side story 『Sosuke Yamazaki』


   どん、と無機物な音が響いてきて足を止めた。ついにオープンした岩鳶SCリターンズ。遙たちはオープン前にも使わせてもらってたみたいだけど私は初めて訪れる場所だ。
   遙たちの昔の話を聞いたときにはもう岩鳶SCはなくなっていたから、こうして新しくなってぴかぴかになったことも、みんなのはじまりであるここに足を踏み入れられることも、なんだか嬉しくてそわそわする。そわそわしながら入館してわずか一歩目で、足を止めた。
   なにごとかと思ってそっちへ足を進めてみる。壁際に設置されている自動販売機の前でなにやら対峙している男の子がふたり。手前にいる男の子がこっちへ身体を向けると、その向こうには見慣れた顔が立っていた。

「ハルちゃん…?」

   緊張を帯びた声で名前を呼ぶ。遙と一緒にいた人もなんだか見覚えが、あるような。ぴりっとした空気が漂っているのに気づいて、こっちへ歩いてくる男の子をただ眺めて突っ立っていると歩みが止まった。私の前で止まった大きな身体をきょとんと見上げると。

「もう用は済んだんだろ」

   すっと伸びてきた腕が私と彼の間に入る。腕を辿った先には遙がいた。もしかしてかばってくれてるのかな。怖い人、なのかな。
   もう一度そっちを見上げてみると、エメラルドグリーンは私じゃなくて遙と視線を合わせていた。絡み合ったその視線は私たちを置いていく彼によって外される。
   最後に一瞬だけ目が合って、それを最後に彼はスタスタと歩いていってしまった。後ろ姿を見るとますます真琴くんと体格が近く感じるけれど、穏やかでやわらかい雰囲気を纏っている真琴くんとは違って少し近寄りがたい雰囲気の持った人だった。一体、誰だったんだろう。

「遙の知り合い?」
「……ああ」

   少し伏し目がちになった青い瞳が頷く。短い返事とその様子にあんまり聞かないほうがいいのかなとも思ったけど「凛と江の幼馴染だ」と遙は言葉を続けて教えてくれた。
   それだけにしてはただならぬ空気が漂っていたけどね、とこっそりジト目になってその横顔を見る。でも遙が「行くぞ」って言いながらこっちを向いていつもどおりの表情を浮かべていたから、うん!と頷いて隣を並んだ。
   リレー対決後、見事に勝利をおさめて夏の大会への意気込みを見せるチームドルフィンの向こう側で、さっきの彼が微笑んだ。そして凛とこつんと拳をぶつけ合う。

「あの人、江ちゃんの幼馴染なの?」
「宗介くんのことですか?」
「そうすけくん」
「山崎宗介くんです。去年までは鯨津高校に通っていたんですけど、高校最後の年は好きに泳ぎたいからって、今年から鮫柄に転校してきたんですよ」
「と、鯨津って、水泳の名門だよね?!東京の!」
「はい!すごいんですよ、宗介くん!」

   そう言って江ちゃんは目をきらきらさせながら可愛い笑顔を浮かべた。その笑顔のまばゆさからは、宗介くんこと山崎くんのことをとても慕っているんだと伝わってくる。確かにさっきのフリーはすごくてかっこよかった。清らかで美しいハルちゃんのフリーとは違って、力強くたくましい泳ぎ。
   山崎くん。山崎宗介くん。長い間四人のまんま止まっていて、去年ようやく動きはじめた私の中の水泳選手名鑑にまたひとつ名前が刻まれる。一番最初にある名前はもう、随分色褪せてしまった。それでも、優しい気持ちになれる。
   この場所まで私を連れてきてくれた海の青と、穏やかな緑。江ちゃんの気持ち、すごくよく分かる。江ちゃんが目をきらきらさせるみたいに、私もふたりのことが大好きだから。

/

「……」

   江ちゃんどこいった。
   私は一人、鮫柄学園で校庭で途方に暮れていた。さっきまで一緒にいたはずの江ちゃんはマッスルコンテストを観に行ってそのあとすぐにはぐれちゃったし。遙たちと合流しようにもどこにいるか分からないし電話は出ないし。貴澄くんも『連絡取り合って会おうね〜!』とか言ってたくせに全然連絡来ないし!
   凛のクラスに行けば分かるかな。そう思って立ち尽くしていた足を動かしたとき、視界にある人物が映った。その隣にお目当てである凛はいなくて、どうしようかと一瞬考える。でも彼なら、もしかしたら江ちゃんの居場所を知っているかもしれない。

