side story 『Haruka Nanase』


side story : Haruka Nanase

   高校最後の夏休み、お盆が近づいていた頃。選手たちはインターハイの地区大会で惜しくも引退してしまったけれど、私は後輩マネージャーへの指導と引き継ぎや水泳部のお手伝いで何度か学校へ足を運んでいた。今日は陸上部の練習が終わった帰り道、夕焼け色と空の紺色が混ざった中で校門を目指して歩いていると。

「あ、遙!お疲れ!」

   見慣れた丸い頭を見つけて駆け寄りながら声を掛ける。特別驚いた顔もせず、かといって足を止めるでもなく、顔だけこちらに向けて、私が隣に並んで歩くのを当然のように遙は受け入れてくれた。

「一人?真琴くんは?」
「先に帰った」
「そうなんだ。遙は一人で遅くまで頑張ってたんだね」
「……」
「……遙?」

   おや、なんだか様子がおかしい。心当たりはといえば、先日行われた水泳部の地方大会が頭に浮かぶ。去年の地方大会は奇跡的に陸上部の練習が休みで応援に行くことが出来て、あのメドレーリレーをこの目に焼きつけることが出来た。今でももちろん、鮮明に、色濃く残っている。
   既に部活を引退していた今年も『七瀬遙応援団長』として意気揚々と応援へ向かった。鮫柄学園に、凛に、今日は勝てるかなってどきどきしながら。去年みたいな景色がまた見れるかなってわくわくしながら。でも、そこで目の当たりにした光景は、遙がレースを中断してプールの真ん中に一人佇む姿だった。
   迷いを垣間見せながらもメドレーリレーで全国への切符を手にしたことへの安心もあって、遙本人にその話題を振ってはこなかったけれど。

「……ナマエは、卒業したら東京に行くのか」

   夏でも変わらず北の空で光りはじめた北斗七星を見上げていると、ささやかな声が聞こえた。口火を切られた『これから』の話に、ほんの一瞬だけ驚いてからふと口元を緩める。

「そうだよ。ずっと前から決めてたからね」
「…今も変わらないんだな」
「うん。変わらないよ」

   迷いの見える声に、まっすぐに応える。霜狼学院大学への進学を目標にしたのは怪我をした中学三年のときで、怪我で引退した陸上選手が今は霜狼学院大学でコーチをしている、とリハビリ室のテレビで特集されていたのがきっかけだった。
   『失ったものは確かにあると言えるでしょう。しかしそこで得たものは、より大きく、かけがえのないものであると感じるのです。オリンピックに出たことも今となっては選手たちに伝えることの一部でしかありません。これから輝く人たちを、前だけを向いて支えたいです』
   画面越しに伝えられたその言葉に、強く惹かれたから。その道を極めるのならスポーツのレベルが高い学校へ進んでみたいと思ったから。霜狼学院大学には指導者育成に力を入れている学科があるから。私が得たものは今目の前にあって、それはとてもかけがえのないもので、何にも変え難いもので、とても尊いものだから。ずっとずっと、大切にしていきたいから。
   お父さんとお母さんの次くらいには、遙と真琴くんに「大学は東京に行きたい」と話していたし、今年の進路希望調査のときもその話は出ていた。そのときは眠たげに「俺は別に。泳げればなんでもいい」と告げていた青い瞳が、今はすごく揺らいで見える。すると遙は合わせていたその目を正面へ外して、斜め下へ視線を落とした。

「そうか」
「うん」
「……」
「……」
「……」
「……遙は?どう?」

   少し迷って、尋ねてしまった。影を落としている目が一瞬だけこっちを見る。でもすぐに俯きがちに戻って、閑静な空間に私たちの足音だけが響いていた。

「……俺には」

   静寂の中にぽつりと、弱々しい言葉が紡がれる。隣の遙を見上げたとき、穏やかに吹いてきた潮風が黒い髪を揺らした。

「将来なんて分からない。夢なんて、無い」

   隙間から覗く青い瞳は深い海の底が染まっているように見えた。長い付き合いになってきて不安定な遙に対して狼狽えたりはあまりしなくなったけれど、出来るだけいつもどおりの声のトーンを作って「そっかあ」と呑気に溢す。

「じゃあ、夢を見つけたあとの遙の泳ぎに期待!」
「…なんだそれ」
「そのまんまの意味だよ〜」

   へへ、と力なく笑えば遙は少しむっとした顔をした。決してばかにしているだとか、遙の言葉を軽んじているだとか、そうゆうことではない。ただ、変わらないだけだ。私に出来ることは、それしかないだけ。

