君はいったい誰なのか




 ため息を吐くのは、今日これで何回目だろう。雑念を払おうと何度もキーボードを叩くけれど、打っては消してを繰り返すだけだった。パソコンをいくら眺めたところで仕事は進まないし、もやもやも消えてはくれない。

 あの日、朝起きたら五条さんはいなかった。リビングのテーブルには合鍵と“仕事に行ってきます”のメモが残されていて、自分がしたことを思い返しては公開するばかりだった。勢いに任せて告白をしてしまうだなんて。しかも、明確な返事ももらえないままに事に至ってしまった。ああ、自分が情けない。とりあえず何とか関係を修復しなければと、酔ってしまったこと、そのまま泊まってしまったことの謝罪メールを送ったけれど、一向に返事は返ってこなかった。



「ほら、自分のものになると途端に興味なくす人いるじゃん?そういうタイプだったんだよ」



 相談にのってくれた同僚の言うことは尤もだ。あれほど変な関係にはなるなと忠告されていたのに。変な関係どころか、一夜にして終わってしまったけれど。



「やっぱ、告白しちゃったのはまずかったよね」

「面倒くさいって思われたかもね」



 最悪だ、と呟いて机に伏す私を見て、同僚はケラケラと笑った。27にもなってこんな失態を晒すとは。嫉妬した、なんて言葉に惑わされてしまったんだ。きっとあれは、今までの可愛いとか言っていたのと同じノリだったんだろう。なのに彼のプライベートスペースに入って、次回なんて言葉につられて、自分は彼にとっての特別なのだと勘違いをしてしまった。



「梨央。恋を忘れるには次の恋よ」

「恋なんて、そこらへんに転がってるものでもないでしょ」

「何言ってんの、狩りにいくのよ。今週末に合コン開いてあげる」

「うへえ、合コン?」



 強制参加だからね、と同僚はすぐさま合コンをセッティングすべく、知り合いに片っ端から連絡をし始めた。正直合コンなんて気が進まないけど、このまま何もせずにいても五条さんを引きずるだけだと、自分でも痛いほどよく分かっている。早く次の人、もっと私の身の丈に合った人を見つけて五条さんを忘れてしまおう。そう思ったら胸がちくりと痛んだ気がしたけれど、私は見ないふりを決め込んで、合コンのために美容室を予約した。











 カーテンの隙間から覗く朝日に眉を寄せて、目を開けたら愛しい梨央の寝顔が目の前にあって、幸せを噛みしめながらその唇にキスをする。

 予定だった。



「……伊地知うるさい」



 枕元でうるさく鳴り響くスマホを引き寄せて通話ボタンを押すと、伊地知はいつものように声を震わせながらすいませんと謝った。梨央を起こしてしまわないようにリビングへ移動して用件を聞くと、急ぎ任務に当たってほしいとのことだった。今日は休みだったはずなのに、ほんと人使いが荒いよね。まあ僕って最強だから仕方がないけど。

 10分後にマンションの入り口で、それだけ伝えて電話を切って、いつもの服に腕を通して目隠しをつける。その間もすやすやと眠っている梨央を見やって、名残惜しく感じながらも、合鍵とメモを置いて部屋を後にした。











「よぉ、七海」



 任務をさっさと終わらせて高専で伊地知の運転する車を降りると、ちょうどこれから任務らしい後輩が迎えの車を待っていた。僕が声をかけると明らかに迷惑そうな顔をするのはいつものこと。それが面白くていつも揶揄ってやってるって気づかないところが生真面目な彼らしい。いや、気づいていてもその顔をせずにはいられないだけかもしれない。どちらにせよ、僕は七海に聞きたいことが山ほどあるんだ。



「お前、梨央のこと知ってたんだろ。なんで黙ってた?」

「前にも言ったでしょう。タイミングがなかっただけです」

「タイミング、ねぇ」



 そういう風には見えなかったけど?だって僕たち二人を見たとき、任務でヘマして大怪我した時と同じ顔してたぞ。七海がどういうつもりかは知らないが、不愉快極まりない。僕があの日からどれだけ梨央を探し回っていたか知っているくせに。死んだと言われた彼女の墓参りに行くこともできず、生きていると信じて探し続けている僕をずっと見てきたくせに。



「あれは紛れもなく向坂梨央だ。お前だって、他人の空似だと思ってるわけじゃないだろ。知っていること全部話せよ」



 七海と梨央が術師とは無縁の世界でどんな出会い方をしたのかは知らない。でも梨央の話す感じだと、それなりの時間を共にしてきたんだろう。七海の方も、彼女を見る目があれは向坂梨央なのだと語っていた。



「彼女は、私が出会った時から全てを忘れていました。私のことも、あなたのことも、高専のことも、呪いのことさえ」



 僕の尋問に諦めたように口を開いた七海は、梨央との出会いを思い返すように空を見上げた。




 私の転職先にちょうど入社したばかりの梨央は、私を見ても驚くことも慌てることもなく、初対面の挨拶をした。


「初めまして、向坂梨央です。よろしくお願いします」


 丁寧に頭を下げた梨央はどこからどう見ても非術師で、まるで呪力が感じられなかった。その様子に同姓同名のそっくりさんか、なんて考えていた。しかしそんな考えは、一緒に過ごす時間が増えれば増えるほど、そっくりさんではなく本人なのだと変わっていった。

 多少の無理をしてでも成果をあげようと努力するところ。冷たくされてもコミュニケーションを諦めないところ。強い芯を持っていて、それがとても眩しいところ。高専時代の二年間で植え付けられた彼女の存在が、時を経てまた刻まれていった。

彼女は、死んだ。遺体こそ見つからなかったが、術師にはさほど珍しいことでもない。何より現場に残された大量の血痕が、彼女が死んだと告げていた。空っぽの墓は亡き同期の隣に立てられ、私はよく花を片手に通った。

 そして再会した彼女の生い立ちは、普通だった。高校を卒業して、大学に入って、卒業してからこの会社にやってきたと。ただ、高校生の時に大きな事故に遭い、二年の途中までの記憶が曖昧であると。困ったように笑った梨央は変だよね、とその一言で片づけてしまっていた。






「外傷のショックで記憶を失うケースはあります。ですが、高専でのことを一つも覚えておらず、呪力まで失っているのはどこかおかしい」

「僕も、いつかは思い出してくれるかもと思って何も言わずにいるんだけどね。全くその様子がない。お上の連中、特に五条家のやつらは梨央を嫌っていたし、どうせあいつらが絡んでるんだろ」

「家入さんに一度見てもらっては?」

「いずれはね。でもまずは僕のことを信用してもらわないと」



 七海は特に反論するでもなく、何かあればいつでも連絡をくださいと言い残して迎えに来た車に乗り込んだ。どうやら同級生のことはあいつも気がかりらしい。そりゃあ二人が死んで、そのうちの一人が実は生きていたとなると無理もないだろう。いつか梨央の記憶が戻ったら、二人で灰原の墓参りにでも行かせてやろう。自分の墓が隣に建てられているのを見たら、きっと梨央は怒って、でもすぐ笑って済ませるんだろう。そうなるためには、まずは原因究明をしないとね。昨日勢いに任せて抱いたくせに一人残してきたから、梨央は今頃不貞腐れているかな。しばらく帰れそうもないし、一言謝っておこう。ああでも、スマホはさっき呪霊に壊されたんだった。梨央は心配するだろうけど、きっと待っていてくれる。帰ったら思いっきり抱きしめて、好きだと伝えよう。それから、キスをして細い体に触れて。思い出してもらうのは、僕のことをまた大好きになってからでも遅くはない。







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