「あ、あの、山崎くん!」

   数秒間の迷いの末、声をかけてみることにした。突然声をかけられたにもかかわらず、落ち着いた様子で顔をこっちに向けてくれた山崎くん。さすがに相手が私だとは思わなかったのか、何度か目を瞬きさせている。片手にある水鉄砲が強烈に気になるところではあるけれど、今はそんなことより江ちゃんが先だ。

「……あんたは確か、岩鳶の」
「はい!えっと、江ちゃん見ませんでしたか?さっきまで一緒にいたんですけど、はぐれちゃって」
「……」

   山崎くんが私を覚えていてくれたことに嬉しい気持ちになる。が、しかし。短く伝えた用件を聞いた山崎くんの目が鋭く光ったように見えて、少し舞い上がった気持ちはすぐにしゅるしゅると落ち込んでいった。

「ごめんなさい!凛の妹で、山崎くんの大切な幼馴染なのに…」

   ぺこっと頭を下げながら、申し訳ない気持ちをそのまま言葉にして伝える。急に呼び止めた上に江ちゃんとはぐれてしまっただなんて、気に障っていてもおかしくはないかもしれない。あまり考えもせずに覚えていてくれたことに舞い上がった自分がちょっと恥ずかしい。
   後悔がぐるりぐるりと頭の中を巡る。いつまでも引き止めているわけにもいかないし、早く立ち去らないと。そう思って口を開こうとしたとき、すっと息を吸う音が聞こえた。

「別に、あんたが謝ることじゃねえ。江のことだ。どうせ筋肉がどうとか言って行っちまったんだろ」
「…え…ま、まあ、そんな感じかもですね…」

   あ、やばい肯定しちゃった。山崎くんがそんなふうに言ってくれると思わなくて咄嗟に頷いてしまった。苦笑した口元をぱっと手で押さえるけれど時すでに遅く、山崎くんは変わらず静かにこっちを見ていた。その目はやっぱり、なにを考えているのかはよく分からない。

「迷惑かけるな。わりい」

   返ってきた言葉にきょとんとする。それから隠していた口元がにやりと歪んだのが分かる。堪えられずにすぐにふふっと声にして笑うと、山崎くんは静かな目を不思議そうな色に変えた。

「山崎くんだって謝ることじゃないのに、自分も謝っちゃうんだなって」

   くすくすと口から笑い声が漏れてしまう。なんとか口の中に収めようと手で覆い隠すけど、隙間からぽろぽろと溢れていてまるで意味がない。そんな私を見て山崎くんは少し顔を顰める。でもその顔はちっとも怖くなかった。

「…まあ、妹みてえなもんだからな」

   江ちゃんの話をする目がとっても優しい。そういえば江ちゃんも山崎くんのこと、もう一人のお兄ちゃんみたいだって言ってたっけ。すごく仲良しなんだろうな。私にとっての遙と真琴くんみたいな感じかな。

「江なら多分まだ会場のあたりにいるだろ。なんか筋肉の、変な出店が出てた」
「あー…そういえばあったかも…」

   記憶の端っこにいた心当たりを見つけられて納得する。そういえばコンテスト会場に入る前、江ちゃんが見つけてはしゃいでいた。もしかしてだけど、山崎くんがそのお店を覚えていたのは興味があるからじゃなくて、江ちゃんが好きそうだなって思ったからだったりして。もしそうだったとしたら、ちょっぴり可愛いとか思ってしまうんだけれど。

「じゃあちょっと戻ってみます!ありがとうございます!」
「……」

   すぐに出がちな可愛いという言葉は喉の奥まで押しやって、山崎くんにお礼を伝える。ぺこっと軽く下げた頭を戻すと、どうしてか山崎くんはこっちをじっと見下ろしていた。なにか、言いたげな顔に見える。思い過ごしかな、と思いながらも首を傾げてその顔を見上げた。

「あの…?」
「……俺も行く」
「え」

   まさかの申し出に表情がかたまった。今度は私がその目をじっと見つめる番になる。するとエメラルドグリーンの瞳はふいっと逸らされて、再び山崎くんの口は薄く開いた。

「ここがどこか分かんねえ」

   なんですって…?? 

