいんだ」



 自分に言い聞かせるようにも聞こえる言葉に、由紀はきっと訳がわからなかっただろう。「うん、」と頷いて耳を傾けてくれる姿に、余計に胸が苦しくなった。それでもこの小さな体に甘えずにはいられなかった。はち切れそうな胸の痛みを消し去るには、由紀に縋るしかなかった。君が居ればそれでいい。君以外は何もいらない。たとえ何かを、誰かを失ったとしても、それだけでいいんだ。そんなことを考えてしまう私を、どうか許さないでくれ。







- ナノ -