その役目が終わるとき


 高専から離反して、もう何年もの時が過ぎた。私は最悪の呪詛師として歴史に名を刻み、その言葉の通り自分の術式を行使して非術師を利用してきた。何年も前に経験した、呪詛師としての生活はやはり身の丈にあっているようだった。ここでは、自らの本音を押し殺して生活せずに済む。猿は嫌い。ただそれだけだった。最初は美々子と菜々子の二人しかいなかった家族も、新たな呪詛師たちを迎えて人数が増えた。最強にはなれなかった私でも、少しずつではあったが呪霊を消し去るためにそれなりに生きてきた。自分の理想のため、大義のため、使える猿は利用し、使えない猿を殺すことに躊躇はなかった。そうして集まった呪霊は2000を超え、確かな力をつけつつあった。

 そんなある日、高専の一年に私と同じ特級の術師が転入したとの情報を掴んだ。名前は乙骨憂太。特級過呪怨霊・折本里香に呪われた特級被呪者だ。もし、彼女が手に入れば、私の夢も地に足がつく。乙骨を殺してしまえば、彼女を取り込むことなど容易だ。12月24日。たくさんの人が集まるこの日に百鬼夜行を行えば、高専関係者はみな被害を抑えるために私が宣言した場所に出向くだろう。そうすれば、乙骨は孤立無援だ。最近入学したばかりの学生一人を殺すことなど、なんとも容易い。



「時がきたよ、家族達。猿の時代に幕を下ろし、呪術師の楽園を築こう。まずは手始めに、呪術界の要・呪術高専を落とす」



 私が根城にしている宗教施設の一室に家族と呼ぶ呪詛師たちを集め、今後の計画について話す。ここに集まる彼らの中には、反対する者は一人もいない。皆私と同じ理想を掲げているのだから。これから百鬼夜行の宣言をしに高専へ向かおうと支度をしていると、菜々子と美々子が隣へ駆け寄ってきて、周りには聞こえないようにこっそりと耳打ちをした。



「夏油様、いいんですか?」

「何か不安でも?」

「……高専に行ったら、“あの人”に会ってしまうんじゃ……」



 心配そうに私の顔を見上げる二人に、「問題ないよ」と笑って頭を撫でてやれば、私の様子を伺いながらも彼女たちも支度をするために部屋を後にした。広い部屋にぽつんと一人だけ残されて、つい、ため息が漏れる。由紀のことは誰にも言わないつもりだったけれど、菜々子と美々子だけには「高専に大事な人がいる」とだけ伝えていた。本人たちは知らないだろうが、君達と由紀は、とても仲が良かったんだよ。一緒にお風呂に入って、服を選んで、恋をしたら相談に乗って、おしゃれをして。今はもう存在しない過去の記憶。楽しげに話す彼女たちの姿を見るのが、とても好きだった。本当は二人を由紀に会わせてあげたかったけれど、呪詛師に堕ちた私は、もう由紀に会うことはできない。今願うのは、一刻も早く私のことを忘れて、幸せに生きてほしい、それだけだ。そのためには、私は由紀に会うわけにはいかなかった。寂しくないと言ったら嘘になる。最後に見た彼女は泣いていたから、あれからどうなったのかも心配だ。それでも、必死にこの感情を押し殺して彼女のために生きてきた。今頃由紀は、幸せに笑っているんだろうか。









