おやすみ



ログにあるこのお話と、だいぶ時間を挟んで繋がっています。


***


これは間違っている、こんなことをしては駄目だ、と、勿論頭では解っていた。
しかしどんなに冷静に自分を納得させようとしても、心のどこか、恐ろしく深く暗い部分がぎゅっと目を閉じ、両手で耳を塞いでしまっていたのだ。

そして僕はその手を迷いのない力で引き剥がしてやれるような、真白い、いや、透明な正義の人にはとてもなれない。



「この人なら僕が部屋まで運ぶよ。…それじゃあみんな、おやすみ」



とっくに気づいていた。これは優しさなんかじゃない。ただの我儘だ。


少し経ってからようやく目を覚ました彼は、虚ろな視線を僕へ向けた。それから僕の後ろの天井を見て、ゆっくり瞬きをしてから窓の方を見て、また僕を見た。カーテンの間から差し込むごく僅かな月明かりを拾って、暗い部屋の中でも輝く宇宙色。いつも僕を安心させてはひどく動揺させるそれは、きっと本物の宇宙にも勝るほどに美しい。と、思う。思って少し恥ずかしくなった。完全にやられているな、僕は。

「てる…どした…?」

低い声はやや呂律が回っていない。彼はそのまま言葉を切って、ふあ、と大きくあくびをした。涙が金色の睫毛を湿らせる。

「…もう遅いだろう、おまえも寝たらどうら」

彼が寝起きとはいえ、シーツに縫い付けられたこの状況下で相変わらずふんにゃりしているのは、先程飲んだワインのアルコールがまだ抜けていないせいだ。別段酒に弱い訳ではないけれど、賑やかさに乗せられて飲み過ぎているように見えたから。
流石に良くないと思って、そんなに若くないんだからあんまり飲み過ぎないほうがいいんじゃない、って言ったのに。ちゃんと言ってあげたのになあ。
…まあ『そんなに若くないんだから』の部分は言わなくても良かったと思うし、それを聞いたら余計に飲むペースを上げるんじゃないかとはちょっとだけ予想していたけれど。それでも忠告はしたんだ、計画犯というには計画が望み薄だったし、僕は狡くない。運良く事が運んだだけだ。

そして、少し魔がさしただけ。

彼は二度目に絶望したあの日から、いつも通りなようでずっと寂しそうで、本人に自覚がない分、見ていて苦しくなった。
僕はいつからか彼が彼の望むような幸せを掴めばいいと思っていた。本当は僕が幸せにしてあげたかったけど、それはずっと前に諦めた。悲しい理由で家族を失った彼には、きっと心を許せる新しい家族が必要なのだと考えたからだ。僕じゃ、役不足だからだ。
それなのに彼は何度も打ちのめされて、やっと手に入れた幸せすら失ってしまった。

どうしてなんだろう。どうして彼ばかりがこんなに苦しい思いをしなければいけないんだ。彼が何をしたっていうんだ。彼は何もしていない。何も悪くない。

縋るものを失った彼の姿を隣で見ていると、ずっと押し殺してきた感情が、隙あらば再び湧き上がって来ようと暴れる。ーー本当の本当に何もなくなって、ひとりぼっちで静かに絶望しているくらいなら、僕が。



ベッドに流れる長い金の髪の一房を掬った。するり、指先から逃げていく。
彼を組み敷いてこんな風にしたらもっと気分が高揚するんじゃないかと思っていたけれど、意外にも心は落ち着いたままだった。変に頭が回るから、実際のところは感覚が麻痺してどうにかなっているだけかもしれない。

「んん…てる…」

彼がちっとも僕を気にする様子のない声で呟いた。少し間をおいて、なに、と返す。

「…あした、うまいめろんぱん、買いにいくから…」
「うん」
「てきとーな時間におこしてくれ…」
「……………」

それっきり彼は黙って、僕がどう返すべきか悩んでいるうちに、すうすうと寝息を立てはじめてしまった。
随分信用されたものだ。今眠っても僕には何もされないと、何もできないと、信じきっているのだろう。喜ぶべきか悲しむべきかわからない。

「…はあ」

しかしこうも警戒心のない態度をとられると気が抜けて、…それと同時に毒気も抜けて、いつもの自分が戻ってくるようだった。
僕は彼を裏切りたくない。どんなに暗い感情が大きくなっても、結局はそうなのだ。
無害な弟子の僕は信用されている、おそらく彼からこれ程の信頼を得ている人間は他に居ないだろうと自分で言い切れるくらいに。そんな相手が自分を『そういう』目で見ていたと知れば、きっと彼は傷つくだろう。
だから裏切れない。こんなにも信用を得られているのだから、本当ならそれだけで満足するべきなのだ。彼を想うなら迷うことなんてない、何故我慢することを辛いと感じる必要があるのか。

…早く寝よう。

僕は急に疲れを感じて彼から身体を離した。あまりベッドを揺らさないよう注意しながら端に腰掛けて、すっかり寝入ってしまったらしい金髪のその人にそっと毛布をかける。…なんとも幸せそうな顔だ。食べ物かひよこの夢でも見てるんじゃないかな。

肺の中の空気と一緒に気分も入れ替えるつもりで、ひとつ大きなため息を吐く。
明日はメロンパンがどうとか言ってたな。先程までの飲みっぷりからして酷い二日酔いに見舞われていそうだけれど、寝かせておいたらなんで起こさなかったんだと文句をつけられるだろう。面倒臭いけれど、朝はちゃんと僕が起きていなくちゃ。

さてと、と腰を上げようとして、ふといつかの記憶が蘇る。あれはいつだったか、ずっと昔だ。曖昧にしか覚えていないが、夜更かしして眠たくて仕方なかった僕を、彼が寝かしつけてくれたことがあった気がする。懐かしいな、あの時はどうしたんだっけ。確か、確か。


…ああ、思い出した。


僕は眠る彼の枕元に静かに歩み寄ると、腰をかがめて額にほんのちょっと触れるだけの口付けをして、思ったより照れて、すぐに部屋から出て行った。
あの日自分でそうしておいて恥ずかしそうな顔をした彼の気持ちが、少しだけ解るような気がした。



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