おかえり


「いっけーー!はーるかぁーーー!!」

   フリー100の決勝。スタートから好調だった遙はそのままトップをキープして、一位でゴール。ぶわりと歓喜の波が押し寄せて、我慢せずにガッツポーズを作った。

「やったーー!!真琴くん貴澄くん!遙一番だよ!今日もすごいね綺麗だね!」
「ナマエはハルが泳いでると精神年齢がさらに低くなるよね〜」
「高校のときからずっとこんな感じだよ」
「あはは、さすが七瀬遙応援団長」

   失礼な会話を二人がのほほんと繰り広げているがそんなの構うもんか。今日はとにかく全力で応援するって決めてるんだから。

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「遙が今からフリーの決勝で泳ぐよ」

   実は試合が始まる前にお手洗いから戻るとき、どこかへ向かおうとしている郁ちゃんと階段ですれ違った。確実に目は合っていたのに、逸らして通り過ぎようとする郁ちゃんの背中へめげずに声をかけるとその足がぴたりと止まる。

「……みたいだね」
「見ないの?」
「見ないよ。見たところで、何も変わらないから」

   何も、とはどのことを指しているんだろう。郁ちゃんがもうリレーでは泳がないと決めていること?それとも過去のこと?気持ちの問題?きっと疑問系で何かを尋ねたところで郁ちゃんの心には響かない。

「郁ちゃん、ジャージ貸してくれてありがとう」
「……何のこと」
「知ってるよ。腰のタグのところに名前があったから。ミナセさんからジャージ返ってきたでしょ?」
「……」

   このタイミングでの無言は肯定以外の何物でもない。どうしてあんなことしてくれたの、と聞きたい気持ちももちろんあったけど、そんなの聞かなくても私は理由を知っていた。

「郁ちゃんの優しいところはそのまんまだね」
「……ちがうよ。そんなんじゃない。僕はもう、昔の僕じゃ…」
「そんなの、みんなそうだよ。いろんな経験をして乗り越えて、立ち止まって成長して、今日まで生きてる」

   郁ちゃんがいる場所より二段ほど下までくだり、逃がさないと言わんばかりに大きな瞳をじっと見上げた。その瞳にすらゆらりと逃げられてしまったけれど、私は郁ちゃんから目を逸らす気はない。

「だから昔の郁ちゃんじゃなくて、今目の前にいる、これからの郁ちゃんを見てるよ」
「……」
「とにかく今は応援してるね。一番大きい声で、郁ちゃんに届くように!」

   一方的に、押し付けるように伝えてしまった。けれどこのまま避けられ続けて、私の気持ちも聞いてもらえないまま試合が終わったら、郁ちゃんがこれからも一人で大丈夫だと証明してしまうような、そんな気がしたから。
   言い終わってすぐ郁ちゃんはまた私を通り過ぎて行ってしまったけれど、それ以上追いかけることはせず、まっすぐ観客席へ戻った。ほんのちょっとでもいいから、私の気持ちが伝わればいい。
   今でも、どんなでも、郁ちゃんがすごく大切だって。

/

   椎名くんの出場したフリーの決勝を無事に見届け、ほくほくとした気持ちで自動販売機から戻る。両手には三本のスポーツドリンク。遙と椎名くんに差し入れる分と、自分の分。
   新人戦のときは見ていなかったけど、遠野くんもすごく速かった。きっとアメリカにいる頃から郁ちゃんとは刺激し合ってきたんだろう。遠野くんに言われた言葉が頭によぎる。

『上を目指す郁弥の気持ちなんて分かるのかな?』

   ……いけないいけない。せっかく遙に元気をもらったのに辛気くさい気持ちになっては。ネガティブ退散、と心で唱えて止めていた歩みを進めると、知っている顔に遭遇した。

「あ、遠野くん」
「……ミョウジさん、来てたんだ。さっき橘くんにも自販機のとこで会ったよ」
「そうなの?あ、さっき遠野くんが泳いでるのも見てたよ。すごかったね!遠野くんフリーも速いんだね!」
「…どうも」

   今日も今日とて冷たい。けどその表情にはどこか影が潜んでいるような雰囲気が漂っている。さっきの試合じゃ調子が悪いようにはとても見えなかったけれど。

「これあげるよ。差し入れ」
「……郁弥になら渡さないけど」
「うん、渡さなくていいよ。これは遠野くんに」
「……」

   郁ちゃんの名前が出てきた途端に眉間に少し皺を作る遠野くん。でもいつもみたいな警戒している空気ではなく、遠野くん自身が苦しんでいるんじゃないかと疑いたくなるような表情だ。
   …もしかして、郁ちゃんとなにかあったのかな。差し出したままのスポーツドリンクはいつまで経っても受け取ってくれず。やっと手が伸びてきたかと思えば、そっと押し戻されてしまった。

「気持ちだけもらっておくよ。自分で買ったのもあるし」
「えー、もうしょうがないなあ。じゃあ気持ちだけあげるよ。しょうがないからほら、どうぞ」
「なんで上から目線なの」

   今度はやれやれと呆れたような表情を遠野くんが見せてくれたことに少し驚いた。いつもは貼り付けたみたいな冷たい笑顔なのに。そんなふうに素の顔を垣間見せられてしまえば、聞かずにはいられなかった。

