親友V


   忘れられない男の子がいた。
   中学一年のときに隣の席だった『桐嶋くん』は笑うととっても可愛くて、可愛さのあまり『郁ちゃん』というあだ名まで授けた。本人は心の底から不本意そうだったけど、やがてそれらは全部笑顔になって、私の中の郁ちゃんも隣の席の男の子から親友へと変わっていった。そして、手の届かない人になってしまった。
   迎えた大学一年。五年という空白の時間を経て、近くにいるのに遠い存在になったと思っていた郁ちゃんは、親友に戻るどころか男女の友情の垣根も超えて、私の好きなひとになった。親しみをたっぷりこめて呼んでいた『郁ちゃん』という呼び方は『郁弥』に変わり、そのお願いには郁弥の特別な気持ちが込められていた。私と同じ好きが、そこにはあった。
   恋愛に対する経験も耐性もほとんど持ち合わせていなかった私は、郁弥がくれるものを素直に上手に受け取ることが出来なかったけれど、最後にはきちんと思っていることを郁弥に伝えることが出来た。長いときを重ねて芽吹いた恋心はめでたく成就して、それから。……ん?それから?

「……」

   あれ。恋人、でいいのかな?好きとは伝えたし郁弥もそう言ってはくれたけど、付き合うとか付き合わないとかそうゆう話は一切出なかった。
   それどころかあのあとは偶然通りがかった同じアパートの人に「こんばんは」と声をかけられてなんとも言えない空気になったし。それと時間が遅かったこともあって、郁弥は「今日はもう帰るよ」とすぐに帰ってしまったし。
   お出かけのお礼のメッセージは送ったけど『僕も楽しかった。ありがとう』と返事が来て、おやすみのスタンプを送って、それっきり。

「ナマエ」
「え?」
「大丈夫?どうかした?」

   かけられた声を辿って顔を上げると青い瞳が不思議そうにぱちりと瞬きをした。次の声はその隣から聞こえてきて、心配そうに目尻を下げた緑の瞳が一緒にこっちを見ている。
   明日には講義を控えている夏休み最終日の今日。久しぶりに三人でお出かけをして夕飯をどうしようかと話して、結局遙の家で食べることになった。三人で遙の家の近くのスーパーに行って食材を買って、料理をして「いただきます」と三人で声を並べて、今に至る。
   食べている途中でぼーっとしていた事実にはっとする。それ同時に、いつの間にか遮断していたあたたかいご飯の香りたちが鼻腔をくすぐった。きゅう、とお腹の奥が切なくなるのが分かる。

「ううん!食べる!いただきます!」
「……」
「わ、今日の鯖ふわふわだ」

   秋が近くなってきたからか、鯖の身がいつもよりふっくらとしている。お箸を通した身の間からはふんわりと湯気が舞った。絶対に美味しい。食べなくても見た目がそう言っている。私のその予想は見事に的中してぱくりと口に含めば、油と旨味が一緒になってじゅわっと口の中に広がった。

「んふふ、おいし〜!」
「鯖はいつでもうまい」
「うん!ハルちゃんのごはんはいつでも美味しいもんね!」
「……別にそうは言ってないだろ」
「ふふ、ハルが照れてる」
「照れてない」

   声を低くしたハルちゃんが鯖を手早く食べ進める。その様子を同じように見ていた真琴くんと目を合わせてくすくすと笑い合う。私だってハルちゃんが照れてることくらい見れば分かるんですからね。ふふん、と一人で鼻を鳴らしながらつんとした横顔を見ていると「あとちゃん付けで呼ぶな」といつもの台詞も追加されてしまった。

/

「真琴くんは夏休みにどこかお出かけとかしたの?」

   帰り道、真琴くんが家の近くまで送ってくれるというのでお言葉に甘えることにした。真琴くんと長い影と短い私の影が外灯に照らされてふたつ並んでいる。九月も半ばに差し掛かり、昼間はまだまだ残暑と日差しが厳しいけれど夜はもうすっかりと過ごしやすい。

「ううん。尚先輩に勉強させてもらえるSCを紹介してもらったから、そっちでちょっと忙しくって」
「え!そうだったんだ!」
「ハルにもさっき言ったばかりなんだけどね」

   そう言って微笑む真琴くんの目尻が優しく下がる。多分私がお手洗いとかで席を外しているときに伝えたんだろう。きっとハルちゃんに『頑張れ』とか『よかったな』とか、そうゆうことを言われたんだろうなって想像出来る表情をしている。

「けど、すごくいいね。なりたいものを一番身近で感じられるのってすごく勉強になりそうだし」
「うん。子どもたちとは全然違った熱量が直に伝わってくるから、今まで以上に真剣に向き合いたいって思うし、俺ももっと頑張らないとなってすごく刺激してもらってる」

   優しかった真琴くんの瞳がまっすぐに熱くなった。その横顔を見ているだけで目の前がきらきらして、嬉しくなって、勇気をもらえる。たまらず口角をあげながら「頑張ってね。応援してるね!」と伝えれば、また優しい顔をこっちへ向けて「ありがとう」と笑ってくれた。

