お願い、僕に守らせて


 今年の夏は、暑かった。立っているだけで汗が流れ、学ランの下に着こんだシャツが肌に張り付く。際限なく喉が渇いて、私は数時間前にコンビニで買った水を流し込んだ。すでに温くなっているそれはただ食道を通り過ぎていくだけで、いつまで経っても喉を潤してはくれない。まるで体のどこかに穴が空いていて、飲んだ水がそこから全て漏れ出てしまうような感覚に、足元がぐらりと揺れた。喉の奥底にこびり付く呪霊の味。吐瀉物を処理した雑巾のような味。いつしかそれは、どれだけ時間が経っても、何を飲み込んでも、消えなくなっていた。常に襲いかかる吐き気と頭痛を抱えながら懐かしい公園に足を踏み入れると、遠くで子供たちが騒ぐ声が聞こえる。以前は心地よくも感じていたその声も、今ではただの騒音でしかない。ああやって騒ぐ子供たちの中に、いったいどれだけの負の感情が流れているのだろう。子供の想像力は恐ろしいもので、そのせいで生まれている呪霊も数知れない。彼らの中に由紀を手にかける犯人がいるのかと思うと、憎くて仕方がなかった。



「呪術師って辛いけど、やっぱり私は非術師の人たちの未来を守りたいなぁ」



 いつだったか、由紀はそう言った。あの時の私はその言葉に同意したし、まるで嘘をついていたのかと聞かれればそうとは言えない。ただ、私もそう思いたいと思った。でもやはりそれはただの綺麗ごとに過ぎなかったのだ。だって由紀は、自分の守りたかった人たちの手によって死ぬんじゃないか。どれだけ頑張ったって、彼女の思いが報われることなんてないじゃないか。私たちがやっていることは終わりのないマラソンゲームで、呪術師たちの身を削る以外の何物でもない。それなのに、なぜ君はそうまでして頑張れる?いつか自分が呪霊に殺される運命だと知ったなら、彼女は呪術師を辞めたのだろうか。いや、それを知っていたとしても、きっと由紀は。

 木陰のベンチに腰掛ければ生ぬるい風が吹き抜けて、乱れた髪を揺らす。一度見たはずの景色が前よりも色あせて見えるのは、私の心が変わってしまったからだろうか。噴水の水が日差しを反射してキラキラと目に焼き付いて眩しい。楽しそうにはしゃいでいる彼らは呪いの存在など知らない。普通に生まれ、普通に生き、普通に死ぬのだろう。若くして次々と仲間を失う悲しみも、呪いと対峙する恐怖も、呪いを生み出す人間に対する憎悪も、何も知らない。なぜ私たちがあんな奴らのために犠牲にならなければならないんだ。



「傑」



 ふいに掛けられた声に顔を上げると、まだ買ったばかりなのか水滴がついたペットボトルを両手に持った由紀が私の前に立っていた。どうして、ここに。そんな言葉が口をついて、汗がたらりと頬を伝う。そんな私を見て笑った由紀は私の頬にペットボトルを押し付けると、隣に腰掛けて同じように噴水を眺めた。



「ここに来れば、傑に会える気がして」



 なんでだろうね、と笑った由紀は、自らもペットボトルの蓋を開けて中の液体を流し込んだ。じんわりと汗の滲む首筋も、こくりと揺れる喉も、どこか遠くに感じる。前に一度二人で訪れた以外には、ここに思い出などない。特に有名な公園でもない。それでも彼女がここに現れたことに、どきりと心臓が跳ねた。今までに何度も過去をやり直してきたけれど、こんな偶然が起きたことなどなかった。彼女が知らないはずの、私との過去。消えてしまった時間軸が確かに存在していたことを実感する。やはり以前と同じように子供たちを愛おしそうに見つめる由紀は、あの頃よりも儚くなった気がする。死の匂いがこびり付いて消えない。何度も何度も同じ時を過ごした。私だけだろうけど、たくさんの思い出もできた。結婚もしたし、子どももいた。同じベッドで朝を迎えて、一緒に夕飯を作って、手を繋いで家までの道を歩いた。こんなにもたくさんの時間を過ごしてきたのに、繰り返せば繰り返すほど、どうして遠くに感じてしまうのだろう。



