君を無事未来へ届ける


 新宿のとある喫煙所。ここに来れば、彼女に会えるだろうと思っていた。何の挨拶もなしに出て行ってしまった私は、どうしても一言だけ、彼らに伝えたいことがあったのだ。



「火、いるかい?」



 未成年だというのに制服を纏ったまま喫煙所に佇んでいた硝子は、私を見ると「犯罪者じゃん」といつもと同じ調子で笑みを零した。責めるわけでもなく、泣くわけでもなく、怒るわけでもない、彼女らしい反応。三年間での私の硝子の認識と、何も変わることはなかった。事前に準備しておいたライターを取り出して彼女のタバコに火をつけてやると、硝子は慣れた手つきで煙を吸い込み、そして吐き出す。「一応聞くけど」という前置きと共に、彼女は私が起こした事件の顛末を問いかけた。その問いに当たり障りなく答えながら、彼女の手元に視線を送った。携帯を取り出して、アドレス帳から五条悟の名前を探し出す硝子の指を追う。それで、いい。私も、悟と話がしたい。悟を電話で新宿に呼び出して、そのまま次の人物を探し出す硝子の手をやんわりと止めた。



「なに、由紀には会わないの?」

「ああ。泣き顔は見たくないんだ」

「泣かせるって分かってるんならやめときゃいいのに」

「由紀を、頼んだよ」



 私がそう言った時の硝子は、珍しく眉間に皺を寄せて怒っているようだった。何も知らずに置いていかれる由紀のことを心配しているのかもしれないし、そんな私を軽蔑しているのかもしれない。どちらにせよ、私には由紀の傍にいるという選択は出来ない。それでもせめて、周りの人間に由紀を託すしかなかった。「それじゃあ、元気で」それだけ言い残して私は硝子に背を向けた。







「説明しろ、傑」



 遠い昔の記憶を辿って、あの時最後に悟に会った場所へ向かえば、彼はやはりそこに居た。普段は疲れるからとほとんど外すことのないサングラスすら付けず、ありのままの姿で私の前に立ちはだかっている。怒りに満ちた青い瞳は“理解できない”と全力で訴えている。二度目の、裏切り。親友のこんなに怒っている姿を見るのは、きっとこんなシチュエーションくらいだろう。こんな場面がもう二度と来ないと、信じたいが。



「硝子から聞いただろ?それ以上でもそれ以下でもないさ」

「だから術師以外殺すってか!?」



 新宿の人混みの中、周りの目を気にすることもなく悟は叫んだ。私を警戒しているのか、いつもより空いた距離に少しばかり心が痛む。私がしたことが、褒められることではないのは分かっている。善か悪かで言えば、悪の方になるんだろう。それでも、猿は嫌い。それが私のどうしたって消えることのない本音だった。それに、最強でない私が由紀のために出来ることなど、もうこれしかない。馬鹿だと笑われるかもしれない。無理だと罵られるかもしれない。それでも、少しでも呪霊の脅威を減らすためには、もうこれしかないのだ。



「由紀は、どうすんだよ」



 不意に悟の口から出た名前に、ぴくりと肩が揺れた。すぐに頭の中に最後に見た由紀の幸せそうな笑顔が浮かんで、それが歪んだ表情に変わっていく。由紀は、怒っているだろうか。それとも、こんなことをしでかした私を軽蔑しているだろうか。非術師を助けたいと言っていた彼女のことだ、決して許してはくれないだろう。私の反応を見た悟はそれを見逃さなかった。



「お前、何があったんだよ?あいつを置いていくなんて、おかしいだろ。何かあったんなら言えよ傑!」



 私の動揺の隙をついた悟は、一気に距離を詰めて胸ぐらを鷲掴んだ。ぐ、と一瞬息が詰まる。周囲の視線を感じて「落ち着けよ」と諭しても、悟は眉間に皺を寄せたまま手を放そうとはしなかった。あまりに必死な悟の姿に、こちらまで熱くなってしまいそうになる。もし私が、最強になれたのなら。何度もそう考えた。もっと私に力があったのなら、由紀を、助けられたかもしれない。何度も繰り返した過去の中に、続いている未来があったのかもしれない。他の術師も死なずに済んだのかもしれない。こんな大義を掲げなくたって、良かったのかもしれない。



「由紀は、いつか呪われる。もう守れるのは、君しかいないんだ」



 だから、由紀を助けてくれ。祈るように絞り出した声に、悟は目を見開いて、すぐにまた怒りに染めた。ふざけんな、と胸ぐらをつかむ手に力が入って、思わず顔が歪む。知ってるよ、悟が私を大切に思っていることも、私が大切にしている由紀を見守ってくれていることも。だからこそ、私が由紀を投げ出すのが許せないんだろう。私だって、自分が許せない。こんな形でしか彼女を守ることができない自分が。



「守りたいんなら、自分でやれよ!」

「もうやったさ!…………何度も、やった。でももう私では無理なんだ」



 次第に声が小さくなって、もう何も言うことが出来なかった。必死に絞り出した声だった。由紀を守ろうと、私だって頑張った。何度も何度も、胸が張り裂けそうな痛みに耐えながらずっと頑張ってきた。最初に過去に戻ったのがもうどれくらい前なのかも思い出せないくらいに、私は何も残らない過去を何度も過ごしてきたんだ。新たな思い出を作っては、自分の手で無かったことにして、記憶の合わない由紀と何度も過ごして、何度も彼女が死んで。悟。お前には分からないだろう。大切なものを守る強さを持っている、君には。悟は、親友だった。私たちは、最強だった。それが一体いつから、こんなにも溝が空いてしまったのだろう。それとも、最初から遠い存在だったのだろうか。今となってはもう分からない。私たちが同じ道を歩むなんて、きっと無理だったんだ。この劣等感も、焦燥感も、虚しさも、次第に強くなるばかりで。私の目を見た悟は、何かを言おうと口を開いたが、結局何も言わないままに手を離した。だらりと下がった腕は、もう私に触れることはなかった。



「………………由紀を、頼んだよ」



 私が傍にいられなくても、せめて親しい人たちに囲まれて幸せに生きていけるように。それだけ言い残して人混みの中に紛れれば、悟が追ってくることはなかった。そのまま新宿を出て菜々子と美々子が待つ家に帰ろう、そう思って足を進めた時、道路を挟んで反対側の歩道に、見知った姿を見つけた。必死に人混みをかき分けながら誰かを探すその姿に、思わず足が止まる。由紀、と思わず叫んでしまいそうになって、すぐに口元を押さえた。呼んでは、いけない。今彼女と話してしまえば、全ての決意が崩れてしまいそうな気がして。彼女に見つかる前に、ここを去ろう。重たい足を動かして彼女の姿に背を向けると、すぐに私を呼ぶ声が私の背中を追いかけた。



「……傑!」

「待って、傑!行かないで!」



 由紀が、泣いている。私を呼んでいる。本当は、今すぐにでも駆け寄って抱きしめたい。泣かないでと、涙を拭ってやりたい。でも、それじゃあ駄目なんだ。彼女につかまってしまわないように、私はできるだけ速足でその場を離れた。次第に聞こえなくなっていく由紀の声に、胸が張り裂けそうだった。ごめん、由紀。もう一緒にはいられないけれど、どうか幸せに。そう願うしか、私には出来なかった。これで彼女が幸せになれるだろうと、信じて。







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