鯨鯢の腮に懸く

※捏造しかない

「くそ、あのマスク野郎……」悪態をつきながら名前が帰宅したのが、深夜二時。
 元来、名前はさほど社交的な性質ではなかった。しかし、デザイナー事務所を構えているわけではない為、名前は自分の足一つで営業活動に勤しまなければならないのだ。まさかネット上に『自分だけの武器を作ってみませんか? 非合法でもオッケー!』なんて謳い文句を載せるわけにもいかない。
 歩き詰めで足は棒のようだし、敵ばかりを相手にしているせいで神経は磨り減っている。愛想笑いはもはや顔に張り付いていた。「足元見やがって……」

 ぶつぶつと文句を垂れながらも、名前の口は独りでに緩んでいた。もう何度か押せば、注文を取れそうな所があったのだ。しかも、かなりの大口の。見返りの事を思えば、日々の疲労もむしろ逆に心地良く感じられるというものだ。オールマイト以降、名前達の仕事は減る一方だったが、今度はそのオールマイトのおかげで商売が上手く行っているのだから、世の中というものは上手くできている。
 これで明日も頑張れると、そう思いながら鍵を差し、家へと帰った名前だったが、「遅い」という男の声にハッと我に返った。何せ、名前は一人暮らしだ。


 窓枠に腰掛けた男が、じっとりと名前を見詰めていた。鈍色に光る片面だけの歪なヘルメット、一目見て高級品だと解る指輪と腕時計、それから鯨の皮を模したかのような灰色のコート。
 思わずヒッと息を呑むと、キュレーターは「ご挨拶だな……」と呟くように言った。

 突然の事に狼狽えていた名前だったが、やがてドアを閉め鍵を掛け、キュレーターに向き直った。「び、び、びっくりしましたよ!」
「何で居るんですか!」
 名前が声を低めてそう言うと、キュレーターは煩わしげに目を細めた。「うるさいな」
 見れば、ベランダに通じる窓の一部分が割られており、そこから鍵を開け、不法侵入に至ったらしい。蚊が入ってきてしまうではないか。エアコンの冷気だって逃げてしまう。
 寝苦しい夜になりそうだなあと、名前が思っているのが伝わったのだろう、キュレーターは「明日業者を寄越してやる」と静かに言った。
「ていうか本当、何でいらっしゃるんですか? というか何で私の家知ってるんですか? 寝て良いですか?」
「用があるからだ。義爛に聞いた。まだだ」
 律儀に答えるキュレーターに、名前の中で苛立ちが募っていく。

 キュレーターと名乗っているこの敵は、敵の中では比較的穏やかで御し易い部類だった。キレて“個性”を使い出す事もなければ、下卑た冗談を口にする事も無い。暴力に訴えないし、その上金払いも良いとなれば上客と言っても過言ではなかった。唐突に不法侵入されたのに名前が怒らないのはそういう訳だ。しかしながら、一日の終わりに見たい顔では決してない。
 あのクソジジイめと内心で呟いている名前の視界に、膝を叩く指が見えた。慌ててキュレーターに向き直る。「そ、それで御用って……?」
 彼は暫くその暗い目で名前を見詰めていたが、やがて言った。
「頼んだ物は出来てるか」


「……アッ」
 思わず漏れ出た声に、キュレーターの目元がひくつくのを名前は確かに目撃した。

「出来てねえのか」
 平坦な、それなのに重い圧を感じる彼の声音に、慌てて申し開きをする。「いや! 出来ていない訳ではなくてですね!」
「それがその何と言いますか出来てるは出来てるんですがね、以前の物よりもちょーっとだけ重くなってしまってですね。いや機能性は上がってるんですよ頑丈にしましたし。象が乗っても壊れませんとも。ただほんと前よりも重くてですね――」
「御託はいいよ」
 ばっさりと言い放つキュレーターに、名前は諦めざるを得なかった。

