花の海
するり、と甘く漂う香りが鼻腔に触れた。
ひどく甘ったるい香りなのに不思議と爽やかな印象をあたえるそれは、沈んでいた意識を浮上させるには十分な威力を発揮した。
きれいなゆめだなぁ。瞳に映った景色に思わずそう言葉がこぼれた。眼下には地平線までを埋め尽くす華の海、背後にはその海を見下ろすように大きな白い塔が聳え立っていた。華の海はどこからともなく風が吹くと、色とりどりの花弁を陽だまりに浮かせながら香しい甘い匂いを漂わせている。
頬に触れる風や降り注ぐ日の光はひどくリアルなものであるのに、私の頭ははっきりとこれは夢だと認識していた。とても現実的な夢である、と。
しかし、夢なのはいいのだがはてさてここはどこなのだろうか。風に舞い上がる花弁をぼけっと眺めながら一人首をかしげた。
「おやおや、こんなこともあるんだなぁ」
することもないし、夢が覚めるまで花の海の中でも泳いでいようかと足を踏み出そうとしたとき、気の抜けた声が頭の上に落ちてきた。
見上げたそこには、白い塔の小窓からこれまた白いおにいさんが驚いたような顔をして私を覗き込んでいた。
ぱちり、と私のなんの変哲もない黒い瞳と不思議な色合いの綺麗な瞳と視線が交じり合うと、綺麗な瞳のおにいさんはにっこりと人当たりのよさそうな笑みを浮かべた。
「はじめましてかわいらしい小さなお客さん、君の名前を教えてくれないかい?」
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ここはアヴァロンと呼ばれる世界の果てにある理想郷、らしい。地球上の生物、ましてや普通の人間なんてこれるわけもない閉ざされた花園なのだと白いおにいさん――マーリン――と名乗った青年はへらりと笑いながらそう言った。惑星の命が燃え尽きるそのときまで、自分はここから出ることも死ぬこともできないのだと。
「でも理由が色恋沙汰の修羅場のせいとかすごいダサいねマーリン」
「ダサいとは失敬な、言い返せないけどもね!」
彼に導かれるままに塔の中に入り、見晴らしの良いバルコニーで彼の紅茶のおもてなしを受けながら、彼の語る話に相槌をうつ。
塔の中はぞんがい階段が長くてバルコニーにたどり着くまでしんどすぎたとか、彼が杖を一振りしたらまさに魔法のように紅茶セットが机の上に現れたとか、突っ込みどころが多い出来事ばかりだったがこれは夢なのであまり深く考えないことにする。
「そういえば、君はいま君がここに居ることを夢だといっていたね」
「そう言ったね、確かに」
「なぜ?」
「なぜって…」
そういえば、と思い出したようにそう問いかけてきたマーリンは興味深そうに頬杖をついたままこちらを見ていた。口元にはうっすらと笑みが浮かんでいる。その笑みはどことなく胡散臭さと好奇心が交じり合ったもののように見えた。
「なぜって……簡単なことだよマーリン」
カタリ、と空になったカップをソーサーにおいて、ひとつ息をつく。へらりと笑った私に面食らったような顔をしたマーリンをみながら、目を閉じる。
「だって、これは私の夢だから」
今回の夢は楽しかったなぁ、とぼんやりとかすむ意識の中で耳元で鳴り響く終わりのベルに身をゆだねた。
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