忘れられない男の子V
『講義、明日から?』
郁ちゃん、もとい郁弥から届いていたメッセージはこれだった。『そうだよ!四限まである!郁ちゃんは?』『僕も同じ』『そっか、部活もあるの?』『あるよ。講義のあとだけど』なんて他愛のない会話が続く。私も郁弥も返信が早いほうじゃないから、たった数回のやりとりで私は寝落ちてしまった。
『おはよう』
寝落ちてしまったはずなのに、二通目のメッセージが届いてた。全日本の前にしばらくやりとりを続けていたときにはこんなことなかったから、びっくりして飛び起きた。送り返したおはようのスタンプと『今日から頑張ろうね!』というメッセージには、まだ既読がついていないけれど。
「……」
校舎へと向かう足を進めながらぼんやりとスマホを眺める。なんだかむずむずする。むずむずというか、いちいち気になっちゃうな。ちょっとした変化にすらにやけちゃうし、浮かれちゃうし。おはようって送っただけなのに、誰にでも送ったことがある当たり前の挨拶なのに、既読がついたかなってそわそわする。
「おはようミョウジさん」
「わあっ?!と、遠野くん!」
「え、なに?そんなに驚く?」
ひょこっと覗いてきた顔が私の反応を見てきょとんとする。犯人は遠野くんで、その隣にいつも並んでいる影はひとつもなかった。
そのことにほっと息をつくと、今度はあることに気がついた。鶯色の瞳が一点を見つめている。視線を追いかけた先には私の手のひらがあって、そこには私がさっきまで見ていたスマホがあった。それから偶然にも画面が遠野くんにもよく見える向きになっていて、映しているのは郁弥とのトーク画面のまま。静かに動いた鶯色がこっちを見て、にっこりと微笑む。残暑の日差しが照りつけている背中にたらりと汗が伝った。
「なるほどね。郁弥からのメッセージをうっとりじっくり眺めてたから驚いたってわけ」
「ちっ、ちがくて!たまたまだよ!たまたま開いてただけだから!」
「そう?そんなに一生懸命否定されるとますます怪しいんだけどなあ」
「怪しいってなにが?」
突然会話に入ってきた声にどきっと心臓が跳ね上がった。遠野くんが平然と「おかえり郁弥。飲み物買えた?」と聞いているあたり、きっと一緒に登校はしたんだろう。それでもって多分、ここに現れるのが分かっていたに違いない。
郁弥だ。郁ちゃんだ。この前会っていたはずなのに、今までよりもちょっときらきらして見える。心の準備が、まったく出来ていない。
おかげで郁弥が遠野くんに対して返事をしているけど、上手く頭には入ってこなかった。そのくせ郁弥がこっちに目を向けたっていうことには、すぐに頭がいっぱいになる。
「お、おはよう…!」
「…おはよ」
メッセージでも送った言葉をなんとか声にして紡ぐ。空気が、くすぐったい。郁弥も同じように感じているのか、途中で首のうしろに手を回しながら視線を少しだけ逸らした。遠野くんは遠野くんで終始にこにこしているものだから、なんだか余計にむずむずさせられる。
「あ!ナマエいたー!こっちこっち!」
次いで飛んできたのは明るく元気な声。そっちを見れば、目的地である校舎の入り口でぶんぶんと手を振るミオちゃんがいた。その隣には同じく入学式から友達になったマホちゃんがひらひらと控えめに手を振ってくれている。二人の登場にほっとしている反面で、なんだかちょっぴり残念な気持ちもあった。
「またね二人とも!」
「…うん。またね」
「じゃあね、ミョウジさん」
なんともいえない複雑な気持ちを抱えたまま、郁弥と遠野くんには別れを告げて二人の元へと向かった。
うしろから視線を感じるような気がして、少しだけ背筋が伸びる。歩き方、変じゃないかな。履いてきたスカート、汚れてないかな。普段なら考えないようなことが頭をちらついて、全然落ち着かない。半年も通っていないなりには慣れたはずなのに、知らない場所にいるみたいだった。
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「じゃあナマエ、また明日。バイト頑張ってね」
「うん。エミちゃんはサークル楽しんでね」
サークル棟へと足を向けるエミちゃんにひらひらと手を振る。その向こうにはエミちゃんの彼氏である先輩が立っていて、迷わず駆け寄っていくエミちゃんのうしろ姿に思わず顔が綻んだ。
エミちゃん、すごく可愛い顔をしてるんだろうな。私たちの前でも十分すぎるくらいに可愛いけど、彼氏さんの前ではもっとうんと可愛いに違いない。
「……」
それ比べて私は、と珍しく卑屈になったところで急激な疲労感が押し寄せてきた。もちろん久しぶりの講義のせい、なんかじゃない。むしろ唯一平常でいられたのが講義中だと言っても過言ではないくらいだ。
