やだ


   はあ、と胸いっぱいの感動を吐き出した。プラネタリウムをあとにして商業施設内を歩いて少し経ったというのに、プラネタリウムを漂っていた素敵な香りがまだ鼻に残っている。

「すごかった…東京ってすごいや…!」
「なにその観光客みたいな感想」
「だってほんとにすごかったもん!連れてきてくれてありがとう郁ちゃん!」
「……」

   すごかった。綺麗だった。と単純な感想をもう何度こぼしたのか分からない。呆れたような反応をする郁ちゃんだって、私が感想を口にするたびにどことなく嬉しそうに口元を緩めている。が、しかし。何故だか今はじとっと何か言いたげな眼差しを向けられてしまった。

「……え、なに?」
「名前で呼んでって僕この前言ったよね?」
「エッ」

   まさかそれを咎められるなんて思ってもみなくて、おろおろと視線を泳がせた。こんなに戸惑いを露わにしても郁ちゃんは目で訴えてくる。引くつもりはないらしい。どうして呼んでほしいのか。あのときは分からなかった答えが今はなんとなく察せてしまうから、やめてほしいのだけど。

「い……いくや…」
「うん」

   ふ、と緩んだ口元と目元に胸がきゅっと切なくなった。満足したらしい郁ちゃんはそのまま機嫌よさげな顔をくっつけて、進行方向へと目を向けるから、より切なくなる。
   名前を呼んだくらいで、そんなに嬉しそうにしないでよ。でも私も郁ちゃんが初めて名前で呼んでくれたときすごく嬉しかったから、気持ちは分かる。

「……あ」

   通りがかったお店がふと目に止まって声が漏れた。確か、エミちゃんが可愛いって言ってたアクセサリーショップだ。ハンドメイドの作家さんたちがアクセサリーを持ち寄っているお店だから、一点ものがほとんどで可愛いんだと持っているものを嬉しそうに見せてくれた覚えがある。系統がすごく私の好みに合ってて、いつか行ってみたいと思っていた。

「見たいとこあった?」
「うん。でも大丈夫だよ。また今度来たときで」
「なんで?行こうよ」
「え、でも…」

   女の子のお店だし、と続けようとした私をむしろ置き去りにして、郁弥はすたすたとお店の中へと入って行ってしまった。慌てて後ろを追いかけて足を止めた郁弥の隣に並ぶ。
   周りはおしゃれな女の子や可愛い女子高生ばかりで、店員さんを含めても店内の男の子は郁弥だけ。嫌じゃないのかなと心配になって郁弥の横顔を見ていると。

「これとかいいんじゃない?」
「わ!可愛い〜!」
「ね。あ、こっちも似合いそう」
「うん!そっちも可愛い!」

   嫌がるどころか、全く気にも止めずにあれやこれやと指を差して勧めてくれる。しかもどれもこれも私好みの可愛いものばっかりで、入店を躊躇したことなんてすぐに頭からは抜け落ちた。
   近くで見るとさらに可愛い。どれを手に取ってみようかとすっかり楽しんで考えていたら、郁弥がひとつのピアスを手に取った。そしてそっと、私の耳元に当てがってくれる。

「ほら。可愛い」

   やわらかくなった目元にゆったりと見つめられて、顔がぶわっと熱くなった。目が、声が、動作が、まるで恋人を扱うような甘さを孕んでいて、耐えられず唇をぎゅっと強く結ぶ。私のその反応を見て楽しんでいるのかおもしろがっているのか、それとも喜んでいるのか。郁弥はますます嬉しそうに目を細めて「ふふ」とこぼした。ふふじゃない。笑いごとじゃない!

