夢とロマンとあと一つ




 後頭部でざっくりとまとめられた髪がふわふわと揺れる。きっちりとしたスーツに身を包んだ彼女は、あまりイメージにはなかった踵の高い靴を履いている。あの頃より小さくなった、いや、私が高くなったのだろうか。以前よりも小柄に感じる体を前に、私は目を見張るしかなかった。



「初めまして、向坂梨央です。よろしくお願いします」



 同期入社の社員との顔合わせ。目の前に現れた向坂梨央と名乗る女性は、私の高専時代の同級生にとても似ていた。似ているというか、同姓同名だ。死んだはずの彼女はあの頃と同じように微笑んで、ぺこりと丁寧に頭を下げる。これは夢か現実か。夢の中でまで仕事なんて嫌だ。なんて考えているうちに、彼女は「七海さん?」と首を傾げた。「どうして私の名前を」と聞きかけて、彼女の目線が自分の名札に向いていることに気付いて口ごもる。初めまして。そう、私たちは初めましてだ。



「向坂さんは、おいくつですか?」

「え、最初にその質問ですか?」

「失礼。知り合いにとても似ていたもので」

「今年で23になります」

「………私もです」

「えっ同い年!?年上かと思った」



 カラカラとキャスター付きの椅子を引き寄せて私の隣に座った彼女は、「見えないね」と懐かしい笑顔を見せる。ふわりと香った甘い匂いは、あの頃にもよく嗅いだ。お気に入りの香水なのだと教えてくれたけれど、彼女の好みは昔から変わらないようだ。「よかったら連絡先交換しませんか?」と取り出されたスマホは最近発売されたばかりのもの。新しいもの好きであるのも変わらない。カバンの隙間からは、昔よく食べていたメーカーのチョコレートも見えた。初めましてのはずなのに、ちらちらと頭の中で見え隠れする同級生。あれほど五条さんに「彼女は死んだんだ」と言い続けてきたのに、似た人を前にして、彼女が彼女である可能性を全く捨てきれていない自分に呆れる。どうしてこうも、彼女という存在は私の心を掻き乱すのか。




「七海は、恋人とかいないの?」



 初めて彼女と再会してから、一年の時が過ぎた。最初は自分の未練がましさのせいで幻覚を見ているのだと思っていたけれど、一緒に過ごすうちに、彼女は紛れもなく向坂梨央なのだと確信した。仕草も、癖も、声も、その香りも。どれもが向坂と同じもので、向坂の記憶には一部欠落している部分がある。“彼女の死”というものをきっかけに記憶を失っているのだとしたら、事故のせいか、あるいは。この先は私一人で考えても仕方のないことだ。もちろん向坂にとって重要人物である五条さんを交えて考えれば、答えは見えてくるのかもしれない。けれど、私は五条さんには彼女が生きていたことを知らせなかった。彼女をもう呪術界に引きずり込みたくないという思いと、五条さんを忘れているならそのまま忘れていてほしいという不純な気持ち。自分の中にこんな感情が隠れていたなんて、知りたくなかった。



「いませんよ。仕事が忙しいので」

「そっかあ。もったいないな」

「そういう向坂はどうなんですか」

「同じ仕事してるんだから分かるでしょ?」



 コーヒーカップの淵を撫でながらため息をついた向坂は、窓の外を眺めて目を細めた。営業周りの合間、こうして二人で見つけたカフェに入って小休憩を挟むのが癒しの時間。ストレスしかないこの社会の中で、唯一といっていいほど落ち着く空間。時間帯的にも人のまばらなカフェの中は、静かなオルゴールのBGMだけが聞こえる。半分ほど中身を失ったカップを見つめて指先を揺らした向坂は、ちらりと私に視線を移して唇を尖らせる。この仕事は顧客の都合に合わせて動くため、ほとんど休みがない。四六時中働いて、手に入るのは金ばかり。最初はそれでもいいと思っていたけれど、やはり疑問は生まれてくるわけで。自分の人生はこのままでいいのかと時折考える。それは向坂も同じようで、女性ならではの悩みもあるのだろう。道行くカップルを視界に入れては、深いため息を吐いた。



「心配しなくても、向坂ならいい人が見つかりますよ」

「そうかな」

「………あなたを幸せにしてくれる人が、ちゃんといますから」





 思えば、そう答えていた時点で私は五条さんには敵わないと心の奥では思っていたのかもしれない。向坂が生きていたことを五条さんに知らせなかったのは、きっとすぐに向坂は彼を好きになるだろうと思っていたから。だから、二人を街で見かけた時は別段驚かなかった。さすがに知り合いだとバレた時は生きた心地がしなかったが、思いのほか責められたりはしなかった。それほど五条さんは、向坂のことでいっぱいだったのだろう。



「ほら、七海。僕の奥さんに挨拶は?」

「やめてよ悟!ごめんね、七海」

「………お久しぶりです」



 任務の報告で高専を訪れたら、生徒たちに囲まれた五条さんの姿を見つけた。気づかれないように通り過ぎようと思ったのに、群衆の中にいた虎杖くんに見つかり、そのまま輪の中に引きずり込まれた。人混みの中に紛れて見えなかったがその中心には向坂がいたようで、五条さんはにやりと笑うと彼女の肩を抱き寄せて私を見下ろした。2人が結婚した、と家入さんにも五条さん本人にも報告は受けていたが、こうして夫婦となった二人の姿を目の当たりにするのは初めてだ。生徒たちに囲まれて恥ずかしそうに頬を染めた向坂は、まるで学生時代のように時折五条さんを見つめている。「おめでとうございます」と頭を下げれば、向坂は嬉しそうに笑った。



「今度、ゆっくりコーヒーでも飲もうよ」

「そうですね、愚痴くらい聞きますよ」

「ちょっと七海、僕の梨央にちょっかい出さないでくれる?」

「五条さんの奥さんなんて、恐れ多くて手なんか出せませんよ」



 どこまで冗談なのか分からない五条さんにため息を吐くと、五条さんは「いっつも二人で僕の悪口言ってるじゃん」と唇を尖らせた。子供じみたそんな表情に優しく笑いかけるのは向坂くらいだ。そんな向坂を見つめる私の視線に五条さんも気づいてはいるが、何も言わなかった。五条さんも、私ももちろん知っている。私のこの気持ちは叶うことはないと。それでも私は充分に満たされていた。やっぱり君は、五条さんの隣にいる時が一番幸せそうなのだから。





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