ラストシーンに始まりの唄を



「アマデウスゥウウウウウウ!!!!」


シャドウ・ボーダー内に地獄のような雄叫びが響く。それを皮切りにスタッフ一同は我先にと自室に退避し、ホームズとダ・ヴィンチは種類の違う笑みを浮かべ、ゴルドルフはお決まりの名前を叫んだ。


「藤丸立香ァ!!!!」
「いってきます!!」
「お供します先輩!!」


脱兎のごとく走り出したマスター、藤丸立香と後輩、マシュ・キリエライト。行先は雄叫びの音源。それほど広くはない艦内を虱潰しに見て回ればすぐに豊かな金髪とぶち当たる。音楽家にあるまじき綺麗なフォームで飛び込んできたヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。続いてその背後から赤い復讐者がすぐそこまで来ていた。


「やあマスター! いつものよろしく頼むよ!」
「はいはい! マシュ、もしもの時はよろしく!」
「了解です!」
「……サリエリッ!!」


アマデウスが走り抜けると同時に二人の間にその身を滑り込ませた。アマデウスに似た仮面と鋭く尖った爪が迫る。それがマスターたる少女を視界に入れた途端、見えない壁に阻まれたように一時停止した。

立香は大きく両手両足を広げ、腰を落とし、さながら森の中で熊に出会った一般人のようにじりじりと動く。違うのは立香の表情が普段通り朗らかであることと、熊に自ら近づいて行っていることだ。


「ア、アアア、ァ」
「私! マスター! サリエリのマスター!」
「ァマ、ァ、」


止まったまま何やら呻き出すサリエリ。それを尻目にとうとう立香は彼の目と鼻の先まで辿り着く。そして、何の躊躇いもなく目の前の腰に抱き付いた。


「捕まえた!」
「ッッッッッッッッ!!!!!?」


瞬間、彼の外郭を構成していた赤が煙のようにするりと解け、中から一人の男が姿を現す。灰色の男。アントニオ・サリエリ。神に愛された男を殺した者としての風評が姿を得た怪物。

その怪物が今、マスターに……年頃の少女に、全身を押し付ける形で抱きしめられ尋常じゃなく震え出す。品のいいストライプスーツに包まれた長身。壮年期に突入して長い一端の男に起こった異変。

そこに存在するのは、見える肌すべてを真っ赤に染め上げた初な男だった。



***



地球は漂白された。無人の大地へと作り変えられた。汎人類史は誤りであったと棄却され、複数の剪定事象からの叛逆、異聞帯の侵攻により立香たちの人類史は揺らぎの中を漂っている。

だからこそ、その異変は起こってしまった。


「なにこれ?」


異聞帯ロシアを後にして数日。縁を結んだサーヴァント、アントニオ・サリエリの召喚に成功した立香とマシュ、ダ・ヴィンチが新しい仲間の性能を見ようとマテリアルを開いていた時だった。

スキル項目の一番上。サリエリが自己申告したようにそこには『無辜の怪物』の文字が記されている。サリエリがアマデウスの才能に嫉妬して彼を殺したのだろうという醜聞が形となって彼を構成している証し。異聞帯ロシアで助けられた彼を知っているために立香は神妙な面持ちでそれを見ていた。

『無辜の怪物』の文字の隣にそれを見つけるまでは。

『無辜の怪物 (初)』


「カッコはつ?」
「先輩?」
「マシュ、ダ・ヴィンチちゃん、これなに?」
「うん? どれどれ……“puro”?」
「“pure”?」


魔術による翻訳が施されたマテリアルは見る者によって言語が変わって見える。同じ文を見ていても、とっさに出るのはそれぞれ使い慣れた言語だ。今回の場合、立香が聞き取れたのは“ピューロ”“ピュア”。ダ・ヴィンチのはともかく、マシュの発言で立香の頭の中に一つの可能性が浮かび上がる。


