変わらないもの


   夕日が差し込んでいる自動販売機へと辿り着く。もう表彰式が終わってしばらく経つからか人気はなく、出入り口のほうから声が響いて聞こえるくらいだ。胸がいっぱいでなにを飲もうか少し迷って、無難に緑茶を選ぶ。
   ちょっとだけ笑っている膝を曲げて近くのベンチにへたりこむように座った。調子が悪いわけではなく、大会の興奮が冷めていなかったり、緊張の糸が解けた反動だったり、安心しきっていたりで身体に上手く力が入らない。感慨無量とはまさにこのことなんだろう。
   目を閉じれば、瞼の裏側に映される。遙がゴールする瞬間。郁ちゃんがゴールする瞬間。会場の歓声。応援しているときの興奮。何度も遙たちの試合は観てきたけど、試合後にこんなに疲労感に襲われるのは初めてのことだった。それだけ高揚させられたんだなあ。ふう、と一息ついてから緑茶を口へと流し込む。

「ナマエ?」

   何度も聞いた声に名前を呼ばれて顔を上げると、そこには郁ちゃんがいた。私服を纏って水泳部の鞄を肩から下げているから、お家に帰る前なのかな。足音が近づいてきてるとは思っていたけれど、まさか郁ちゃんだったとは。
   すっかり気が抜けきっていたので「郁ちゃんだ」と応答する声はふにゃふにゃしていて、この間偶然会ったときのような緊張も訪れてはこなかった。

「一人?」
「うん。真琴くんは外で岩鳶の後輩たちとお喋りしてるから。このあとみんなでご飯行くんだよ」
「そうなんだ。まだ行かなくて平気?」
「休憩してくるって言ってきたから平気だよ。なんかちょっと、気抜けちゃってさ」

   やっぱり髪、綺麗だ。飲み物を買う背中をぼんやりと眺めてそう思っていると、まっすぐこちらへ向かってきた郁ちゃんが隣に腰をかける。座ってくれたってことはすぐに行かなくていいのかな。嬉しいという気持ちよりも先に、伝えたい言葉が頭に浮かんだ。

「郁ちゃん。シドニー大会出場おめでとうございます」

   背筋を伸ばして、両手を太ももの上で揃えて、出来るだけ姿勢良くぺこりと頭を下げながら言えば、郁ちゃんからふっと笑う声が漏れた。

「…ありがと。まだ実感湧かないけどね」

   浮かべてくれた笑顔はどこか安心しきったように力が抜けていた。ほかのみんなは残っている種目がひとつだけだったけれど、郁ちゃんだけはフリーとブレを泳いでいるから、疲労もあるのかもしれない。何か差し入れるものでも用意してくればよかった、と内心ちょっとだけ後悔する。

「シドニー大会かー…しばらくしたらまた忙しくなっちゃうね」
「後期が始まったら合同学園祭の準備もあるしね」
「郁ちゃんは水泳部の模擬店で参加するの?」
「ううん。それとは別で、旭たちと出店する予定」
「そうなの?なんのお店?」
「まだ決まってない。ナマエは?」
「学科の希望者で出店する予定だよ。今はまだグループメッセージで候補が上がってるだけだから、今度みんなで集まって話し合いするの」
「ナマエも忙しくなりそうだね」
「うん。でもすっごく楽しみ!高校の文化祭は遙と真琴くんと毎年一緒だったけど、今年は郁ちゃんも一緒だもん。あと椎名くんも貴澄くんも、遠野くんも!」

   一人ずつ名前を上げるたびに指を曲げる。真琴くんは遊びに来てくれると言っていた。高校の文化祭もすごく楽しかったけど、きっと負けないくらい楽しい思い出になるはず。想像するだけでも顔が緩んでしまう。

「凛と宗介にも、声かけたら来てくれるかな」
「……」
「夏休みは遊べなかったけど、合同学園祭はいっぱい楽しもうね」

   遙と真琴くんとは、全日本選抜が終わったら遊びに行こうと話をしている。郁ちゃんとも遊べたらよかったんだけど、さすがにこればかりは仕方がない。そう勝手に諦めていると。

「……まだ終わってないけど」

   返ってきた言葉に首を傾げる。分かっていないのを悟ったらしい郁ちゃんは拗ねたようにむすりと口角を下げた。うーん、可愛い顔だ。未だに緊張感が戻らず呑気な私をよそに郁ちゃんは薄く口を開いた。

「だから、夏休み。まだ終わってないでしょ」

   少しそっけなく言われてようやく理解した。意味を分かってしまえば、たちまち気持ちにぱあっと花が咲く。

「遊んでくれるの?」
「……次の日曜日ならオフだし。別に予定もないし」
「ほんと?!」

   嬉しさのあまり、腰掛けているベンチに手をついてずいっと身を乗り出す。瞬時に詰めた距離に一瞬びっくりしていた郁ちゃんはすぐにふわりと微笑んだ。

「こんな嘘つかないよ」
「わーい!嬉しい〜!」
「ちょっと、大袈裟すぎ」

   ついついボリュームを上げて喜びを表現してしまった。今さら遅いとは思いつつも口に一度手を当てて言葉を仕舞い込んでから、へらりと笑う。

「郁ちゃんと行きたいところたくさんあるんだ。東京タワーとかスカイツリーとか、この前遙たちと行った新しい水族館とか、渋谷の展望台とか!」
「展望台?」
「うん!エミちゃんが彼氏さんと行ってすごく綺麗だったって言っててね」
「……ふっ」

