此処がお花畑でない理由



梅は睫毛をしぱしぱと扇いで隣の兄を伺う。相変わらず痩けた頬や怨みがましい目元が兄らしく、けれど彼もまたどうしたら良いのか分かりかねている風だった。なので。梅はいつも通り、思うがままに。生前でも口に出来なかったであろうソレを手掴みで口に押し込んだ。


「おい、待て」
「あまぁい! お兄ちゃぁん、甘いよこれ!」
「まだ食っていいとは言ってねぇだろ」
「だってお兄ちゃん、食っちゃダメとも言わなかったもん!」
「あーあーまったくよぉ、綺麗な顔が台無しじゃねぇか……」
「アタシの顔はいつだって綺麗よ!」
「そうだなぁ、梅は誰よりも綺麗な女だ」


兄が、妓夫太郎が腕に巻き付いた帯で梅の頬を拭う。白いクリームが取れたそばから梅がまた付けていくので、妓夫太郎の帯に甘ったるい匂いが染み付いてしまった。


「シフォンケーキ、まだ余ってるけど食べますか?」
「食べる! ちょうだいちょうだい!」
「梅!」
「だってお兄ちゃん、くれるものは全部もらわないと!」
「お前には警戒心ってもんがねぇんだ」
「それはお兄ちゃんがやってくれるでしょ?」


兄を疑いもしない梅に、呆れと心地よさが同時に湧く妓夫太郎。しかし、そうは言っても現在地が未知数すぎた。

何せここは地獄でも出口でもないのだから。

鬼狩りに頸を斬られ地獄への暗い道を歩み始めた二人。熱い炎の点在する闇の中、その屋敷は異質なほど静謐に二人の目の前に現れた。

白い塗料で塗られた壁に青い瓦の不思議な家。西洋の様式を取り入れた和洋折衷な館であることは二人の知識では預かり知らない。好奇心旺盛な梅が兄を急かし、宥める兄が踵を返そうとしたその時。硝子を嵌め込んだ青い扉が内側から開かれた。

扉を開けたのは、目の前にいる凡庸な女だった。


「喉が詰まりますね。紅茶のお代わりはいかがですか」


そう言って女が陶器の急須のような物を持ち上げる。しかし、「あっ」ガチャン。どこをどう間違ったのか女は手を滑らし、急須は女の足の上に落下して、割れた。赤茶色の液体はまだ熱く湯気立っており、女の足の肌が見えている部分が見る見る内に赤くなる。だが、それは少し間を置くとすぐに元の白い滑らかな肌に逆戻りした、


「あんた、鬼なの?」
「おに? ああ、いえいえ、私は地獄の獄卒ではなく、あなた方と同じ死人に違いありませんよ」
「ふぅん。じゃあなんでソレ治ったのさ」
「死人ですので」
「なんだそりゃァ」


答える気があるのか。そう妓夫太郎がギロリと睨む。女は苦笑をこぼして急須の破片を拾い出した。


「ここに来る方をおもてなしするように言われたんです。それが終わるまで、十全な体でいなきゃいけないんでしょうね」


拾った破片を台所へ持っていった女は、新しく湯を沸かしているらしい。ものの数分で戻って来ると、砂時計をひっくり返して卓上に置いた。


「なんで俺らがもてなされなきゃいけないんだ」
「そうですね、恐らくは望まれたのでしょうか」
「は?」
「誰か一人でも、生者に安らかな眠りを望まれた方がここに来るのだと聞きました」
「誰に」
「神様に」
「ハッ」


鼻で笑った妓夫太郎だったが、脳裏には一人だけ思い当たる人間がいた。


『仲良くしよう。この世でたった二人の兄妹なんだから』


花札のような耳飾りが、頭の上で揺れて──

妓夫太郎は何だか面白くなくなって、自分の皿に盛られた物を手掴みで頬張った。生前、人間だった時には感じたことのない強烈な味。舌の上で重ったるく残るそれを、梅は何と言ったか。そう、確か。


「甘い」
「でしょ! 甘いでしょ、お兄ちゃん!」


人間に戻った梅が幼く笑う。まだ頬には拭いきれていないクリームが残っていた。


「そういえば、“美味い”の語源は“甘い”だったという説がありますね」
「だから、なんだよ」
「いいえ、特には。ただ、美味しいと思えることって幸せだと思うんですよ」


サラサラと砂時計の砂が下に落ちきる。今度こそ落とさないように慎重に持ち上げた女が梅と妓夫太郎の杯に紅茶を注いだ。とぽとぽとぽ。紅茶の甘い香りが辺りに満ち、痩せ細った妓夫太郎と興奮した梅の体を優しく宥めた。

もう一口、手に残った塊に食いつく。


「……美味ぇ」


それは、美しい妹が生まれてきたことを除いて。妓夫太郎が初めて奪うことなく手に入れられた何かだった。


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