「……もしかしてコレ、“はつ”じゃなくて“うぶ”って読む?」


答え合わせはその日の内に起きた。

召喚したてのサーヴァントはマスターと絆を深めるためにマイルームにいることが多い。そのことをうっかり忘れていた立香は種火周回帰りにアマデウスを伴ってマイルームに入ってしまった。瞬時に赤い礼装を纏ったサリエリ。すわ乱闘か殺し合いか、ととっさにサリエリを制止するために抱き付いた立香。令呪を使用するべきかと苦慮している途中で、アマデウスの目が宇宙を垣間見た猫のように丸まったのを見た。

なんだなんだとギョッとした立香であったが、抱き付いている存在が無言で礼装を解いたのにもっと驚いた。


「サリエリ?」
「ッ!!」


見上げた先で、さっきまで一度も合わなかった視線が絡む。

見つめること数秒。瞬間、ハーフアップの髪の隙間から赤くなった耳が目に入った。「え」っと声を上げたところで耳から伝染して目元、頬、顔全体に広がり、ついには首筋までサリエリの肌という肌が赤く染まり切る。


「キミ、照れてるのかい?」
「ッア、アマッ、ぁ、ッ!!」


アマデウスの発音も危うい舌のもつれようだった。

サリエリはハクハクと口を開け閉めしている。真っ赤になってアマデウスに向かって吠えようとしている様子はただ怒っているようだったが、それにしては弱々しい。ではこの震えは怒りではなく、アマデウスの言う照れなのだろうか。

呆然としたまま、立香は無意識にサリエリに抱き付く力を強める。「ひっ」ギザギザ歯の隙間から短い悲鳴が漏れた。


「マスター、貴様、」
「な、なに?」
「腰に、ぁ、ったって」
「大きいおっぱいが当たって最高だってさ」
「アマデウスッ!!!!」


必死のサリエリに対してアマデウスの顔は余裕そのもの。むしろいつも以上に口の端が吊り上がり、今にも腹を抱えて笑い出しそうな雰囲気だ。こんな時でもマスターは冷静に状況を分析した。正解だった。


「サリエリ、キミ、そんな奴だったっけか?」
「我は、サリエリでは、ッ!? マスター! 離れろ!」
「えっ、あっ、ごめん?」


パッと身を離すと、サリエリは真っ赤な顔のまま俯いて熱い息を吐き出す。身長差のせいで俯いた方が立香から彼の表情が良く見えた。

あまりにも目に毒な赤さだった。

立香は今まで数多のサーヴァントと契約し共に戦ってきた。その中にはサリエリと同じ年頃の男性もいたが、ここまであからさまに照れを前面に押し出す者はいなかった。


「さ、サリエリ? サリエリさん? 大丈夫?」
「あ、ああ、我、わたしは、」


上目で見やった先、鮮やかな赤い瞳が方々に行ったり来たりを繰り返し、ようやっと再び目が合った時、彼の瞳孔が恐ろしいほどに引き絞られる。

あ、と。口が開くより先に逃げ出してしまったサリエリ。

入れ替わりで駆け付けたマシュたちは、呆然と立ち尽くす立香と腹を抱えて笑うアマデウスに困惑した。


「やっぱりコレしかないよね」


ダ・ヴィンチがマテリアルのスキル画面を指差す。

召喚時から変わらずある『無辜の怪物(初)』の文字。


「(初)って何なんだろう」
「(偽)とか(毒)なら見たことがありますが……」
「(夏)とかね」


うーんと首をひねる先輩後輩コンビ。

その様子を片眉を上げて眺めていた名探偵ホームズ。手の内のパイプを一度弄び、悩める少女たちへ的確に真実への道筋を提示した。


「先日我々が遭遇したミスター・サリエリは異聞帯で召喚されたために実際の霊基とは人格が異なっていることは予測できた。もちろんミスター・モーツァルトの記憶の彼とも一致しないこともね。『無辜の怪物』の特異性から鑑みれば順当な結果だが、今回のケースはスキル特性を加味したとしても様子がおかしい。……ここで我々が追究すべきことは、何故彼があのようにマスターに対して挙動不審になってしまったのか、だ」
「立香ちゃん、君のサリエリのイメージってどんな感じ?」
「アマデウス絶対殺すマン?」
「真面目に」
「ハイ」


