湧き上がる感情を君に注ぎましょう




家具職人のお爺さんと約束した出航までの数日間。海へ出る準備で少しずつ慌ただしくなってくる甲板の隅で、私は黙々とトレーニングに励んでいた。もちろん今も、腹筋50回3セットを絶賛消化中だ。



「んっ、39…っう…40、41…っ」



傍らに置かれた空き樽には、ペンギンが事細かく組んでくれた筋力アップ用のトレーニングメニューが書き記された紙が、ご丁寧にもペタリと貼られている。ちなみに腹筋が終わった後は腕立てとスクワットも待っている。


そして恐ろしいことに、これはあくまで昼食後からおやつまでの時間にこなすノルマであり、これを終わらせない限りコックさんが作る甘くて美味しいスイーツが、私の喉を通ることはない。いわゆる、地獄である。


それでも最初は100回3セットという拷問に近いメニューが平然と書き込まれていたのだけど、涙ながらに必死に頼み込んだのと、ごくごく一般人レベルな体力しか持たない私を憐れんだシャチの助け舟で、何とか50回まで減らしてもらえた。



「47ぃ…んっ…48…49ぅっ…50…っ!」



3セット目の腹筋50回をやり切り、ぷるぷると震える腹筋に込めていた力を抜く。そのまま背中から身体を投げ出せば、軋んだ甲板の木床に肩甲骨が擦れてちょっと痛かったけど、お腹の痛みに比べれば何てことはない。


はぁはぁと荒い息を繰り返し酸素を貪る肺はそのままにして、目を瞑った。閉じた瞼の裏側で、ほぼ真上に位置する太陽からの眩しすぎる日差しを感じる。どくんどくんと痛いくらいに強く鳴る心臓を、服の上からギュッと掴んだ――その瞬間。



「顔赤くして息荒げて、随分エロい格好じゃねェか」



眩しかった日差しが遮られて、顔に影がかかる。誰か?なんて考えるまでもなく、私の全身が細胞レベルで喜ぶのが分かる。一瞬潮の香りが強くなって、遅れてふわりと漂ってきた薬品の匂いが、汗ばんだ頬を撫でた。



「………ローさん」



明るくなった視界いっぱいに広がるのは、隈を携えた見慣れた顔で。ニヤリと口角を上げる悪そうな笑みに、どうしようもなく胸がくすぐったくなる。



「あんまり筋肉つけんなよ。触り心地が悪くなる」

「なっ…ちょ!や、め…っやだ、」



汗をかいてぺたりと張りついたTシャツの裾から侵入した、骨張った大きな手が脇腹を撫で上げた。慌てて両腕を突っ張ってローさんの肩を押し返すけど、そんな些細な抵抗もすぐさま手首を拘束されて意味を失くす。



「や、待っ…てってば!今汗臭いから、やだ!」

「問題ねェ」

「いやいや、ありまくりだよ!」

「黙ってろ」

「ちょっ、ここ甲板!」

「じゃあ部屋戻るか?」

「そういう意味じゃなくてっ…んん!」



制止の声も聞かずに覆い被さってきたローさんの頭が、私の肩口に埋まる。ころん、とかぶっていた帽子が落ちて床に転がった。現れた夜の海の色をした短い髪の毛が、頬に当たってこそばゆい。身を捩る私の耳にぬるりとした感触が這って、意図せず身体が跳ねてしまった。



「おね、がい…っ、ちょっと待って!」

「……何だよ」

「…まだ腕立てとスクワットが残ってる…」

「んなの、後でやりゃイイだろ」

「ダメだってば!おやつ食べれなくなるもん」

「……お、」

「俺がおやつでいいだろ、とかふざけたこと言ったらもう一生ローさんとエッチしない」

「チッ…」



忌々しげに舌打ちしながらも、被さっていた身体をあっさり引いてくれたローさんに、ゆるゆると頬が持ち上がってしまうのが自分でも分かった。本当にこれが極悪非道と悪名高い「死の外科医」が見せる姿なんだろうか、と愛しい気持ちが込み上げてくる。



「ごめんってば。ちゃんとノルマは済ませないと…ね?」

「………」

「今日のメニューが全部終わったら、何でもローさんの言うこと聞くから」

「…言ったな?」

「……う、うん」



ならいい、夜まで待っててやる。そう言って、船内へ続く扉に向かって歩き出したローさんの後ろ姿が、何とも愉しげに揺れているように見えて……今更ながら自分の軽はずみな発言にヒヤリとした。いわゆる、後悔先に立たずである。





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