羨ましかった


   すっかり辺りがオレンジ色に染まっている。燈鷹大学の水泳部の皆さんが解散の合図で散らばったところで声をかけた。

「遙、椎名くんお疲れさま!二人とも全日本選抜出場おめでとう!」
「ああ」
「サンキューミョウジ!ま、俺はまだ試合残ってるけどな」
「次も応援にくるよ!ね、真琴くん!」
「もちろん。頑張ってね旭」
「おう!」
「遙の個人メドレーもすっごくよかったよ!今日で終わりなんて、もったいない気もしちゃうね」
「これでいい。目的はもう果たした」
「……ふふ、そうだね」

   目的、という言葉に頬がゆるりと緩んでしまう。それは遙も同じようで、ぴんと張り詰めていた緊張の糸が解けたような、そんな表情をしている。個人メドレーの試合後に遙たちは少し郁ちゃんとも話が出来たそう。その後のフリーリレーでも郁ちゃんの泳ぎにもう迷いは見られなかった。やっぱり、ハルちゃんはすごい。

「よお、お前らお疲れ!」

   そんなことを考えていると背後から明るい声がした。つられて振り返ると誰かが「夏也先輩!」と名前を呼ぶ。記憶からその名前を手繰り寄せて、思い出した。確か夏也先輩って。

「ん?……まさか、遙の彼女か?」
「なんかこの光景にデジャヴを感じる」
「旭がこの前自分で言ったんでしょ〜?」

   椎名くんの言葉に貴澄くんがくすくすと笑っている。椎名くんといい遙のコーチといい夏也先輩といい、何故ほかにも男性がいる場にも関わらず遙の彼女疑惑をかけるのだろう。

「中学で郁ちゃんと同じクラスだったミョウジナマエです。お久しぶりです夏也先輩」
「ナマエって……ああ!郁弥と一番仲が良かった女の子か!久しぶりだな」

   どうやら夏也先輩も私を覚えてくれていたらしい。当時、郁ちゃんと一番仲の良い女の子である自信はあったけれど、お兄さん公認だと改めて実感すると嬉しさが込み上げてくる。
   記憶の中の夏也先輩は、郁ちゃんのことをとても大切にしていて明るく力強い人物像だが、今もその快活さは健在らしい。そのたくましい腕が伸びてきた、と感知したときには頭をぽんぽんとされていた。

「美人になったなナマエ!」
「……ちょっと兄貴。ナマエにセクハラするのやめてよ」

   背後からの声、再び。今度は声と呼び方で相手が誰なのか振り向かなくてもすぐに分かった。

「セクハラじゃねえって。嫌だったか?」
「あ、いえ!全然大丈夫です!」
「はは!そっかそっか!じゃあ俺帰るわ。またなみんな。ナマエも」

   去り際さえも明るい夏也先輩が輪を外れていき、みんなが口々に挨拶をしていく。私も「お気をつけて!」と声を投げていると、夏也先輩と代わりばんこで郁ちゃんが少しだけむすりとした顔をして輪の中に入ってきた。どうやら遠野くんは一緒じゃないみたい。
   椎名くんと真琴くん、遙、それから郁ちゃんの岩鳶中時代の水泳部四人組が久しぶりに肩を並べたのを見て、目の前がきらめいたような、そんな気分になった。

「ナマエ、一緒に飲み物買いにいかない?」

   ひょこっと顔を覗かせてきた貴澄くんに誘われる。一瞬考えて、すぐに貴澄くんの思惑に気がついた。分かってからは迷わずに「うん、行こっか!」と返事をする。四人はきっと積もる話も、話したいこともきっと一日じゃ足りないくらいあるに違いない。
   貴澄くんは立ち回りの巧さは争い事を上手に避けるだけに留まらないということは昔からよく知っている。会場外の自動販売機で飲み物を調達していると、本日二度目の知っているその顔に遭遇した。

「つまんないって顔してるね」

   その顔、遠野くんに声をかけたのは私ではなくて貴澄くんのほう。私たちの登場に特に驚ける様子を見せない遠野くんは優しい声を紡いだ。

「いや……僕は郁弥の一面しか見てなかったんだなって」

   どこか清々しそうに、それでもどこか寂しさを残すように。ソーダ越しに夕焼けを覗きながらぽつりと呟く遠野くんにつられて茜色の空を見上げた。

「私は郁ちゃんを守ろうとする遠野くんのこと、すごいなって思ったよ」

   遠野くんの呟きに対する素直な感想を口にすると、眼鏡越しの瞳がまあるく開かれる。

「それにずるいよ遠野くんは。私が知らない郁ちゃんのことたくさん知ってるんだもん」

   驚いている彼に構うことなくそのまま続けた。だって本当にずるいんだ、遠野くんは。中学一年のときの郁ちゃんは、私の前では遙たちとのことをそこまで気にしてないっていう顔しかしなかったのに。本当はどこかで気にして、引っかかって、辛いと感じて、最終的には忘れたいとさえ思って。今の郁ちゃんになるまでの葛藤も努力も、遠野くんは全部知っている。元々は私が一番隣で応援していたのに。

「それはこれから知っていけばいいんじゃない?郁弥もナマエも、お互いに。もちろん遠野くんも。あ、僕もね?」

   もんもんとしながら口を尖らせていると貴澄くんがにこやかにそう言った。これから、という言葉に嫉妬まみれの心がふわりと軽くなる。そうだ、これからの郁ちゃんを応援すると言ったのは私だった。