「傑」



 耳をくすぐる、鈴みたいに転がる彼女の声。波打つシーツの海に溺れながら、手探りで彼女の姿を探せば、すぐ隣に同じように横になった由紀が私を見て微笑んでいた。長い絹のような綺麗な髪に指を通すと、由紀の目元が綻んで「ふふっ」と声が漏れた。布擦れの音と共に私の腕の中に潜り込んできた由紀は、私の首筋に顔を埋めるとすうっと大きく息を吸い込んだ。「私、傑の匂い好きなんだ」と笑った由紀に、私もお返しに彼女の頭に鼻をつけて匂いを嗅ぐ。いつも使っているシャンプーとは別の、甘い匂い。「私も由紀の香り、好きだよ」と言えば、彼女は照れくさそうに笑う。カーテンの隙間から入り込む仄かな月明かりに照らされた部屋は、どこか幻想的で、神聖な空間にも思えた。薄い部屋着同士が触れ合う感覚も、二人の声と冷蔵庫の音しか聞こえない静けさも、まるで映画のワンシーンのように儚く眩しい。愛しくてたまらない彼女が私の腕に抱かれて幸せそうに目を細めている。これ以上の幸せが、この世に存在するのだろうか。



「私、傑に出会えて良かった」



 もう見知った、何度も口づけた唇に触れると、由紀は私の目を見つめてそう言った。「突然どうしたんだ」と頬を撫でたら、「なんとなく、伝えたくなったの」と由紀は静かに涙をこぼした。頬を伝う雫を追いながら、泣かないでと何度も彼女の唇を塞ぐ。どうして彼女が泣いているのか、分からなかった。必死にしがみついてくる由紀の指は震えていて、指を絡ませてシーツに縫い付ける。月明かりを反射した由紀の瞳は、キラキラと光っていた。



「好きだよ、傑」



 私の頬に触れた由紀は、瞳に涙をいっぱいに溜めながら、それでも今までで一番の笑顔を見せた。これは、一体、いつの記憶だろう。











「遅かったじゃないか、悟」



 乙骨を殺して折本里香を手に入れる、はずだった。それがどうやら私は彼を見くびっていたらしい。同じ特級だなんて言ったが、彼はそれ以上の力を持っていた。吹き飛ばされた右腕がズキリと痛む。壁にもたれて座り込んだ私の前に姿を現したのは、高専時代、苦楽を共にしてきた親友だった、悟だった。「君で詰むとはな」と笑った私に、悟はただ黙って私を見据えるだけだった。呪詛師なんてやっているんだ、いつかは死ぬ日が来るだろうとは思っていた。その日がこんなに早く来てしまうなんて思わなかったが、親友の手で逝けるのなら、悔いはない。「何か言ってくれよ」と悟の目を見ると、彼は普段は隠している青い瞳で私を見つめたまま口を開いた。



「お前、呪われてるぞ」



 予想もしていなかった言葉に目を丸くすると、悟は「高専に居た時から、変な術式が身体に流れてる」と私の前にしゃがみ込んだ。変な、術式。心当たりはあった。事の始まりは、私が過去に戻る呪霊を取り込んだあの瞬間。あの時から、常に術式を使用しているような疲労感はあった。過去に戻っている間は、あの呪霊を使役していたから当然だと思っていたが、そうか、私は、あいつに呪われていたのか。どうやら悟にはそれが見えているらしい。「お前、何を取り込んだんだよ?」と眉を潜めた悟は、ガシガシと頭を掻いてため息を吐いた。



「………………過去に戻れる呪霊を、取り込んだんだ。本当は由紀は、二年の夏に死ぬ運命だった。それを、助けたくて」



 ぽつりぽつりとこれまでにあったことが自然と口から零れていく。元々は今と同じ呪詛師だったこと。由紀を救うために過去に戻ったこと。何度も由紀が死んだこと。自分が離れれば死なないのではないかと思ったこと。悟が知らないたくさんの記憶。話しても信じてはもらえないかもしれない、そう思いながらも、私の口は止まらなかった。本当はもうずっと、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。たった独りで抱えてきた膨大な時間を、悟には知ってほしかった。私が、何を見て、何を思って生きてきたのか。私が話し終えるまで黙っていた悟は、顔を歪めて言葉を探しているようだった。



