誇り


   ぽかぽかと身体が火照って、地面に足がついていないような感覚だ。原因は分かっている。昨日の帰り道に郁ちゃんが突然手を繋いできてから。しかもそれがちっとも嫌じゃなくて、むしろ、すごくすごく嬉しかったから。
   結局どうして手を繋いでくれたのかは聞かないまま、アパートの前ですんなりと離れて「またね。おやすみ」と郁ちゃんは颯爽と帰っていった。
   話をしていたとおりにメッセージは送ってある。『送ってくれてありがとう。気をつけて帰ってね!』というありきたりなものだけれど、無事に帰宅したらしい郁ちゃんから家に着いたと連絡があり、その日に作った晩御飯の写真を送ったりして、バイト前に『練習頑張ってね!』と送ったところまではやり取りが続いている。返ってくるたびにぱっと気持ちが晴れやかになって、その度に、どうしよう、とも思った。

「……はあ…」

   バイトがなんとか無事に終わり、最寄りの駅へと辿り着き、本日何度目かの溜め息をついた。「今日は珍しく溜め息が多いわね」と店長にも言われてしまう始末。無意識に勝手に出てしまうんだからしょうがない。
   ポケットから取り出したスマホにはまだ通知が来ていない。新たなもやもやを胸に抱えて歩いていると、改札前で見覚えのある人物を発見した。あ、と思っているうちにあちらも私の存在に気がついたらしい。

「ナマエじゃねえか」
「凛!真琴くんも!」
「ナマエはバイトの帰り?お疲れ様」
「ありがとう真琴くん。二人は何してるの?」

   確か二人で今日出かけるって言っていたけれど、手元を見ると新幹線のチケットが握られていた。出かけるってどこまでいくつもりなんだろう?と思っていると。

「ちょうどいいな。ナマエ、今いくらある?」
「うわ、凛カツアゲ?怖いなあ」
「んなわけあるか!お前も一緒に行くんだよ」
「え?」

   一体どこに?目を白黒させている間にあれよあれよと事が進む。新幹線のチケットを買い、新幹線に乗り、東京近郊へと進んでいく。突然すぎる出来事にさっきまで頭の中を占めていた問題は一旦外へと吹っ飛んでしまった。
   さすがに安くない新幹線のチケットを行き先も分からずに買うのは躊躇ってしまったので、どこへ行くのかだけ尋ねると「ハルのとこだ」と穏やかとは言えない雰囲気を纏った凛が教えてくれた。

「ナマエもたまには過保護になってもいいだろ。ちょっとは真琴を見習え」

   だから私は母親か。とばっちりを受けた真琴くんは困ったように笑っていた。

/

   つーかナマエ、ハルがアルベルトと勝負したんなら昨日そう言えよな。凛だってそこまで聞かなかったでしょ。言われなきゃ分かるわけねえだろ。まあまあ二人とも。
   そんな会話を繰り広げながら、なんとか遙がコーチ指導を受けているという合宿所に辿り着いた。足早に施設内のプールへと足を運べば、ちょうど遙がプールへ飛び込んだところだった。見たところ身体に異常は無いらしい。プールサイドには以前市民プールで出会った東さんが立っており、足音で気づいたのかすぐにこちらを振り向いた。

「こんなとこまでよく来たな。七瀬の彼女も一緒か」
「ぶはっ」
「ちょっと凛笑わないで!ほんとにちがいますから!」
「なんだよ、ちがうのか。そっちは?」

   だから何故残念そうなんだろう。声量大きめで否定すれば、さっさと興味は凛に移ったらしい。三人が話しているのを耳に入れながらもプールの中にいる遙の泳ぎを見る。何かを払拭したいと言わんばかりの、あまり遙らしいとは思えない泳ぎだ。アルベルト選手から何かを影響を受けているのだろうか。がむしゃらで、荒々しくて、だけど見ているとやっぱり。

「……高揚するなあ」

   私の呟きは東コーチが水中にいる遙に向かって「おい七瀬!今日はもう上がれ!」と叫んでいる声に上書きされて、あまり音に鳴らず消されてしまった。
   真琴くんの説得(?)の甲斐もあって、聞く耳を持たなかった東コーチの話を遙が真面目に聞いている間、施設内の適当なベンチに三人並んで腰を掛け、二人から東コーチが何者なのかを教えてもらっていた。元競泳選手で現役時代には「世界の頂点に最も近い選手」と呼ばれていたらしい。指導者としての腕も確かで、育てた選手は大きく成績を伸ばしているんだとか。