うーんと腕を組んだ立香。

つっかえつっかえ自分の印象を話していく途中で、真実は突然に飛び出した。


「女性に不慣れ?」
「「それだ」」


ホームズとダ・ヴィンチの声が重なる。


「それ異聞帯のサリエリに会う前から思ってた?」
「う、うん」
「何故? 慣れ不慣れはともかく、生前の彼は結婚して子供もいたはずだが?」
「えっ」
「「“えっ”?」」


食いつく二人。手に汗握るマシュ。

気まずそうに指を弄りながら小声で、それでもはっきりと、その単語を衆人環視の元言わされる羞恥を立香は味わった。


『僕の知り合いにサリエリって奴がいてさあ。まあ話が合わないんだよ。誤解とか勘違いとかいろいろ面倒だったのも確かだけど、なんてったってアイツは──』

「……童貞だって、アマデウスが言ってた」
「アマデウスこの野郎ォ!!!!!!!」


汎人類史は棄却された。

地球は漂白され、人類はほぼ滅亡。生きている人間も異聞帯に侵攻されたこの地ではどの歴史の人類かあやふやだ。ひどく曖昧な存在として世界から認識されづらい。ゆえに、便宜上、間違いなく汎人類史の人間だと断じられるのがシャドウ・ボーダー内に存在する十余名だけとなる。

十余名の人類。

たった一人の思い込みでも致命的な影響を及ぼす。

加えて今回は人理があやふやな上に風評の大元が召喚者たるマスター、とくればその影響力は計り知れない。もともと『無辜の怪物』を常時身に纏っているに等しい、ゆえに霊基が不安定なサリエリは見事にその不名誉なスキルを獲得してしまったのだ。

持つ者の女性耐性をマイナスにするスキル『無辜の怪物(初)』。

元来の『無辜の怪物』に雑コラ的に移植された(初)を解除する。それが立香の当面の任務になった。



***



「アマデウスったら、こういう時だけマスター呼びするんだよね。調子のいい奴」


立香によって一時的にマイルームに引き取られたサリエリ。部屋の隅で立ち尽くす彼はスタイリッシュなスーツも相まってショーケースの中のマネキンのようだ。改めてカッコいいスーツだという感想が湧くが、立香が座って話をするには首が疲れる。

以前に無理やり引っ張って椅子に座らせた時は逃げられたので、今度はサリエリをベッドに、立香は椅子に座って話をすることにした。

サリエリを召喚して一週間経った。その間にしたことと言えばマシュやダ・ヴィンチちゃん、女性スタッフ、女性サーヴァントなど、いろんな女性と一緒に仕事をしてもらい、女性との距離を測ってもらうことだ。これは概ね快方に向かっていると言っていいい。たかが一週間と侮ることなかれ。すぐに逃げ出したり戦闘中に礼装が着脱事故を起こしたりしていた彼が、近づいたり目を合わせたりしなければ立香たちが知るあのサリエリと同じ態度を取れるようになったのだ。十分な進歩だった。

問題は、サリエリが一向にマスターたる立香に慣れないことだった。

マイルームには自主的に来るし大人しくはあるが、会話がいつもたどたどしい。独り言はなく無口。目が合わない。ボディタッチなどもっての外。逆に考えれば、アマデウス絶対殺すモード時には抱き付けば止まってくれるメリットがあるが。

あれ、それはそれで便利なのでは?

と能天気に考えた立香にダ・ヴィンチは首を振った。今現在のサリエリには致命的なデバフが生じていたのだから。


「戦闘はどんな感じ?」
「ッ、や、はり、違和感はある、な」
「そっかーやっぱりダメかー」


『無辜の怪物』とは人々の風評によってサーヴァントの在り方を歪めてしまうスキルであるが、本来は持ちえない力を得る可能性を秘めたスキルでもある。生前音楽家であったサリエリが戦闘に難なく参加できるのは『無辜の怪物』ありきだと言っても過言ではない。そのスキルが歪められているのだから、戦闘に支障が出るのは当然の帰結であった。