「君、なかなかいいこと言うね」
「でしょ?」
「……むしろ僕は、ミョウジさんが結構羨ましかったけどな」
「え?どうして?」

   羨ましがっていたのは私のほうだというのに。理由が分からずに疑問を投げかけると、一度こちらを見た遠野くんと目が合った。眼鏡の向こうの瞳がふわりと優しい色をしている。けどすぐにその目は逸らされてしまった。

「郁弥は入院中に何度も君の手紙を読み返してたからさ。その度に安心した顔してたしね」
「そうなの?」
「そうだよ。隣にいたのは僕なのに、郁弥を励ませていたのは君なんだから、ずるいと思って当然だろ?」
「……けど、途中から返事は来なくなっちゃったよ」
「…んー…いつだったか、郁弥の部屋に遊びに行ったとき、途中まで書いて捨ててあったエアメールが何通もあった。郁弥は何度も君に返事を出そうとしてたんじゃないかな」

   これ以上は直接確認してごらんよ、と。そう続けた遠野くんはついこの間まであんな冷たいことを言ってきた人とは思えない。こんなに優しい顔と声が出来る人なんだって、今やっと初めて知った。郁ちゃんと二人で遊んでるときなんかは、いつもこんなに穏やかな顔をしていたのかな。さっき貴澄くんが言ったように、これから遠野くんのことも知っていく機会があるといい。

「あ、僕は鴫野貴澄。遠野くん、一緒にバスケサークル入らない?」

   思い出したように貴澄くんが自己紹介がてらバスケに誘い出す。なんだか懐かしいその台詞にくすりと笑うと、遠野くんも「考えておくよ」と柔らかく口元を上げた。

「じゃあお試しで今度やらない?ナマエも一緒にどう?」
「うん、楽しそう!やるやる!」

「おーいミョウジー!写真撮ってくれよー!」

   遠くで椎名くんに名前を呼ばれる。呼ばれたほうを向くと話がひと段落らしい四人がこちらを見ていた。駆け寄る途中でふと郁ちゃんと目が合う。何故だかどきりと胸が高鳴ったことに不思議な違和感を覚えたけれど、今は気にしないでおいた。

「写真?」
「ああ。せっかくリレーメンバー四人揃ったんだから、記念にな。ハルはもうすぐ合宿に出ちまうし」
「わかった!まかせて!」

   早速スマホのカメラを向けると、椎名くんがたくましくなった腕を、遙を巻き込みながら真琴くんの肩へと回し、もう片方の腕を郁ちゃんに回す。満面の笑みの椎名くんと真琴くんに対して、遙と郁ちゃんは眉を下げて微笑んだ。
   かしゃり。スマホからシャッター音が鳴る。特に合図をせずに写したその姿は椎名くんのお姉さんのお店に飾られているものと酷似していた。それがこんなにも嬉しいだなんて。じわりと感動の波が瞼まで押し寄せてくるのをぐっと堪えた。

「あとでみんなに送るね」
「おう!サンキューな!」
「もう暗くなるし、今日のところは帰ろうか」
「おお、そうだな」

   もうそんな時間か、と空を見上げる。ほんの数分前には残っていたオレンジ色がすっかり鳴りを顰めていた。名残惜しいような、今起きていることが夢ではないのだとまだ実感していたいような、不思議な気持ちだ。

「ナマエ、帰るぞ」

   顔を覗かせてきたのは遙だった。真琴くんがいつも気遣ってくれるのが伝染していたのか、いつからか遙は帰りが遅くなると決まってこうして言ってくれる。無表情からは読み取りづらい優しさに頬を緩めた。

「ありがとう遙。けど大丈夫だよ。貴澄くんが車で送ってくれるって、来るとき言っ」
「そうだナマエ、今日は郁弥に送ってもらったら?」
「へ?」
「え?」

   遙への言葉を最後まで言い切る前に貴澄くんに遮られてしまう。きょとんとしたのは私だけではないようで、郁ちゃんも短く言葉を落としている。

「借りてきた車五人乗りで二人乗れないんだよね。どうかな郁弥?疲れてるなら無理にとは言わないけど」
「や、僕は…構わないけど…」
「いやでも、男五人敷き詰めて乗るくらいなら送ってもわらなくても、いって!!」

   椎名くんが話の途中で痛みを訴える。こちらからはよく見えないが、確実に貴澄くんの腕が勢いよく椎名くんの背中に直撃したように見えた。

「はいはい、旭行くよー」
「は?ちょっ、待て、貴澄」
「じゃあ二人とも気をつけてね」
「またね郁弥、ミョウジさん」
「郁弥、ナマエを頼む。またな」

   ずるずると引きずられるように連れて行かれる椎名くんに続いて真琴くん、遠野くん、遙が順番に別れを告げて去っていく。まるで取り残されるようにぽつんと立ち尽くす私と郁ちゃん。ちらりと横目で見ると、ぱちりと目が合った。

「……気を遣わせちゃったかな」
「貴澄くんはそうゆうの上手だからね〜」
「本当にね。そうゆうところは変わらないな、みんな」
「そんなの、郁ちゃんもだよ」

   郁ちゃんもどうやら貴澄くんの粋な計らいには気づいていたらしい。みんな昔のままじゃないとは言ったけれど、優しいところ、可愛いところ、根っこにずっとあるものは今も昔も変わらない。わざわざ説明しなくたって伝わっているらしい郁ちゃんはふわりと目を細めた。

「帰ろっか」
「……うん!」

   中学一年のとき、部活が休みの日や部活の終わる時間が被った日はよく郁ちゃんと帰っていた。足を進めた後ろ姿が記憶の中の郁ちゃんと重なって見える。さっき堪えたものがまた瞼に押し寄せてきたのを、精一杯笑って我慢した。


  

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