「ところでナマエは?郁弥と出かけるって言ってなかった?」
「えっ?!う、え、えっと…その…」

   ふいに出された名前に思わず声を荒げる。でもすぐに口ごもってしまう。
   そういえば真琴くんには全日本のあと、お出かけすることになったって言ったんだっけ。さすがに好きって言われたことは秘密にしていたし、いろいろありすぎて真琴くんに伝えたと頭から抜けていたことに気がついたけど、もうすでにそれどころではなくなっている。
   一体どこから、なにから話せばいいのか。そもそもさっき辿り着いてしまった疑問の答えだって一人では出せていない。全日本から昨日までの出来事が頭の中をぐるぐると回る。それが何周目かしたところで、真琴くんの眉が優しく下がったのが見えた。

「…なにかあった?」

   う、と声が漏れる。心配の顔だって、分かる。何も言わない選択肢がしゅるじゅると小さくなって消えていく。なにから、話そうか。

「い、郁ちゃんに、っす、す、すきって、いわれて」

   さっきと同じことを考えて、出てきた言葉はこれだった。鼻とか、頬とか、耳とか目とか、顔のパーツがあちこち熱を帯びていく。恥ずかしさのあまり顔が自然と俯きがちになる。隣からは息をのんだような音が聞こえた気がした。

「それで、えっと、っわ、私も好きって、言ったんだけど」
「……そっか」
「え?」
「…そっかぁ……あ〜…よかった〜…っ!」

   聞こえてきた細い声に言葉を止めて顔を上げると、その声はだんだん大きくなって暗い夜道に響いた。
   顔を上げた先にいた真琴くんは撫で下ろした手を心臓のあたりで止めて、Tシャツに皺が出来るくらいに抑えている。くしゃっと崩れた表情と下がった目尻はすごく安心に満ちていて、すごく嬉しそうだった。
   きゅうっと心臓が痛くなって、じわっと目頭が熱くなる。真琴くんがこんなふうに、自分のことみたいに喜んでくれて、すごく嬉しい。

「でもね、あの、付き合うとか付き合わないとか話しなかったの!これって、え?!付き合ってるの?!」
「ええっ?!いや、え、えっと、どうなんだろ…」
「どうなんだろだよね?!あっ、真琴くんって高校のとき彼女いたよね?どうだった?そうゆう話ってちゃんとした?!」
「ど、どうって……うん、でも、付き合ってほしいとは言ってくれてたからな…」

   一度吐露してしまったものはタガが外れたように口から溢れていく。ずいっと距離を詰めて助けを求めると、うろうろと目を泳がせた真琴くんは少し困った顔で曖昧に微笑んだ。
   やっぱり普通はそうだよね。でも海外は付き合う付き合わないって言葉を交わす文化はないって聞くし、郁ちゃんは何年もアメリカで過ごしてきたし。でも私はずっと日本にいるし、今までほかの誰ともお付き合いはしてこなかったし。
   再び悶々とした思考に頭の中を占領されていたら、ポケットに入れていたスマホが震えたことに気がついた。呼ばれるままにスマホの手に取って見てみる。もう一度手元で震えた通知には『七瀬遙』と名前が表示されていた。

『もう着いたのか』
『いえ』

   いえが変換されていないけど、おそらく『言え』じゃなくて『家』が正解だろう。ふふ、と真琴くんが笑ったのが上から聞こえてきて、私もつられるように笑ってしまった。

「珍しいなあ。遙のほうからメッセージくれるなんて」
「ハルも心配だったんじゃない?ナマエ、ご飯のとき上の空だったから」
「えっ?そんなにぼんやりしてた?」

   私の問いかけにくすくす笑ったまま頷く真琴くん。それは遙に申し訳ないことをしたかもしれない。
   そして気がつく。郁弥には遙のことが好きだったって知られるのをあんなに躊躇っていたのに、今芽生えたのは心配をかけて申し訳ないなっていう気持ちだけだ。遙には内緒にしたいどころか、むしろ早く、教えたいくらい。

「ハルちゃんにもちゃんと言いたいな…」

   浮んだことがそのままぽつりとした声になる。ゆったりと細くなった瞳が優しく私をやわらかく見下ろした。

「ハルも、きっと喜ぶよ」

   その言葉と声に、じんわりと胸があたたかくなる。ハルちゃんが「よかったな」って言って微笑んでくれるところが目に浮かぶ。大好きな二人が祝福してくれる。こんなに幸福なことがあっていいのかな、なんて少し心配になったところで持ったままのスマホが震えてメッセージの受信を告げていた。

「うぎゃ!」
「わあっ?!」

   通知に表示された名前を見た瞬間、スマホを落としそうになって声をあげるとその声に反応した真琴くんがお世辞にもかっこいいとは言えない声をあげたので芽生えた緊張が一瞬で吹き飛んだ。たまらずけらけらと笑えば、真琴くんは顔を赤く染めながら「驚かすなって〜…!」とふにゃふにゃの声で叱ってきた。


  

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