「遠野くん、大丈夫?」
「……は?なんで…」
「大丈夫って、聞きたくなる顔してるから」
「……」
「郁ちゃんと喧嘩しちゃった?」

   質問に対して遠野くんは少しだけ表情を困惑させたけど、一瞬開いた口はまっすぐ結んで閉ざしてしまった。立ち去ることもせず、頷きもせず、難しい顔をして軽く俯いている。無言の肯定ということで、いいんだろうか。私には分からない。遠野日和という人物を、私はなにも知らないから。

「……わたし、本当に郁ちゃんが私や遙たちともう会いたくないなら、そっちのほうが本気で苦しいって思うんなら、それでもいいって思うんだよ。遠野くんの言うとおり。私も遙も、すごく、さびしいけど」

   遠野くんが郁ちゃんを守りたいっていう気持ちは、とてもよく分かる。遙を遠ざけたくなる気持ちも、私は遙が郁ちゃんを置いていってしまうときを一緒に過ごして見ていたから、よく分かる。郁ちゃんの話だけを聞いていた遠野くんならなおさら、郁ちゃんの味方になりたいってきっと思う。
   私はあのときの遙に起きた出来事も、遙の気持ちももう知ってしまったから、あのときの遙の気持ちをなかったことなんてもう出来ないけれど。

「でもそうじゃないから、郁ちゃんは今しんどいんだよね。これからも大会ではきっと会うだろうし、その度に郁ちゃんが苦しい思いをするなんて嫌だから、郁ちゃんに嫌われてでも、郁ちゃんのこと助けたいって思っちゃう」
「……」
「だから遠野くんがいてくれてよかった。郁ちゃんのこと、絶対にひとりにしないでくれて、ありがとう」
「…っ、君に言われなくても…」

   くしゃりと顔を歪ませた遠野くんがぼそりとなにかを呟いた。上手く聞き取れなくて「え?」と聞き返すと、その歪ませた顔の上にいつもの冷たい笑顔を貼り付けられてしまった。

「その態度、虚勢張ってるつもり?」
「えっ」
「僕はもう行くよ」

   虚勢を張ってるとは。この前言われたことを気にしてないのかと言いたいのだろうか。もっともっと遠野くんとも話してみれば、いろんな表情が見れるのかとも思ったんだけど。なにかきっかけがあって、仲良く出来ればいいのに。あ、私もそろそろ戻らなくちゃ。個人メドレーがアナウンスされたのを聞いて足早に観客席へ戻った。

「遅いよナマエ〜!」
「ハルと郁弥のコンメ始まっちゃうよ」
「うわ、ごめん!間に合ってよかった!」

   貴澄くんと真琴くんに急かされながら先ほど座っていた席に腰掛ける。既にスタート台の上で選手たちがスタンバイを完了しており、その中には遙と郁ちゃんが並んでいた。あそこは遙が郁ちゃんとの約束を果たすために選んだ場所。

『 Take yout mark 』

   きゅっと両手を絡ませて祈るように胸元で握りしめる。二人が怪我をしませんように。無理をしませんように。それから何より一番は、今日も。

「郁ちゃんが楽しく泳げますように」

   小さく紡いだ途端、ピッと電子音が鳴り、選手が一斉に水の中へダイブする。コーチの特訓の成果か、遙のバタフライもエントリーしないのがもったいないくらい綺麗な泳ぎ。しかし隣のレーンの郁ちゃんは、なんだか少しもがいてるように見えた。
   バックになっても郁ちゃんの辛そうな泳ぎは変わらない。頑張れ、頑張れ、と小さく何度も呟く。郁ちゃんが専門にしていたブレに差し掛かる。次第に、だんだんと、その泳ぎから重みが抜けていく。泳ぐところを初めて見たあの大会の日の郁ちゃんと今の郁ちゃんが重なった。

「二人ともーーー!!」

   真琴くんが声をあげたのを聞いて、ばっと前の席を飛び越えて、一目散に一番前を目指す。何度ここまでの短い距離を走っただろう。声を郁ちゃんに届けたくて、一番近い場所で届けたくて、こんなことしか出来なくて。

「郁ちゃん!頑張れ!頑張れ、郁弥ーーーっ!!」

   郁ちゃんと遙が順に壁に手をついて、歓声が湧き上がる。その後ろを追いかけるようにほかの選手も次々にゴールしていく。試合を終えてもなかなか水から上がらない二人から目が離せずにいると、郁ちゃんが遙に飛びついたのが映った。じんわりと目頭が熱くなる。二人の姿に私は惜しみない拍手を送った。

「郁ちゃん!」

   退場していく郁ちゃんに、ダメ元で観客席から声をかける。ざわつく会場の中から私の声を拾ってくれた郁ちゃんが顔をあげて、ぱちんと目が合った。郁ちゃんの瞳がゆらゆらと揺れているのがうっすらと分かる。再会して以来ずっと抱えていた暗さが、郁ちゃんからもう感じられない。

「やったね郁ちゃん!かっこよかったよ!いちばん!」

   ピースサインを作って、めいいっぱい身を乗り出して腕を伸ばす。一瞬だけ驚いた顔をした郁ちゃんは、やんわりと静かに笑って見せてくれた。やっと向けられた笑顔に、熱いものが胸いっぱいに広がっていく。

   おかえりなさい、郁ちゃん。


  

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