「東さんってそんなにすごい人だったんだね」
「うん。俺も最初に聞いたときはびっくりしたよ」

   安心しきったような顔で真琴くんがふんわりと笑う。遙の顔が見られたからかな。つられて頬を緩めれば、真琴くんの向こう側に座る凛がひょこりと顔を覗かせてきた。

「そういやナマエも、憧れてる指導者が学校にいるって言ってたよな。元陸上選手の」
「うん。凛、よく覚えてるね」
「まあな」
「でもその人、昨年度で霜学陸上部のコーチ辞めちゃったんだって。だからまだ、会えてなくて」

   今のコーチに聞いたんだけど、どこにいるのか分からないって言われちゃって。入学してすぐの思い出を吐露すると「そうだったのか」と凛が少し心配するような目をする。

「すぐには無理でも、いつか会えたらなって思ってるよ」

   そう言って笑顔を見せれば、凛の瞳からは心配の色が消えた。優しい子だと、改めて思う。遙のためにここまで来るだなんて。確かに真琴くんにはいつでも会いに行けるとは言ったけれど、昨日の今日で行くことになるとはさすがに思いもしなかった。遙が東コーチと話しはじめてからしばらく経ったことを壁に掛けてある時計が知らせてくれている。

「じゃあ俺もハルんとこ行ってくるかな。ナマエは?来るか?」
「ううん、二人でゆっくり話しておいでよ。久しぶりに話したいこと、たーーくさんあるでしょ?」
「んなにたくさんはねえよ」

   立ち上がって歩き始めた凛の背中に、真琴くんと目を合わせてくすくすと笑っていると「笑うな!」という声が飛んできた。そんなに照れなくてもいいのに。

「そんなに照れなくてもいいのにね」

   そう思っていると隣の真琴くんからは、心の中を読まれたんじゃないかと思うくらいに同じ感想が呟かれた。おかしくてまたくすりと笑っていると「飲み物でも買いに行こうか」と立ち上がった真琴くんと一緒に並んで自動販売機を目指した。
   自動販売機を目の前にして、ふと真琴くんの顔を見上げる。さっきまで安心しきった顔をしたのに、少し難しい顔になっていた。真琴くん、と声をかけようとした途端、寄ってきている足音に気がついた。

「お前、なかなかやるな」
「え?」
「選手の懐に入り込むのが上手いってことだよ」

   歩いてきた東コーチが真琴くんへと言葉を投げかける。「付き合いが長くても難しい」と「いい選手ほど頑固で我が強い」と続けた。彼の中で遙は『いい選手』としてカテゴライズされているんだな。そう思うと少し口元が綻んだ。

「あの、聞いてもいいですか。どうしてハルのコーチを?」

   同じように表情を緩めた真琴くんが真剣な眼差しで尋ねる。確かにそれは私も知りたい。無言で期待の眼差しを向けると、言葉を探すような顔をした東コーチが口を開いた。

「おもしろいと思った。あんなに水に馴染んでるヤツは」

   その後も淡々と口を開いてくれた。自分が現役のときにはムラがあったこと。自分では到達できない次元に行ける選手を育てたいと思うようになったこと。海外でいろんな選手と触れ合って、育ててきても、しっくりくる選手には出会えず、そんな中で遙に出会ったこと。遙のフリーへのこだわりが自分には欠けていた部分で、一流の選手には必要だと感じていること。

「あいつならいつか、俺の見たことのない次元まで行けるはずだ」

   はっと息をのんだ音が聞こえた気がした。その音が真琴くんからなのか、自分からなのか分からないくらいに、ほぼ同時だったと思う。東コーチは「あいつには言うなよ」そう言って立ち去る、かと思いきや、返したはずの踵がぴたりと止まった。真琴くんと二人して頭上にはてなマークを浮かべていると。

「七瀬の彼女もな」

   念を押すようにそう言われた。わざわざそうやって言わなくても。何度もちがうって言ってるのに。

「ナマエは誰の彼女でもないですよ」

   心の中で反論していると真琴くんがさらりと否定してくれた。誰の、は余計である。いや本当だけれど。イコール年齢だけれども。思わぬ矢を放たれたことに胸を痛めていると東コーチが目を見開いていた。