「遙、言ってくれたよね。私が陸上部のマネージャーがやりたいって言ったときに『好きにしろ』って。『お前はフリーだ』って」
「ああ」
「嬉しかったよ。今でも、すごく嬉しいよ」
「…だから、なんだ」
「うん。だからってわけじゃないんだけどね。ハルちゃんがこれから先どんな道を選んでも、どんな結果を出しても、私たちは絶対、ハルちゃんに失望したりしないよ」

   顔を上げた遙がこちらを向けた瞳をまあるくさせている。これが遙の欲しい言葉だなんて、これっぽっちも思わない。そんなのは、とてもおこがましいことだとさえ思う。

「だから、これからのハルちゃんのフリーに期待!」

   そう言ってほっぺたを緩めれば、遙の驚いた顔が険しそうに、苦しそうに歪む。私に出来るのは、迷わず、逸らさず、応援することだけ。それが例え一時的に遙の重荷になろうとも、きっと遙はそれさえも越えてくれると信じているから。目の前の彼はきっと大きな世界をいつか夢見る日が来ると信じているから。海みたいに澄んだ瞳の奥に、熱いものを秘めているんだって、知ってるから。

「……するな。期待なんて」
「するよ。だって、ハルちゃんのこともハルちゃんのフリーも大好きだもん。水の中じゃ最強なんだもんね、ハルちゃん」

   意地もプライドも、余計なことをひとつも纏わない気持ちをまるごと言葉にして渡す。再び遙の瞳が丸く、大きく見開かれた。しかしゆらりと揺らめいた瞳が正面を向いたことで、またすぐに逸らされてしまった。

「ちゃん付けはやめろ」

   そしてぶっきらぼうに、何度か聞いたことのある言葉を投げられて思わずくすくすと笑みがこぼれる。むすっとする遙の顔はもうすっかり見慣れてしまったのでちっとも怖くなんてなかった。むしろさっきよりも纏っている空気はやわらかくなったように見える。

「わわっ」

   すると伸びてきた手によって乱暴に頭を掻き乱された。中三のあの日以来、遙はたまに、本当にごくたまにこうして私の頭を撫でてくれる。遙の気まぐれに胸が高鳴る時期もあったけれど、今の私はこれすらもう慣れっこだ。
   海岸沿いの道に辿り着くと波の音がいっそう強くなって、潮の香りを乗せた風がふわっと優しく吹いた。遙の横顔を見上げた向こう側で海が星を映して、月明かりを拾って、きらめているのが見える。同じように月明かりと、それから住宅から差し込む光を集めた遙の海色がきらりと輝く。

「……も、もしもの話、してもいい?」
「?」
「もし、わ、私の好きが恋愛感情だったら、遙ってどうするの?」

   気がつけば、すっかり凪いでいた恋心を引っ張り出していた。頭に触れてくれた大きな手のひらと穏やかな空気に安心してというか、流されてというか、つい聞きたくなってしまった。
   さっきまでとは全然違う意味で遙の目がきょとんとしている。くだらないとか、興味ないとか、そうゆう冗談はやめろとかって一蹴される気しかしない。応援団長として極めた今ならきっと何を言われても傷ついたりはしないけれど。

「……」
「……」

   穏やかに感じていた沈黙が気まずい沈黙へと変わりはじめてきたのを察する。さすがに意味が分からなかったかな、と諦めて、どうにか誤魔化そうと口を開いた。

「……それは、どう答えるのが正解なんだ」
「えっ」

   でも言葉を発したのは遙のほうで、思わず声が出る。さっきまできょとんとしていた目はむすりと細められていた。回答は予想を少し外れていたけれど、言われたことに内心『そりゃそうか』と納得する。

「断って、ナマエが応援してくれなくなったら、困る」

   これ以上はさすがに申し訳なくて冗談だと伝えるべく再び口を開いたとき、またもや先に遙の口が言葉を紡いだ。予想が外れたのは、全然少しじゃなかった。
   恋愛対象としてはあっさりと外された自分がいるのに、分かっているのに、その後に続いた言葉が、告白を受け取られることよりも何倍も何十倍も嬉しくて、胸の奥から熱い気持ちがあふれてくる。
   私が諦めてでも選び取りたかったものを、遙は選んでくれている。

「ふ、ふふ、そ、そっか、ふふ、そうだよね、んふふ」
「おい笑うな。お前が聞いてきたんだろ」
「ご、ごめん、ふふ、あはは」

   生まれて初めて、泳いでいる人を美しいと思った。立ち止まった私の手を引いてくれた。その遙が私の応援を必要としてくれているのを知って、笑うのを我慢できるわけないじゃん。
   きっと遙はこの質問の意図を理解する日は来ないだろう。だけど、それでいい。それがいいんだって、遙の初恋を知った日からずっと、そう思ってるの。