 しげしげとそれを――名前が新しく作り上げたヘルメットを――眺めるキュレーターに、名前は居た堪れない気持ちだった。
 オーダー通りの物は仕上がっている筈だ。以前よりデザインを重厚なものにしたし、頑丈にしたし。しかしながら、如何せん重いのだ。それこそ、名前一人では持ち上げられない程に。彼に見合ったデザインを、ビジュアルをと選んでいる内に、結局今の素材になってしまった。
 改良箇所等を簡単に説明した名前は、「やっぱり重たいですよね」と、おずおずと切り出した。
「すみませんキュレーターさん、もう少しお時間頂けませんか? そしたら、以前と同じくらいの重さに仕上げてみせますから」
 黙って名前の言葉を聞いていたキュレーターだが、ふとヘルメットを作業台に戻し、名前へと視線を移した。「いや、これで良いよ」
「手に馴染む」

 ――名前が彼を上客と判断している所以は此処にあった。
 キュレーターはキレて“個性”を使う事もなければ下卑た冗談も言わない。暴力に訴えないし金払いも良い。しかしながら、名前が彼の事を客として――客として以上に気に入っているのは、彼に言葉に時折無性に心を揺す振られるからだ。
 別に、キュレーターが最終的には折れてくれるから好きなわけではない。むしろ何度このメットを作れば良いんだと思うことも多々あるし、そういった観点からしてみればキュレーターは確かに面倒な客なのだ。しかし妥協を許さないキュレーターの言う事だからこそ、仕事を認められる事に無上の喜びを感じるし、何より彼の求めに応じたいと思うのだ。

 キュレーターが自身の首元に手を遣った。南京錠を模した制御装置を外し、ゆっくりとヘルメットを脱いでいく。当然、現れるのは彼の素顔だが、名前は何度か目にした事があった。
 自分の姿が嫌いなのだと、キュレーターは言っていた。血肉の詰まった皮袋にしか見えないのだと。 キュレーターの“個性”は鯨、クジラに似た姿になることのできる、変身系の異形型“個性”だ。もっとも、名前は彼の本来の姿をネットでしか見たことが無い。大き過ぎるからだ。
 普段、彼はその“個性”を無理やり抑え込み、“人間らしい”姿に留まっている。自身の意思だけで姿を固定出来るのはほんの数時間きりらしく、だからこそ彼は名前が作ったサポートアイテムを愛用している。個性因子の発動を抑える事が出来る人間は、そう多くない。彼は名前が作る品のデザインが気に入っているのだといっていたが、やはりそこが一番の理由なのだろう。
 ――彼の左目は、存外綺麗だと思うのだが。
 満月のような黄色い眼が、潜水ヘルメットを模した防具に覆い隠されていく。名前の視線を気にしてだろう、「丁度いいよ」とキュレーターは言った。
「サイズも良い。重みもしっくりくる。具合いいよ」
「そうですか? 良かったです」
 指輪の色に合わせたんですよと名前が言うと、キュレーターは薄く笑った。


 新しいヘルメットを被り直し、しっかりと個性制御装置も嵌めたキュレーターは、その感触を確かめるように首元の飾りを手にする。恐らく癖になっているのだろうそれを見ながら、名前はつい「そうしてると何か首輪みたいですね」と笑った。
 ――てっきり、名前は彼が笑ってくれるだろうと思っていた。水族館の館長としても働いている彼は、敵にしておくのが勿体無いくらい人当たりが良いのだ。愛想笑いなのだろうが下手なジョークに付き合ってくれるし、彼自身も軽口を叩いてくれたりするし。
 だからこそ名前はそこそこ彼と仲が良いと思っていた為、殴り飛ばされた瞬間、頭の中を駆け巡ったのは何故という感情だけだった。“キュレーター”がキレるとは思ってもみなかったし、そもそも何に対して反応したのかも解らなかった。
 げほげほと咽こんでいると、キュレーターが転がった名前に跨り、そのまま腰を下ろす。彼自身の体重と、それからヘルメットの凄まじい重みとに息が詰まる。
「……なあ」キュレーターが言った。「俺のこれが、何だって?」
 霞む視界の中、名前は認識を改めた。彼は真っ当な敵であり、細心の注意を払うべき存在なのだと。

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