「ナマエ…?」
「え?はい?」
「高校時代の陸トレメニュー考えたヤツって、お前のことか」

   突然振られた話題に頭の処理が一瞬追いつかなくなる。高校時代とは、つまり岩鳶高校水泳部を指しているのだろうか。正確に言えば、江ちゃんも選手のみんなにもこれでどうかと相談してから決めたので、私一人で考えたと言われたら語弊があるところ。

「七瀬からどんな感じだったかおおまかに聞いたが、競泳のことをよく勉強してるな。選手の状態を把握するのにも長けてる」
「えっ、あ、ありがとうございます!」
「昔は陸上部員だったって聞いたが、陸上指導者志望か?」
「はい!そうです、けど…?」

   どうしてそんなことを聞くんだろう?という疑問が返事の声に混ざってしまった。感じ取ったのだろう乱雑に東コーチは頭をがしがしと掻きながら口を開けた。

「別に大した話じゃない。競泳のコーチの中には競泳未経験で陸トレを専門しているコーチもいる。競泳選手の育成に興味があるなら、そうゆう道もあるってだけだ」

   まあ、お前がどこに進もうが俺には関係ないけどな。無愛想にそう告げて、今度こそ踵を返して合宿所の奥へと消えていく。言われた言葉がすぐに飲み込めずに、ぽかんとそこを見つめたままでいた。

「東コーチ、ナマエにそのセンスがあるって言いたかったのかな…」
「うーん…?」

   隣の真琴くんが東コーチの意図を汲み取ろうとぽつりと呟く。本当にそうなのかは分からない。分からないけれど。

「…そうだったらいいなあ」

   新しい道が、開いたような気がした。

/

「真琴。……ナマエ?」
「あ、遙!お疲れ!」
「お前まで来てたのか」

   呼ばれて振り返ると話を終えたらしい遙と凛が二人で肩を並べて立っていた。ここに来てからだいぶ経つが、ようやく遙の青い瞳と目が合った。真琴くんも凛も伝えていなかったのか、遙が珍しく目を白黒させて驚いている。

「ハル。いいコーチに出会ったね」

   優しく目元を緩めた真琴くんが言う。きっとこの場で言葉の真意が分かるのは私だけだろう。私もへらりと笑って遙を見ると、何のことだか分からないかと言いたげな表情をしていた。
   すっかり日が暮れてきて、帰るべく外へと足を向ける。遙が門のところまで送ってくれるそうで、私はやっと遙の隣へと並んだ。少し前のほうで凛と真琴くんが話をしながら歩いている。

「まさかナマエまで来てるとはな」
「びっくりした?」

   さすがに三人目の登場ではそこまで驚かないのか、すぐに口元を緩めて「ああ」と短い返事を返される。来たときに纏っていた刺々しい雰囲気はもう無くなっていた。真琴くんと凛と話をして気持ちの整理がついたのかもしれない。

「ふ、ふふ」
「おい。人の顔を見て笑うな」

   我慢できずに口から漏れる笑い声に対して、遙が怪訝そうな顔で見てくる。

「だってハルちゃん『ただの人』からまた遠かったね」
「……なんでそんなに嬉しそうなんだ」
「嬉しそうかな?」

   質問を質問で返したところに遙がこくりと無言で頷いた。

「嬉しい以上に、誇らしいよ」

   そう言ってへへっと笑ってみせる。何も言わない遙を見上げるとその顔はびっくりしていた。そりゃそうだろう。中学一年のとき、初めて美しいと思ったこの泳ぎが。中学三年のとき、私を励ましてくれたこの泳ぎが。高校二年のとき、再び目の前で競泳の世界に飛び込んだこの泳ぎが。高校三年のとき、迷わず応援し続けたこの泳ぎが、大学一年にして、世界に羽ばたこうと必死に羽を動かしている。そんな友達がいることを誇らしいと言わずして、なんと表現しようか。ほかにぴったり当てはまる言葉が見つからない。

「期待してるね、ハルちゃん」

   あの日、期待するなと言って暗い目をしていたハルちゃんは、今は力を宿した目をしている。口をへの字にしたハルちゃんの次の言葉は自然と予想ができた。

「ちゃん付けはやめろって、何回も言ってるだろ」

   ほら、やっぱりだ。もう一度笑ってから拳を突き出せば、ふっと柔らかく微笑んだ遙の拳がぴったりと合わさった。


  

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