「お、女の子扱いしないで…」
「は?」
「照れちゃうから…!」

   なんでと聞かれる前に語気を強くして訴えた。照れちゃうから。話せなくなっちゃうから。胸がいっぱいになっちゃうから。この間までは、夕焼け色に包まれた空間の中で二人でベンチに座るまでは、郁ちゃんに名前を呼ばれて返事をしたあの瞬間までは、ほんとにただの友達で、私だけが郁ちゃんを特別に思ってて、自分の中で変化した感情さえまだ処理しきれてなくて、一番仲のいい女の子だって思ってくれてると思ってて。それなのに、それが突然全部ひっくり返ってしまったことに、心がちっとも追いつかないから。
   照れちゃうから、という理由には続きがたくさんあったけど、とてもじゃないけど全部なんて言えるはずもなく。代わりにきょとんとしていたその顔をじっとりと睨んで気持ちの強さを主張した。

「やだよ。やっと出来るのに」

   けど、郁弥は受け入れてくれるどころか可愛い顔をふんだんに使って意地悪く微笑んできた。ずっときゅんきゅんと痛んでいる胸がよりいっそう苦しくなる。
   時刻は午後の三時頃。日が暮れるまでにはまだ時間があって、残りの時間をどう耐えようかと頭を抱えたくなった。

/

   女の子扱いしないでほしいという私の願いは本当に叶えられることなく。レディースのお店でも可愛い雑貨屋さんでも嫌な顔ひとつせず足を運んでくれて、さっきのアクセサリーショップのときと同様に「似合うね」「あ、これ可愛い」と口にしてくれて、エスカレーターに乗るときなんかも私が先に乗れるように譲ってくれて、晩ごはんの食べる場所を選ぶときも「ナマエの行きたいとこでいいよ。食べたいものとかある?」と聞いてくれた。おかげでせっかくのご飯の味がよく分かんなかった。
   もちろんそれだけじゃなくて、昔の話や友達みんなのことを言って笑い合ったり、ゲームセンターでUFOキャッチャーをしながらはしゃいだり、音ゲーをしてくだらないことを言い合ったりもした。途中で寄ったカフェでは約束通り私がご馳走させてもらった。だからすごく、楽しいけど。
   どうしてもあの優しい目で見られるたびにむずむずして、照れくさくなって、どうしたらいいか分からなくなって、逃げたくなって、俯いたり言葉をなくしたりしてしまう。

「わっ」

   帰路を辿る電車ががたんと強く揺れる。帰宅ラッシュは避けられたけど椅子に座ることは出来なくて、本日訪れた何度目かのくすぐったい沈黙をどう破ろうかと郁弥の隣に立って考えふけっていた私の身体は、いとも簡単によろめいた。

「大丈夫?」
「う、うん…だいじょーぶ…」

   咄嗟に差し出された腕に反射的につかまってしまって、郁弥と私の間にあった距離は0センチになる。しかももう片方の手も背中に添えられてて、これじゃあまるで抱きしめられてるみたいだ。
   慌ててつかんだ手を離すと背中にあった手も私から離れていった。ほっと安堵の息を小さく吐いた、のも束の間で。その手が郁弥の元へと戻らず私の背後にある扉横の手すりに置かれるから、またどきっと心臓が跳ねる。電車が揺れる前よりも、距離がすごく近い。息、つまりそう。

「……」

   そろりと目を上げて郁弥を見上げてみる。窓の外へ目を向けていた郁弥はすぐに私の視線に気がついたみたいで、すぐにこっちを見下ろしてきた。

「言っとくけど、家まで送ってくから」
「…いつも言ってるけど、ほんとに大丈夫だよ?」
「ダメに決まってんじゃん。何時だと思ってんの」
「も〜また女の子扱いして〜…」

   じっと睨む。やめてと言ってもちっともやめてくれない。もうすぐ私の家の最寄駅だし、そのつもりだろうと予想は出来ていたけど。

「それもあるけど、ただ僕が一緒にいたいだけ」

   薄く開かれた口からはそれだけを紡がれて、郁弥の目は再び窓の外へと向いてしまった。睨んでいたはずの自分の目が恥ずかしさでちょっと潤んだのが分かって俯いた。
   胸が苦しい。せっかく会話が生まれたても、そうやって言うから、また頭が真っ白になる。また言葉を失くす。
   もしかして、ずっとこのままなんだろうか。何年か越しにようやく会えて、でも郁ちゃんにはこっそりと抱えていたものがあって、再会から数ヶ月経ってようやくこうしてまた一緒にいられるようになったのに。もっとたくさんお話して、たくさん遊んで、たくさん笑ってほしいのに。
   照れくさい気持ちにだんだんとモヤがかかって、雲行きが怪しくなっていく。苦しいと感じていた胸のあたりが、切なくて重たい。駅に着いてそれはさらに重たくのしかかる。足取りも重い。返事をしなくちゃ、いけないんだよね。