/

   山崎くんはどうやらサバイバルゲームに勤しんでいるらしい。チーム分けは鮫柄対岩鳶……ではなく、くじ引きで決まって、遙と渚くんとモモくんと一緒なんだとか。
   遙と山崎くんといえばスプラッシュフェスでの印象が私の中ではなんとなく強いんだけど、大丈夫なんだろうか。山崎くんはともかく、ハルちゃんはなあ。ハルちゃんだからなあ…。

「……あ!山崎くんってもしかして、中一の記録会のあとにハルちゃんと話してた人ですか?」

   遙のことを思い浮かべていたら、思い出の中で山崎くんと同じ色の瞳が光った。見覚えがある気がする、の正体を口にしてその目を見上げると、隣を歩く山崎くんは特に驚いた素振りをすることなく静かに私へ視線を向けた。

「…ああ。あったな、そんなこと」
「やっぱり!見覚えあるなってずっと思ってて、当時の水泳部の友達から佐野中の人だって聞いてたんで、そうかなって思ってたんです。私も応援に行ってたので」
「…そんな前から七瀬たちといんのか」
「あ、ええと、はい!」

   七瀬たち、と言われて少し言い淀む。あのとき遙とはまだただのクラスメイトで、会話のない日だって珍しくないくらいだった。
   そのときに私の中で凛は、あの子から聞いたハルちゃんの昔のチームメイトで、一方ではまだ名前の知らない赤色の男の子だった。
   山崎くんのことも「ハルちゃんと話してた子ってどこの中学の人?」と大会の帰り道にあの子に聞いて、佐野中だってことと、そのチームメイトの子と共通の知り合いとしか聞いていなかった。
   巡り巡ってきたものに内心ちょっぴり感動する。きっとあの子が聞いたらびっくりするだろうな。そう思って口元が緩く上がる反面で、じわりと少し寂しい気持ちが胸の奥に滲んだ。

「……山崎くんは、ずっと凛と連絡とか、取ってたんですね」

   へら、と力の抜けた笑顔を浮かべる。山崎くんにはきっと気がつかれてはないだろうけど、声には微かに『いいなあ』という色が乗ってしまった。まっすぐに前に投げた視界の隅で、山崎くんが一瞬こっちへ顔を向けたのが見える。でもまたすぐにその顔は同じように前を向いた。

「取ってねえ。凛に会ったのも五年ぶりだ」
「えっ、そ、そうなんですか?」
「ああ。手紙も途中から来なくなっちまったからな」

   今度は私が山崎くんへ顔を向ける番になって、告げられた事実に目が丸くなる。あからさまに驚いている私に山崎くんは少しだけ眉を顰めた。

「驚くことか?凛が壁にぶち当たってたってことくらい、去年の地方大会見てたんならあんただって分かるだろ」
「それは、そうなんですけど……今年の地方大会のリレーは、鮫柄もすっごくかっこよかったから、びっくりして」

   思ったことを率直に告げる。確かに昨年会ったばかりの頃の凛はかなり刺々しくて誰も寄せつけない空気をずっと纏っていて、どこか苦しそうに見えた。だからこそ、余計に驚いた。
   凛の葛藤を、てっきり山崎くんは知っていたものだと思っていたから。春のスプラッシュフェスでも鮫柄学園に転校してきて数日が経過してたとはいえ、まるでずっと一緒に切磋琢磨してきたみたいな雰囲気で話していたのが印象的だったし、凛と話す山崎くんはとても穏やかだったから。そうやって繋がったリレーだったんだと、どこかで思っていたから。
   山崎くんのことは観客席からも見えるくらいのほんの一部分しか知らないけれど、地方大会の舞台に立つまでの間にいろんな岐路があって、決断して、乗り越えて、また決断を迫られて、そして一等気持ちを乗せた答えを出して。この大きな身体とあのリレーに、山崎くんのどれほどの努力と想いが込められていたんだろうか。

「……凛が壁にぶつかっていようが、立ち止まる理由にはならねえと思ったからな」

   きゅ、と思わず唇を結ぶ。前言撤回だ。まるでずっと一緒に切磋琢磨してきたみたいな雰囲気、なんかじゃない。凛と山崎くんはずっと切磋琢磨してきたんだ。目に見える繋がりなんか二人にとっては大きな問題じゃなくて、もっと大切で、私には到底計り知れないものが、きっと二人の間には通ってる。
   私が立ち止まってしまったことに彼は足を止めなかった。山崎くんがこうして紡いでくれた言葉に積み上げられたものと時間は、どれほどのものなんだろう。乗り越えるために、一体どれほどの努力を重ねたんだろう。積み上げられたものが多ければ多いほど、それは重たく、苦しいものだということは知っている。
   自分の中の一番苦しかったものと想像したことが重なって絡まり合って、自分がどんな表情をしているのか意識出来なくなってきたところでふはっと笑う声が聞こえた。え、わ、わらっ、え?