「たとえ死んでも、由紀が助かるまで一緒に居てやればよかっただろ」

「もう、限界だったんだ。これ以上彼女が死ぬところを見たくなかった。由紀が生きててくれるなら、私は傍にいられなくても構わなかったんだ」



 理解できない、とでも言うように「ハッ」と吐き捨てた悟は、立ち上がって私に手をかざす。ああ、これでもう終わるんだ。齢にしてみればたった27年。きっとそれよりも長く過ごした私の人生が、ようやく終わる。



「由紀は、どうしてる?」

「お前に頼まれたからな。僕の婚約者として、五条家総出で丁重に守られてるよ。そう簡単には死なないさ」

「……そっか、良かった。君の傍にいるなら安心だ」



 本当は、私が由紀の隣に居られたら良かったんだけどな。ぽつりと漏らした本音には、自分でも苦笑いするしかなかった。それを聞いた悟は、「絶対幸せにするよ」と言って今度こそ私に手を向けた。バシュ、と衝撃が走って、次第に意識が遠のいていくのが分かる。ああ、これで、私は終わるんだ。悟にはたくさんの物を託してしまって申し訳なかったな。最期まで頼りっぱなしだ。でも終わらせてくれるのが君で、良かったと思うよ。少し、休もう。傍で見守る親友を最後に見て、私は目を閉じた。その時ふと、ずいぶんと前の記憶を思い出した。






 誰もいない二人きりの教室。エアコンは壊れ、窓から吹き込む風だけが心地よかったあの場所。遠くに聞こえるセミの鳴き声と、教科書のページをめくる音。爽やかな風に目を閉じた由紀は、儚くて、綺麗で、愛しくて。この時がずっと続けばいいのにと、本気でそう思った。



「由紀にとっての幸せって、何?」



 私の質問に真剣に悩む由紀は、頬杖をついて窓の外を見つめる。しばらくそうして、答えを思いついたのか由紀は私を見つめて微笑んだ。



「こうやって傑と一緒にいる時間が一番幸せかな」






 ああ、私はなんて馬鹿なんだろう。由紀は確かにそう言っていたのに、それすらも叶えてやれなかった。どんな結末になろうとも最期の最期まで傍にいれば、由紀は幸せだったんだろうか。生きていてほしいなんて、そんなの、自分のエゴだ。今更こんなことを思い出すなんて、本当に。



「私は、馬鹿だなぁ……」



 私の呟きが声になったのかは分からない。ただ、周りの音は何も聞こえなくて、後悔ばかりが胸の中に広がるだけだった。

由紀。幸せにできなくて、ごめん。










 親友を、自らの手で葬った。動かなくなった傑の中から、異質に光る呪いの残穢がすうっと消えていく。正確にはいつだったかは覚えていないが、傑がまだ高専に居た頃からこの異質な呪いは傑の中にあった。よほど強い呪霊を取り込んだ影響なのだろうと思っていたが、まさか傑がその呪いに当てられているとは思わなかった。急に窶れたように見えたのは単に忙しいからだと片付けていたけれど、何度も同じ時を繰り返していたなんて。



「辛かったな、傑」



 もっと早くに僕や他の人に相談していれば、きっと由紀一人を守ることくらいできた。それなのに、何度も何度も独りで耐えてきたのか。それが彼の意思だったのか呪いの影響だったのかは今ではもう分からない。ただ、それほどまでに傑の由紀への愛は大きかったのだろうと、そう思えた。たった一人の女のためにそこまでできるなんて、お前はすごいよ、傑。



「愛ほど歪んだ呪いはない、ね」



 お前の願いは、ちゃんと叶えるよ。帰ったら、由紀に傑のことを話そう。傑がいなくなって嘆いていた彼女に、傑がどうして由紀を置いていったのか、どうしてこの道を選んだのか。由紀は傑にちゃんと愛されていたんだと、伝えよう。それが僕が唯一2人のためにしてやれることだから。今はただ、親友が安らかに眠れることを、祈って。








ご愛読ありがとうございました。







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