「……もういい。先に行く」

   相変わらず笑うのをやめない私を見兼ねてか、不機嫌そうに眉を寄せた遙がスタスタと歩くスピードを速めてしまう。海沿いの道に出ると八幡様の神社が見えた。ちょうどここから北側に見える鳥居の上では、北斗七星がきらりと瞬いている。
   静かな風に揺れる海面に、この向こうにいるであろう友達への想いを馳せながら、何度も追いかけた背中を追って何度も呼んだ名前を呼ぶ。

「待ってよハルちゃん!」

   海風に揺れるその後ろ髪には目を止めることなく追いかけて、再び隣に並ぶ。翌日の晩、凛から遙をオーストラリアへ連れて行きたいと思ってることを聞き、さらにその翌日には学校へ様子を見に出向いて、真琴くんから遙が日本を経ったと知らされてさらに期待が高まった。

   ねえハルちゃん、世界はずっと遠くて、ずっと広いね。

/

   たくさんの人が行き交う中、強烈に何かに惹かれるような、そんな感覚に襲われて足を止めた。さすがに全国大会ともなれば知らない学校のジャージばかりで、ちょうどすれ違った黄緑と白が基調になっている後ろ姿たちがやけに目を惹いたけれど、気にせずに会場をあとにした。

「ナマエちゃん!こっちこっちー!」

   外へ出ると夕日に照らされた四人組の中から、渚くんがぴょんぴょんと跳ねながら手を振ってくれていた。いつもよりもかっこよく見える四人にふにゃっと自分が破顔したのが分かる。そのまま迷わず駆け寄って、その輪の中へと足を踏み入れた。

「みんなお疲れ様!すっごくいいリレーだったよ!」
「ナマエ先輩も遥々出向いてくださり、ありがとうございました。先輩には陸上のときからだけではなく、水泳部に入ってからも幾度となく助けられ」
「怜ちゃん堅いよ〜?かちかちだよ〜」
「い、いいじゃないですか!気持ちが伝われば!」

   怜くんの丁寧なお礼に茶々を入れる渚くんと、それに狼狽える怜くん。見慣れた光景に微笑む真琴くんと遙。陸上部のマネージャーに励む傍で、この一年の間に四人のことも同じくらい応援してきたし、私もいろんな経験をさせてもらった。このメンバーで挑んだ、高校最後の全国大会が幕を閉じようとしている。
   こみあげる寂しさが胸に広がりはじめるのを堪えて、携帯を手にしている渚くんへ目を向けた。

「写真撮ってたの?」
「うん!見て見てー!」
「ナマエ」

   渚くんに言われて携帯を覗き込んだとき、いつもよりはっきりとした声で名前を呼ばれる。顔を上げた先には、ふたつの青色がまっすぐ私をとらえていた。

「お前にも感謝してる。この一年、変わらず応援し続けてくれて、ありがとう」

   その声に反応したのは私だけではなかったけれど、遙は三人からの寄せられた注目を気に留めることなくそう言った。びっくりして息をするのを忘れた間にも、言葉は続く。

「これからも、頼む」

   止まっていた呼吸を飲んだ。自分の目が丸く開かれて、瞳の奥が嬉しさに震えた。つい先日会ったときには『夢なんて無い』と俯いていた遙が、これからって言った。
   きっと、見つけられたんだ。遙の穏やかな表情と、さっき目に焼きつけたばかりのリレーと、一緒にその言葉を聞いた真琴くんたちが微笑んでいるのが何よりの証拠だ。

「うん!」

   やっぱりすごい。ハルちゃんはすごい。すごくて、めちゃくちゃかっこいいや。浮かべられるだけの満面の笑みを浮かべて返事をすれば、遙はいつもみたいに目元を下げて優しく柔らかく微笑んだ。

「じゃあやっぱり次の大会はたすきとか掛けて応援しちゃおうかな〜」
「たすき?」
「うん!『七瀬遙応援団長!』って書いたやつ!」
「……」
「やっぱりってことは一度は考えたんですか…」
「そうなの。作ろうかと思ったんだけどやめちゃったんだよね」
「えー?!なんでやめちゃったの!僕見たかったのに!」
「そ、それはちょっと…さすがに恥ずかしいんじゃない…?」
「え、なんで。別に恥ずかしくないよ!かっこいいよ!」
「そうだよマコちゃん!ナマエちゃんが恥ずかしがるわけないじゃん!」
「いやナマエがじゃなくてハルがさ…」
「僕も真琴先輩と同意見です」
「そんなことないよね?ハルちゃんも見たいよね?」
「……」

   ねえハルちゃん、夢の先でまたいつか。きっと、会えるよね。


  

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