「傑、最近痩せた?ちゃんとご飯食べてる?」

「夏バテかな。今年は暑いしね」

「顔色も悪いよ。少し休みをもらえるように頼む?」



 心配そうに顔を覗き込む由紀に、問題ないよ、としか返せなかった。休んだところで、状況は何も変わらない。すぐる、ともう一度名前を呼ぶ由紀の髪を撫でると、心地よい体温が手のひらに伝わった。彼女は、いつだって私の傍にいた。どんな過去でも、私は彼女の傍を離れなかったし、彼女も当たり前のように一緒に居てくれた。そんな普通が、何よりも望んでいた当たり前が、今では新たな可能性を孕みつつあった。もし、私の傍にいるせいで由紀が死んでしまうのだとしたら?私の力が及ばないせいで、由紀がいなくなってしまうのだとしたら?確信はない。それでも、幾度となく繰り返した過去で、由紀が必ず死んでしまうこと、私が必ず由紀の傍にいることを考えれば、あり得なくはない話だ。呪術師を続けている限り、呪霊が消えることはない。呪霊は絶えず非術師から生み出されている。最強ですらない私が、それらから由紀を守ることができるのだろうか。



「夏が終わって少し落ち着いたら、二人で出かけようよ。傑が行きたいところに行こう?」



 未だ愛想笑いしかできないでいる私に、由紀は優しく微笑んだ。少しでも私に元気が戻るようにと気を遣ってくれているんだろう。その優しさが嬉しくて、痛かった。私の隣にいた由紀は、いつだって笑顔だった。綺麗で、汚れていなくて、優しくて、可愛くて、誰よりも大切で。できることならば、ずっと彼女の傍にいたい。たとえおばあちゃんになっても、きっとずっと好きなままなんだろう。二人で穏やかな時を過ごして、喧嘩する度に仲直りをして、毎晩抱き合って眠って。菜々子と美々子の成人式を祝って、悟や硝子の結婚式にも参加して、いつか孫も生まれて。そうやって小さな幸せの積み重ねを大切にしていきたい。何度も願ってきたそんな些細な夢は、打ち砕かれるばかりで。名前を呼んで頬に手を滑らせれば、由紀は話を待つように私の顔を見つめた。離したく、ない。



「たとえこの先何があっても、生き延びて、幸せになるって誓ってくれる?」



 出来るだけ優しく、不安を与えないように。私の言葉に目を丸くした由紀は、どうしたの、と少し戸惑っているようだった。肌触りのいい頬は暑さのせいか熱を持っていて、何度も触れてきたあの冷たい頬とは別物なのだと体に刻み付ける。この感触を、忘れないでいよう。彼女は温かく生きていたのだと、ちゃんと覚えておこう。空いた手で由紀の手を握る。この小さな手も、絶対、忘れない。君の傍にいたい、この気持ちを捨ててでも、私は、君に生きててほしいんだ。君の傍にいる未来を、失ったって。たとえ最強にはなれなくても、それくらいなら、私にもできるから。



「由紀には幸せになってほしいんだ」

「傑が、幸せにしてくれるんじゃないの?」

「………うん、するよ。幸せにする」



 甘い香りに誘われるように顔を寄せて、人目も憚らずにキスをした。柔らかい唇の感触に、目頭が熱くなる。これが最後だと思うと、なかなか離れられなかった。好き。好きだよ、由紀。君を、愛してる。私が人生で吐いた一番残酷で優しい嘘に、由紀は嬉しそうに笑った。










 記録 2007年9月
   ■■県■■市(旧■■村)

 担当者(高専3年 夏油傑)派遣から5日後、旧■■村の住民112名の死亡が確認される。全て呪霊による被害と思われたが残穢から夏油傑の呪霊躁術と断定。夏油傑は逃走。呪術規定9条に基づき呪詛師として処刑対象となる。








- ナノ -