『無辜の怪物』は本来外せないスキルである。今を生きる人間だけではなく昔生きていた人間の分も含め、人類史に存在する幾多の人間の風評、信仰、呪いの集合体だ。簡単に外せるわけがない。

しかし、現在の人類は暫定十余名。風評の大元は立香一人。現にこの一週間でマテリアルの『(初)』はたびたび消えかけて戻ることを繰り返しているという。

できない任務ではない。外せないのは、立香の努力が足りないからだ。


「でもなー」


ベッドに座るサリエリを見やる。見られていると分かったサリエリが忌々し気な顔にサッと朱を足した。

素人モノのエーヴィーでこういうのありそう。

四十路の童貞(冤罪)を見下ろして童貞のような思考が浮かんだ。

もともと、立香もそこまで真剣にサリエリを童貞だと思っていたわけではない。アマデウスの軽口を何となく覚えていて、それを思い出したのが異聞帯ロシアだっただけのこと。イヴァン雷帝打倒のために奮闘したサリエリがマシュ相手に少しばかり照れていたからだ。「可憐なお嬢さん」「盾にサインでもしようか」照れつつ的外れなことを言う彼を見て、「そういえば」とどうでもいいことを思い出した。なるほどソレっぽい、と。

そんなちょっとした思い込みが今は本気になりかけている。召喚してから接した彼があまりにも可愛らしかったからだ。

立香が少しでも目をやれば頬を染め、手を触れれば肩をビクつかせ、キャパシティーを超えた行動を取ると水に触れた猫のように飛び上がって走り出す。子ギルやアレキサンダーのような見た目ならともかく、四十路の酸いも甘いも知り尽くしたカッコいい男性が。立香のような小娘の一挙手一投足に全力で反応を示してくる。

正直に言うと、ときめいた。

一年間、人理を修復するために走った。
一年間、取り戻した今を守るために走った。
そして今、未来を取り戻すために走っている。

その間、恋も愛も姿かたち臭いすら感じられなかった。今もそんな余裕はないはず、なのに。不謹慎にも立香がサリエリの初な反応に癒しを感じてしまっている。

みんな困っているのに、立香がどうにかしなければ彼はサーヴァントとしての存在意義が危ういのに。


「外国だと、才能は神様からの贈り物だから才能のある人は神様から愛されている、って考え方なんだよね」


マイルームでサーヴァントとの絆を深めるために会話は必須だ。今まで何度となく初対面のサーヴァントたちと会話してきた。だから気が緩んでいたのだろう。

今日は何を話そうかと、話題を探して失敗した。先ほどの爽やかすぎて逆にムカつくアマデウスの顔を思い出し、よく考えずに失言してしまった。アマデウスを連想させる物はできるだけ排するべきだったのに。

今さら出した話題を引っ込めるわけにもいかず、笑顔を保ったまま相手の出方を伺う。サリエリはいつも通り、落ち着きなく貧乏ゆすりしながらも重く口を開いた。


「……外国、の範囲が広すぎる」
「あ、確かに。じゃあ、イタリア? オーストリア? フランスではどうだったの?」
「…………サリエリ、は、」


礼装を纏っていないサリエリの口から、サリエリの名前が出るのは久しぶりだった。

ヒヤリとした汗が立香の背筋を這う。


「サリエリは神を信じていた。常日頃から神に忠実に生きようとした。その姿は確かに修道士に似ているやもしれん。清いままであると邪推した者もいるにはいただろう」
「あ、あはは……すいません……」


『アマデウスの冗談を真に受けた私のせいです』とは死んでも言えない。

立香はつぶさに相手の動向を観察する。腰はいつでも立ち上がれるように半ば椅子から浮いている。嫌な予感に従ったその準備は無駄にはならなかった。

サリエリの口から熱い吐息が吹き出す。貧乏ゆすりが徐々に治まり、代わりに硬く握り込まれた拳から手袋が擦り切れる音がした。


「だが、神は……あそこまで忠実に生きたサリエリよりも、あの男を愛した。一等良い贈り物を奴に貢いだ。サリエリが与えられたのは、その贈り物がどれだけ価値があるか推し量れるだけの才能。尽した者が尽くさぬ者に劣る虚しさ。憤り。悲哀。憎しみ。サリエリは神を見放した。それでも、だが、」
「サ、サリエリ?」
「いや、いや、いいや! サリエリは、それほど信仰の厚い男だっただろうか。サリエリは、アマデウスを憎んではいなかった。尊敬していた。讃えていた。愛してさえいた! ではこの殺意はなんだ、憎い、殺さねば、神に愛されたあの男を殺すのだ、殺すために我は在る! では、では、」