「そんな顔すんな。余計に困る」
「……う、うん、ごめんなさい…」

   それもそうだ。山崎くんの言うとおりだ。ほぼ初対面で何気ない会話のつもりが暗い顔をされたら気まずいこと極まりない。気持ちを切り替えてもう一度俯かせた視線をぐっと持ち上げて前を見る。出店の集まっている場所が近づいてきて、楽しい声がさっきよりもたくさん耳に届いていた。

「………」

   山崎くんは、強いんですね。ちらりと見上げた横顔にそんな言葉が浮んだけど、飲み込んだ。初めてちゃんと話しただけの私がそれを言うのは、なんだか失礼に思えたから。山崎くんの本当の強さも頑張りも、きっとこんなもんじゃない。
   その横顔を映す傍で、脳裏には何度も目を奪われた後ろ髪が揺れている。でも決して寂しい気持ちからではなかった。

「私の友達にも、水泳留学してる子がいるんです」
「……連絡ないのか」

   話の流れからしてそう思われて当然だ。私は素直にこくりとひとつ頷いてから言葉を続けた。今度は、言葉のどこにも羨望なんて含ませない。

「とっても強い子だから。きっといつか、凛の良いライバルになります」

   それから、山崎くんにとっても。その言葉は飲み込んで胸の奥にそっとしまっておいた。まっすぐに見上げた山崎くんのエメラルドグリーンを見てにやりと微笑んでみせると。

「そいつは楽しみだな」

   視界に入れていた口元が再びふっと緩く弧を描いた。江ちゃんが山崎くんに懐いているのも、凛が山崎くんを認めて尊重しているのも、遙が山崎くんを意識しているのも頷ける。
   私も、彼をすごいと思う。新しく芽生えたものに胸を高鳴らせていると出店の賑わっている場所へ辿り着いた。ちょうどコンテストの看板も見えている。と、そこでポケットに入れていた携帯がぶるぶると振動しはじめた。

「わ、貴澄くんからだ」
「……そういやさっきいたな」
「え?会ったんですか?」
「ああ。あいつ、服濡れてるからあんま近づかねえほうがいいぞ」
「……うん?」

   何故。山崎くんの発言に疑問符を浮かべている内に携帯のバイブレーションは止んでしまった。そしてすぐに『ナマエどこ〜?』とメールが飛んでくる。はてなマークの隣にはしょんぼりとした顔文字がくっついていて、なんとも貴澄くんらしい。

「掛け直してやってくれ。俺はここでいい」
「あ、はい!ありがとうございました!」
「……敬語はいらねえ」
「エッ」
「あと、わりい。あんたのこと名前しか分かんねえ」

   再びまさかの申し出を口にされて表情がかたくなる。そういえば一度も呼ばれなかったけど、許可なく名前を呼ぶのは失礼だと思っていたのかな。そんなこと気にしないのになあ。そうやって都合のいいほうへ想像をしていたら、かたまっていたはずの表情はすぐにゆるりと崩れた。

「ナマエでいいよ。凛もそう呼んでくれるから」
「…分かった。こっちこそありがとな」
「や!そんな!えっと、サバゲー楽しんでね!」
「おう。ナマエも楽しんでけよ」

   立ち去る山崎くんにひらひらと手を振る。垣間見えた頼もしさと面倒見の良さが片手にある水鉄砲とは少しちぐはぐ見えて、でもそれが山崎くんの幼さというか、凛や私たちとちゃんと同級生なんだっていうのが伝わってきて、なんだかおかしかった。怖い人じゃなくて、すごくて、強くて、芯のまっすぐな優しい男の子だった。
   そのあと連絡を取って合流した貴澄くんはやっぱり山崎くんの言ったとおり濡れていたし、ようやく見つけた江ちゃんまで何故か濡れていて、上には山崎くんから借りたんだという白い学生服を羽織っていた。二人の姿を見て山崎くんとの短い時間を思い出す。一人でくすくす笑っていたから、二人は不思議そうな顔をしていた。


  

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