side story 『Haruka Nanase』


   カシャ、とスマホが音を鳴らす。オレンジ色の水面に浮かぶみっつの影と、降り注いでいる夜の藍色。岩鳶とは違う海の景色にとても優しい気持ちになりながら、手に持っていたスマホをおろす。するとバシャバシャと水を割く音が聞こえてきて、顔を上げてみるとさっきまで水に身体を預けていた三人がこっちへ戻ってきているところだった。

「おかえりなさい」
「ああ」
「おう。荷物ありがとな」
「ただいま、ナマエ。ごめんね、置きっぱなしにして」

   三者三様の反応にふふっと笑って「全然大丈夫だよ〜」と間延びした返事をした。ぽたぽたととめどなく落ちる水滴たちが浜の砂を濃くしていく。これからの帰路を思うとさすがに笑顔がかたくなった。

「わ〜…見事にびちょびちょだね。三人とも着替えはあるの?」
「俺はある」
「俺も持ってっけど、真琴はねえだろ。俺の貸すわ」
「ありがとう凛。……あー…でも…」

   気まずそうに苦笑いを浮かべる真琴くん。凛の服でサイズ大丈夫?と言葉が浮かんでいたけど、その表情を見て口を噤んだ。どうしたんだろう。そう考えて、すぐにぱっとひらめいた。

「大丈夫だよ真琴くん。パンツくらい私がコンビニで買ってきてあげるよ!」
「ちょっ…!あ、ありがたいけど、あんまり大きい声で言うなって〜…!」
「…つーか、男にパンツとか堂々と言うなよ」
「さすがに相手が真琴くんじゃなかったら言わないよ?!」
「それもそれでアウトなんだよ発言が!」

   凛から研ぎ澄まされた突っ込みが飛んでくる。真琴くんはそれを聞いてあわあわしているし、遙は心底どうでもよさそうにしている。いやでも別に、頼まれたら凛のでも遙のでもパンツくらい買ってくるし!そう口にすれば「もういいっつーの、パンツの話は!」と怒られてしまった。
   ついでにさっき言いそびれた「凛の服でサイズ大丈夫?」と聞けば凛からは鋭い手刀が飛んできたし、それを見た真琴くんは私の心配をしてくれたし、遙はやっぱり心底どうでもよさそうだったし、凛の服はオーバーサイズのTシャツと運動着だから大丈夫らしい。
   結局パンツは公衆トイレで着替えるついでに凛が買いに行ってくれることになって、私はまた一人で海辺に残される。
   しばらくはぼんやりと海を眺めて、どこからか聞こえてくる声や街の音たちに耳を傾けていたけれど、ゆらゆらと涼しげに揺れている水面に誘われてサンダルを脱いだ。履いているロングスカートを持ち上げて迷わずに足を浸す。
   夏の日差しをめいいっぱいに浴びていた潮水たちはほんの少し冷たいくらいだった。足をほのかに沈めてくれる砂が気持ちよくて、くるぶしが覆われるところまで進んでいく。
   潮の香りが肺いっぱいに入ってくる。心地いいのに、どこか物足りない。岩鳶よりは潮の香りが薄いからかな。もう一度深く息を吸ってから、ゆったりと吐き出す。すると後ろからぱしゃぱしゃと水を切る音が聞こえてきて、振り返るとそこには燈鷹のジャージに身を包んだ遙がいた。

「あ、遙。おかえり」
「ああ。ただいま」

   さっきとは違って今度はちゃんとただいまが返ってきた。ご丁寧にズボンの裾はふくらはぎの途中まで捲り上げられている。見兼ねてその場で立ったままいれば、案の定遙はすぐそばまで来てようやく足を止めた。今度はちゃんと靴を脱いではいるけれど。

「せっかく着替えたのにまた濡れちゃうよ?」
「このあたりなら大丈夫だろ。お前こそ、転ぶなよ」
「大丈夫です〜」

   あんなに全身びっしょりになるつもりはない。そこでふと遙のジャージが目についた。前を閉めていないから裾がふわっと吹いた風に少し揺られていて、なんとなく指先でつかまえる。
   さすが強豪の学校。素材がすごくいい。ちょっと前までは真琴くんと渚くんと怜くんと江ちゃんとおそろいのジャージを着ていたのに、なんだかすっかり馴染んでいる。私も卒業祝いで水泳部のみんなが一式プレゼントしてくれたけど、一緒に並んで着用することは一度もなかった。
   見つけた夢を辿っていく遙の、もうひとつの衣装。いつかこれも世界に行ったらまた新しいものになるんだろう。でも遙なら、きっとどれでも似合うだろうな。

「なんだ」
「ううん。燈鷹のジャージ似合うね」
「ジャージに似合うもなにもないだろ」
「そんなことないよ。ハルちゃんがずっと、泳いでるって感じがするもん」
「……」
「真琴くんの新しい夢も、かっこいいね」
「…ああ。そうだな」

   ふ、と遙の口元がやわらかくなった。去年真琴くんが東京へ行くと伝えたとき、遙はひどく狼狽していたみたいだけど、今は違う。嬉しいような寂しいような、そんな気持ちが募ったとき、まだ少し顔を出していた夕陽は東京の街に沈んでしまった。

「遙、寒くない?身体冷えてない?」
「ああ」
「そっか。ならいいんだけど」
「大丈夫だ」
「……え、うん?もう聞いたよ?」
「お前が今日まで妥協して過ごしてないことは、俺と真琴が一番知ってる」

   突然切り替わった会話に目を白黒させながら顔を上げた。暗くなった中で、遙の青い瞳が光る。生ぬるく優しい風が私たちの間を通っていた。

「ナマエの夢も、十分かっこいい」

   優しく通っていた風が水面を滑ってふわりと持ち上がった。一緒に宙へと浮いた遙の前髪が、一点の曇りもなく私を映す青色をくっきりと見せてくれる。またもや一瞬目を見張ったけれど、すぐにぷはっと吹き出してしまった。

「知ってる!」

   だって真琴くんと同じこと言うんだもん。そんなの、嬉しすぎるよ。私も、ふたりがくれるかっこいいに応えたい。見合いたいと思う。そう思わせてくれる二人がそばに居続けてくれることを、何よりも誇りに思いたい。
   まっすぐ遙を見つめて、こぼれる笑顔を堪えず浮かべる。へへっと締まりのない声が口からあふれてしまったけれど、つられるように遙の口元が緩んだのが見えてますますにやけてしまう。
   波の音の街の音の間から聴き慣れた声が聞こえてきた。浜辺には歩いている真琴くんと凛の姿が見える。戻ろっか、と口にはしなかったけど、自然と合わせた目がお互いにそう言っていて、どちらからともなく砂浜へ向かって歩き出す。ぱしゃ、ちゃぷ。断続的に流れる水の音の中で、東コーチの言葉が頭をよぎった。

「ハルちゃんもいつか、私の夢になるかもしれないね」

   思うままを口に出して、青い瞳を見上げた。ぱちくりとしたその瞳に不思議そうにこっちを見下ろしていて、首まで傾げられる。

「…どうゆう意味だ?」
「んー…えっとね……内緒!」

   自信たっぷりの声でそう言えば、また澄み切った青色はぱちくりと瞬いた。その顔を見てふふ!と笑ってやる。「なんだそれ」と言って呆れた眼差しと声を向けてきたハルちゃんは、やわく目元を細めた。

   ねえハルちゃん、世界はもうすぐ、そこに。


  

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