お昼を食べているときは郁ちゃんがどこかにいるんじゃないかとか、見られてるんじゃないかとか、食べ方変じゃないかなとかそんなことばっかり気になって全然味わえなかったし。教室を移動するだけでも目があちこちに彷徨ってしまって、友達の話もほとんど上の空だったし。
確かめたいことがあるのに、会うと逃げ出したくなる。逃げ出したくなるのに、会えないかなって探しちゃう。この矛盾もきっと恋心で出来ているんだろうけど、慣れる気が全くしない。悶々した気持ちを抱えたままバス停への歩みを進めていると、大教室棟前の花壇のそばに立っている人物を見つけた。
理解するよりも先に心臓がざわつきだす。い、郁ちゃんだ。どうしよう。どう声をかけたらいいんだろう。郁ちゃんはスマホを見てるからこっちに気がついてないみたいだけど、声も掛けずに立ち去るのも変だろうし。
「あ」
なんて迷っているうちに、目が合ってしまった。それはもうばっちりと。なんなら声まで漏れ出てしまった。スマホをポケットに入れた郁ちゃんはこっちへと距離を詰めてきていて、ただでさえざわざわしていた心臓がより一層騒ぎはじめる。
反射的に後ずさりたくなる気持ちが確かに芽生えていたけど、反応したはずの反射神経はぴくりとも私の身体を動かしてはくれなかった。
「講義終わった?」
「う、うん。いまから、バス停行くところ」
「お疲れ。今日はバイト?」
そのせいで、目の前に郁ちゃんがいる。ただ頷いただけでもういっぱいいっぱいになった私は、返事をする代わりにこくこくと首を縦に振って質問に返事をする。「そっか」と郁ちゃんからはすんなり相槌が返ってきたけど、私はそのまま視線を足元にぴったりと貼り付けてしまった。
一番聞きたいことはちゃんと頭の中に浮かんでいるけど、突然『私たちって付き合ってるの?』と聞くのはあまりにも不自然だろう。何か前置きになるような話題を、と思ったところで忙しない足音たちが近づいてきているのが聞こえた。
「ナマエよかったー!まだいた!」
「えっ、わ、ミオちゃん!」
どんどん大きくなる足音に名前を呼ばれて顔を上げる。足音の正体であったミオちゃんはなにやら慌てた様子で、その隣には今朝と同じようにマホちゃんがいた。
「どうかしたの?」
「あのさ、今日K大の人と遊びに行くんだってお昼に話したでしょ?」
「アカリが急に来れなくなっちゃったの!だからお願い!ナマエも一緒に来て!」
「え?二人じゃだめなの?」
「だめだめ!向こうも男子三人だもん!」
「まあ一人は私の幼馴染なんだけどね」
向こうは男の子が三人。人数を合わせたいってことは、つまり、そうゆうことなんだろうなと察する。確かにお昼休みに言っていたような気もするけど、ほとんど心ここにあらずだったから正直内容は覚えていなかった。
いや、この際それは、いいとして。期待の眼差しを向けてくるミオちゃんにはすごく申し訳ないけど、断らなくちゃとすぐに答えが出た。
付き合ってるのかも分からないのに?じゃあ郁ちゃんのことが好きだから行けないって言う?それもなんだかおかしな話じゃない?……っていうか、恥ずかしくて言えるもんかそんなこと!
「ごめんね二人とも。今日はバイトがあるから行けないや」
「あーそっか…バイトじゃしょうがないかあ…」
「さすがに急には休めないもんね。引き止めちゃってごめんね」
がくりと項垂れたミオちゃんはすぐに切り替えてぱっと背を向けていった
「うわっ」
「……」
はあ、と溜め息を吐かれた。
「……ああゆうの、さっさと断ってよね。もしバイトがなかったら行くつもりだったわけ?」
「エッ、い、行かないよ!ちゃんと断ってたよ!」
「ふーん…ならいいけど。ナマエのことだから友達に頼み込まれたら『行くだけなら』とか言いそうだし」
「あー…確かに言いそう…」
「は?」
「絶対に言いません」
たった一文字なのにとんでもない圧力を感じた。
「郁ちゃん?プール行かなくていいの?」
「まだ時間あるから。バス停まで送るよ」
「いや、でも、周りの人が勘違いするかもしれないし」
「勘違いじゃないから別にいいでしょ」
「え、あ……え、えっと、その、ばれちゃっていいの?」
「なに?問題ある?」
「え?問題ないの?」
「ないよ。むしろ誰かさんのこと誘う人とかいなくなって好都合だけど」
ちらりと横目に向けられる視線がまだちょっとちくちくしている。
「だからちゃんと断るってば」と言いながら早足で追いついて隣に並ぶ。「どうだか」
「……じゃあ次は、彼氏がいるからって言って、断わってもいい?」
控えめに質問をしてみると、
ふいっと反対側に逸らされた顔がどんな表情を浮かべているのかは見えなくなってしまったけど、ほんのり赤く染まって見えるほっぺたと耳からはなんとなく想像がついた。
「……許可なんて必要ないでしょ」
「じゃあ、今度はそうしよっかな。郁ちゃんもそうしていいからね」
「僕は別に、言われなくても断るし」
「だから私も断るってば!」
「はいはい」