「今日はありがと。じゃあおやすみ」

   結局家の前まで言葉を上手く発せないままで、ほとんど会話なくアパートに到着してしまった。いつもと同じように下まで送ってくれた郁弥は振り返りざまにひらりと片手を振る。私も胸のあたりで手を振りながら、踵を返す郁弥を見送った。

「こちらこそありがとう。おやすみなさ………おやすみ?!」
「え、なに」
「だって、あの、へ、返事とか…聞くものじゃないの…?」

   見送り途中ではっとなって声を上げれば、背中を向けたはずの郁弥が少し驚いた顔で振り返った。合った目からすぐに視線をおろおろと外してたどたどしく言葉を紡ぐ。振っていた手ともう片方の手の指先を擦り合わせて、なんとか少しでも平常心を保とうとだけしてみせる。郁弥の顔は、上手に見られなかった。

「別に今日じゃなくていいよ。いきなりそんなふうに考えてって言われても、ナマエ無理そうだし」
「えっ?!い、いや、そんなことは…」
「僕のこと意識してくれれば、今はそれでいいから」

   ちょっと困ったように微笑んだのが泳がせる視界の中に映った。意識なら、もうとっくにしてるよ。一番特別なところに、もういるよ。そう言えばいいのに、やっぱり言葉が出てこない。郁弥を大切だ大好きだって伝えることに今まで躊躇ったことなんて一度もなかったのに。

「………い」

   どうして私は、一番伝えたいと思っていたことを口に出来ないんだろう。

「……いくや、は」
「ん?」
「どうして、私に好きって言おうって思ったの?」
「……え?」
「だって、こ、告白して、くれなくても、私はずっと郁弥のこと大事にするし、ずっとずっとそばにいるのに」

   どうして、と口にした。おそるおそる郁弥を見上げる。外灯に照らされた綺麗な瞳は、視線を逃してばかりの私とは違って静かにこっちを見ていた。

「もう気持ちを隠すのは無理だって思った」
「え、あ…」
「……いや、やっぱちがうかも」
「え」
「隠したくないって思った。何も言わないままナマエがまたほかの人を好きになるのとか、やだったから」

   まっすぐに見つめられたまま言葉を紡がれて、きゅうっと心臓が締め付けられる。耳のほうから、じわじわと顔が熱くなる。そんなふうに、思ってくれたんだ。私がスマホに目を落としていたあの短い時間に郁ちゃんの中でそんな感情が働いてたなんて、考えもしなかった。
   けど、すごく嬉しい。私と同じ気持ちでいてくれたなんて、夢みたいだ。でももし私の気持ちを口にしたら、どうなってしまうんだろう。郁ちゃんとの関係は今よりもっと変わっていっちゃうのかな。電車で芽生えたモヤモヤが一段と大きくなって顔を出す。
   聞いておいてなんて返してばいいのか分からずに、結局また俯いてしまった。嬉しいのにそれと同じくらい、すごく怖い。ここから先の未来が不透明すぎて、怖い。だって、もう。

「……ごめん。困らせて」

   今日話してきた中で一番の低い声に目を見開いた。「じゃあまた学校で」と今度こそ踵を返して駅のほうへとすぐに歩きはじめた郁弥は私がびっくりしたことに気がついてなかったみたいだけど、とても弱くて、儚くて、消えてしまいそうなくらい悲しげな声だった。
   どうして、と口にした。それは紛れもない事実だった。それを聞いて郁弥はどう思ったんだろう。『告白してくれなくても』なんて。してほしくなかったと言われているのと、同じに聞こえるんじゃないか。私がもし郁弥に言われたらきっと悲しい気持ちになる。想像しただけでもじわりと視界が滲んだ。
   いま、気持ちを口にするのを怖いと思っている。でもそれは、郁弥に謝らせるよりも大事なこと?

「……郁ちゃん!」


  

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