普段のサリエリは照れと戸惑いで吃音混じりの早口の場合が多い。逆に言えば、本来のサリエリは地獄の底から響いてくるような重厚でおどろおどろしい話口をしている。今のサリエリはまさに地獄の使者、死の権化を思わせる狂気が垣間見える。


「我は、誰なのだ……?」


赤い目が丸く絞られる。

無辜の怪物が歪められたがゆえに一時的な精神の安定さを手に入れたアヴェンジャー、アントニオ・サリエリ。ひび割れた精神こそが彼のサーヴァントとしてのアイデンティティであり、生前の安定した精神は偽物だ。

自分がサリエリであることを疑わない彼は……マスターの制止で簡単にアマデウスの殺戮を止める彼は、立香が歪めたサリエリでしかないのだ。


「サリエリ、聞いて」
「我はサリエリではない」


今の彼にサリエリと呼びかけてもまともな返事が来るとは思えない。

苦肉の策として立香は彼の手を取った。生き物の温度が急速に失われていく。サリエリが死そのものへと変じていく感触に恐怖が湧いた。


「サリエリ!」
「我はサリエリではないのだ」


声音も表情も変わりない。

変わったのは、彼の体に赤い礼装が纏わりついたことだ。サリエリの端正な、それでいて苦悩を滲ませる顔の周りに白い牙のような仮面が現れ始める。

手を取っても何も変わらない。もっと接触しなければならない。慌てて伸ばした手が頬に触れる前に、サリエリの顔は無辜の怪物によって覆い隠された。いや、その仮面は今まで見てきた礼装とは似て非なるものだ。本物の怪物が呼び起こされてしまっのだ。


「ゴットリープ……モーツァルト……」


その囁きは召喚以来聞くことのなかったアマデウスへの呪詛。裂けた口から覗く腔内は血反吐を吐いた後のように赤い。

立香が衝撃から我に帰るのは早かった。土壇場の機転など今まで何度となく求められてきたことであったから。


「サリエリ、ごめん!」


怪物の大きな口の、ギリギリ端につくかつかないかの場所に唇を押し付ける。キスと言うにはあまりのも色気がなく突発的な接触であったが、サリエリの動きを止めるには十分な暴挙であった。

その隙を逃してはいけない。

両頬を両手で挟み、怪物と真っ向から向き合う。白い牙のような仮面の隙間から赤い光がボウボウと仄かに点滅する。まだサリエリの理性が残っている証拠だと立香は判断した。

理性と衝動の混濁。なまじ本来の無辜の怪物に奇妙なスキルが上書きされてしまったがゆえに、サリエリは必要以上に混濁してしまっている。サリエリとしての理性と無辜の怪物としての殺戮衝動、忘却補正の変動で彼は苦しんでいる。

苦しんでいるのを、立香はこの時初めて目の当たりにして、実感した。

何が可愛らしいだ。癒しだ。人が……サーヴァントが苦しんでいる様を見て笑っていたなんて、冗談ではない。自分の想像力の無さに絶望しかけた。

早く、あのスキルを払拭しなければ。


「サリエリ、これは提案なんだけど」


これは背信だ。
道徳に悖る行為だ。

それでも立香は心のどこかでこうなるかもしれない可能性を知っていた。自己犠牲ではなく、いざとなったらやらなければいけない覚悟は準備していた。

人理修復に走ったあの時も、人理安定に走ったあの時も。決めた覚悟が無駄になっただけで、いつだってその可能性は十分に考えていたのだ。

手っ取り早くサリエリが童貞であるという思い込みを無くすのなんて簡単なことだ。彼に童貞(仮)を捨てさせればいい。マシュや他の女性スタッフには絶対にさせられない行為なら、立香自身が責任を持って受け止めるべきだ。