   嬉々として忙しなく口を動かしていると、途中で郁ちゃんが控えめな笑い声を上げた。なにかおかしなこと言ったかな。そう心配しながらも郁ちゃんの笑顔に目の前がきらめいた。

「ほんと、ナマエはよく喋るね」

   初めて郁ちゃんが笑ったときみたいだ。そう思っていたところに懐かしい言葉をかけられる。郁ちゃんにそう言われてしまえば、私が返す言葉はひとつしかない。

「郁ちゃんと話したいこと、たくさんあるんだよ」
「それ絶対言うと思った。ナマエって本当に変わんない」
「郁ちゃんこそ」
「僕は……あの頃と全部一緒なわけじゃないし」
「……うん?」

   それは、そうだろうけど。これからの郁ちゃんを見てるねっていう話もしたことあるし。何故か急にむっとした口調になったことが気になって、返事に戸惑う。なんて言えばいいんだろう。迷いながらなにを考えているのか分からない横顔を見つめると、視線を落としていた郁ちゃんが顔を上げてこっちを向いた。

「ねえ、ナマエ。変えてほしいことがあるんだけど」
「変えてほしいこと?」

   突然の申し出にきょとんとする。思わず復唱すれば郁ちゃんは「うん」と頷いたけど、その微笑みがいつもよりちょっとぎこちなく感じて「いいけど…?」と内容も聞いていないのに曖昧に了承の返事をしてしまった。

「僕のこと、名前で呼んでよ」

   なまえ。郁ちゃんの名前。頭の中で言われたことを繰り返して、疑問符を浮かべた。

「……え?郁ちゃん?」
「それはあだ名でしょ」
「だ、ダメなの?もしかして嫌だった?」
「それは別に。今さら嫌じゃないよ」

   しれっと返される。じゃあ一体なんなんだ。名前で呼んで欲しいという要求と理由が結びつかなくて、ただただ不思議に思う。渚くんが郁ちゃんと呼んだときも嫌な顔ひとつせずに受け入れてたのに、いきなりどうしたんだろうか。

「でも僕も名前がいい。ハルと凛ばっかずるくない?」

   こちらの様子を伺うみたいに首を傾げながら言われて、郁ちゃんの髪の毛がさらりと揺れた。可愛い仕草と可愛い言動に、どきっとしてしまう。
   ……ずるいって言うってことは、羨ましいって思ってるととらえてしまうけど、いいのかな。夕陽色の瞳にじっととらえられながら、次の言葉を考える。けど、考えなくても郁ちゃんの欲しい言葉が流れで分かってしまった。

「……いくや」

   勝手に小さくなった声でぽそっと呟く。だって、しょうがないじゃん。せっかく気が抜けて緊張してなかったのに、そんなこと言われたら否が応でも緊張しちゃうんだから。郁ちゃんのこと、好きなんだもん。しょうがないじゃん。

「うん。そっちがいい」
「わ、わかった。じゃあ、そうするね」
「うん」

   満足そうに微笑まれて再び言葉に詰まる。どうしよう、緊張したら上手く話せなくなっちゃうのに。逃げ場がなく、ぎゅっとペットボトルを握ったところでスマホが揺れた。
   表示された通知には珍しく遙の名前が載っていて「遙からだ」とこぼしながらメッセージを開くと『どこだ』と疑問符の添えられていないトークが送られてきていた。そろそろ会場を出るのかな。ペットボトルとスマホを持って立ち上がる。

「郁ちゃ……ええと、郁弥は遠野くんどこかで待ってるの?」
「うん。外にいるはずだけど」
「じゃあ一緒に行こうよ……あ」
「なに?」

   郁弥もベンチから腰を上げたのを見て、言い忘れていたことを思い出す。というか、思い出してしまった。声を漏らした自分を少しだけ恨めしく思う。遙のメッセージのおかげで沈黙が生まれなかったことにこっそり安堵してたのに。
   でも、ちゃんと見てたから、ちゃんと言わなくちゃ。今までもそうやって伝えてきたから。えっと、と少し躊躇いを交えてから意を決して、顔を上げてまっすぐに口を開いた。

「郁弥、今日もかっこよかったよ。いちばん!」

   案の定照れくさくなって、えへへとわざとらしく笑う。よかった、ちゃんと言えた。内心で心底ほっとしながらすぐにスマホに目をやった。遙とのトーク画面を慌てて開いて『自販機のとこ。今からそっち行くね』いう文面を頭に浮かべて返事を打ち込んでいく。郁弥の顔は、恥ずかしくて見られなかった。

「ナマエ」
「んー?なあに?」
「好きだよ」

   だからスマホに視線を落としたまま、片手間に返事をした。自販機、まで入力した手が止まる。時が止まっている気さえした。ぱち、ぱち、とゆっくり何度か瞬きをしてから、ようやく顔を上げる。
   目が合った郁弥はふわっと微笑むだけで、そのままスタスタと出口のほうへと歩きはじめてしまった。さらさらと、綺麗な後ろ髪が揺れている。夕陽のオレンジ色に反射してきらきら輝くその髪は、やっぱりとても魅力的で、とても綺麗だった。

「……え?」


  

top | next



- ナノ -