ずっと、きっと


   でもそれは、郁弥に謝らせるよりも大事なこと?

「……郁ちゃん!」

   気がつけば、数メートル先にいたはずの郁弥の腕をつかんでいた。鍛え上げられたたくましい腕は郁弥の努力がいくつも重なって厚くなっている。それにちょっとだけ、内心びっくりした。男の人の腕なんだって、どきりともした。
   足を止めて振り返った郁弥は声こそ発さなかったものの、突然のことに目を丸くしている。その大きな瞳に映っている私は今にも泣き出しそうな、とてもかっこわるい顔をしていた。

「いままでみたいに、はなしたり、できないよ」

   つかんだ腕を縋るように握る。力の入った手のひらとは対照的に口から出てきた声は細くて、頼りなくて、情けなくて。でも周りからの音は少し離れた大きい通りをときどき通る車の音だけだったから、きっと郁弥には届いたと思う。その証拠に、つかんでいる郁弥の腕が強張ったのが伝わってきた。

「い、郁ちゃんのことが好きって、最近気づいて。そしたら、郁ちゃんとどんどん、は、話せなく、なって」
「……は」
「それが嫌で、郁ちゃん、私のこと好きって言ってくれて、すごく嬉しいのに、恥ずかしくて、照れちゃって、っ、ぜんぜん、言葉が、出てこなくなっちゃって」
「……」
「せっかくまた一緒に遊んだりできるようになったのに、もしお付き合いしたりして、今よりもっと、もっと話せなくなっちゃったら、どうしようって」

   顔が上手に上げられなくて、握っている場所にじっと視線をとどめる。郁ちゃんからは短い言葉が降ってきたような気がしたけど、今の私にそれを気にする余裕なんてなかった。それを表すかのように口から出る言葉たちはとてもぎこちなくて、今にも呼吸が止まりそうなくらいに、胸が苦しい。

「だから、こ、困ってないよ。でも、いやなの。また話せなくなったりするの、絶対にやだ」
「……」
「だってもう、っ、郁ちゃんと、離れたくないよ」

   握っている手にさらに力を込めた。その手はかたかたと静かに小刻みに震えている。顔が上げられないから郁弥が今どんな顔をしているのかは分からないけど、腕をふりほどいたり話を遮ったりは一切しないで、私の話を静かに聞いてくれていた。
   郁ちゃん、どう思ったかな。なにを思って、なにを言われるんだろう。沈黙がすごく痛くて、すごく怖い。

「……なにそれ…」

   そんな中で沈黙を破った静かな低い声にびくっと肩が震えた。呆れちゃったかな。がっかりしたかな。これほどに恋愛に耐性がないことも、それが理由で戸惑っていることも。私だって変化し続ける自分に追いつけないくらいなんだから、郁ちゃんが幻滅しても仕方がない。仕方がないと頭では理解が出来たのに、その可能性を思い浮かべるだけでも視界はゆらりと動いた。

「そんなの、僕と同じ気持ちだって言ってるようにしか、聞こえないんだけど」

   涙の膜が張った目を見開く。降ってきたのは声はやっぱりいつもより静かで、いつもより低くて、それでもさっきとは全然ちがうように聞こえる。顔を上げてようやく郁弥と目を合わせると、外灯の光を集めている大きな瞳がゆらゆらと揺れていた。

「そうだって、言ってるよ」
「……いいの?あとで、やっぱり違ったとか言われても、聞いてあげれないよ」

   その目は、喜んでいるようにも信じられないものを見ているようにも見える。つかんでいる腕がまた強張ったのが分かって、私も握る手に少しだけ力を込めた。やっぱり違ったなんて言う未来は、これっぽっちだって想像出来ないのに。

「慣れるまで、すごい時間かかるかも」
「……僕だって別に慣れてるわけじゃないんだけど」
「え、そうなの?」
「当たり前でしょ。ずっと好きだった子に告白してデートまでしてるのに、平常心なわけなくない?」
「……ずっと?」

   気になりすぎるワードに自然と言葉がこぼれる。すると郁ちゃんが少し目を見開いて、それからぐっと眉を顰めながらふいっと顔を背けてしまった。

「……今のなし」
「や、やだ!なしにしない!ずっとって、え?!郁ちゃんそんなに前から私のことをす、すっ、好きなの?!」
「は?そんなこと言ってないし」
「いやほんとになしにしようとするじゃん!」

   二言目には顔をこっちへ再び向けてくれたけど、言葉のとおり何のことか分かりませんみたいな顔をしていた。きっと無意識に出てしまった言葉なんだろうな。
   でもなかったことにしたくなくて、してあげられなくて、今日何度も逸らしてきた目をじっと固定して琥珀色を見上げた。

「……そうだよ。悪い?なんか問題ある?」
「今度はすごい開き直る…」

   さっきまで申し訳なさそうになったり嬉しそうになったりしていた瞳がむっとした眼差しを向けてくる。忙しい子だな。それでもって、可愛い子だ。問題なんてどこにも見当たらないし、むしろ嬉しい。嬉しいから、もっと詳しく、いっぱい聞きたい。

「……」
「……」

   いつから?どうして?どんなところが?聞きたいことは出てくるけど言葉にはならないし、それを聞いて落ち着いられる気もしない。しかも今度は郁ちゃんも顔を俯かせてしまった。私が握っている腕のあたりに視線を注いで、少し難しい表情を浮かべている。私もつられてそこへ視線を落とした。
   沈黙が、とてもくすぐったい。さっきまで重たいものが自分にのしかかっていたのに。あんなに口にすることを怖がっていたのに。言ってみたら、そんなことなかった。それどころか、すごくにやけそう。
   でも沈黙を破る勇気はなかなか出なくて、なんて言ったらいいのかも分かんなくて迷っていたら、郁ちゃんが動いて身体をこっちへ向けた。その拍子にずっとつかみっぱなしだった手を離すと今度はその手をつかまれる。もう片方の手も流れるような自然な動作でつかまえられて、思わず顔を上げた。
   夜の紺色が差している夕焼け色の瞳の中で集まる外灯の光たちがまるで星みたいに見える。その目はまっすぐ、まっすぐに、私を見下ろして少しだけ細くなった。

「ずっと、好きだったよ」

   薄く開かれた唇から紡がれた言葉にぎゅうっと心臓をつかまれた。照れくさそうな顔だけど、とても真面目な表情だ。それがくすぐったくて、逃げ出したい気持ちが大きくなる。でもまだ離れたくもなくて、その顔を見ていたくもあって、重なっている手を縋りつくように握った。

「……過去形なんだ?」
「そんなわけないでしょ。馬鹿ナマエ」
「……うん」

   分かる。分かるよ。だって郁ちゃんがたくさん伝えてくれたから。ようやく飲み込めた両思いという事実にふにゃりと口元が緩む。

「郁ちゃんは、可愛いね」

   忘れられない男の子がいた。そんな彼が今、特別になっていく。
   私も好き。郁ちゃんが好き。桐嶋郁弥くんが、大好き。そうやって声にして伝えるはずだったのに、無意識に出てきたのはその言葉だった。大きなおめめが一瞬きょとんと丸くなる。けどすぐに不満げに細められた。

「嬉しくないし」

   そう言って尖った口元がやっぱり可愛くて、声を上げて笑ってしまった。


  

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