魔力供給のための性交渉をする覚悟はできていた。目的が変わっただけでやることが一緒なら、立香の覚悟なんてとっくにできている。

立香は勇気を振り絞って胸元のベルトを外した。

カチン。軽い金属音と共に胸の上の圧迫感が消える。新しい極地用礼装は以前のカルデア制服よりも着脱が楽だ。そのままファスナーを下ろして前を全開にすると見慣れた立香の両胸がたわわに外気へと晒された。

怪物は、微動だにしない。

立香は相手の膝に乗り上げ、艶かしい太ももで相手の腰を挟む。恋愛経験乏しい少女である自分よりマスターとしての責任を果たすことを優先した立香に躊躇いはない。ただ押し殺しきれない羞恥は節々から溢れ出た。

幼気な顔を赤らめ、涙目になりながらも仮面の向こうの目を探し、そして、とうとう、その言葉を口にした。


「わ、私がサリエリのど……ど、うてー、貰ってもいい?」


果たして、怪物が礼装を解いたのはどれほど時間が経った後だったか。

煙のように解けた仮面の、その下から見慣れたサリエリの顔が出てくる。アントニオ・サリエリ。灰色の男。神に愛された者を殺す者。その表情は、復讐者にあるまじき無。演奏が終了し拍手喝采を浴びるまでの数瞬の静寂に似ていた。

その口から刃が吐き出されるまでは。


「我がマスターは毒婦であったか」
「えっ」
「さぞ楽しかろうな。貴様のために無様を晒す我を弄ぶのは」
「ち、ちが、待って、」
「失望した」


突き飛ばされる形でベッドに転がった立香。

慌てて体勢を立て直した頃にはサリエリは外に消えていた。



***



「馬鹿だねキミは。男心を全く理解していない」


翌日のマイルーム。

我が物顔でベッドに寝そべるアマデウスと机に突っ伏す立香。

本来この時間に訪ねるはずのサリエリはいない。理由など明白だろう。


「ま、童貞の気持ちなんて処女には分からないか」
「分ーかーりーまーせーんー! しょーじょーでーすーかーらー!」
「汚い音を出さないでくれ。僕の耳が狂うだろう」


アマデウスは通常運行だ。立香の書き損じた報告書の裏にボールペンで淡々と音符を連ねている。書き損じた書類に書き損じなく名作を生み出す光景には間接的な屈辱を味あわされる。これもいつものことだった。

反対に立香はどこまでも、それこそ地獄にでも到達しそうなほどに深い溜息を机に向かって吐き出した。


「そうだよね、混乱している時に突然マスターに襲われたらそりゃ怒るよ……なんであの時、あんな思い切ったことやっちゃったんだろ」


羞恥と自己嫌悪でどうにかなりそうだった。


「失望したって言われた」


それはそうだろう。

彼はスキルによって赤面症のような状態になっているだけで、決して立香個人に異性としての好意を抱いているわけではない。加えて立香の方も極めて義務的な理由で相手に迫ったのだ。嫌々迫られたサリエリの心情は推し量るまでもなく最悪だろう。正気に戻った立香の苦悩など比べ物にならないくらいに。

セクハラとパワハラの最悪のコンビネーション。労基が生きていたら一発アウトだ。


「失望ねえ? 少なくとも僕は違うと思うけど」


さらに項垂れるマスターにチラとも視線を寄越さず、自他ともに認める天才音楽家はニヤニヤと愉快そうな声音を奏でる。


「あれは嫉妬さ」
「shit??」
「アッハッハッ! まあ、クソみたいな嫉妬には違いないか! キミ、余裕ぶってあの堅物にストリップしてみせたんだろ? それがいけなかったのさ」


「はい完成」気の抜けた声と共に楽譜が立香の机にそっと置かれる。

 そのままグッと背伸びしてからアマデウスは仰向けに体勢を変えた。


「キミがそういうことに慣れていて、他のサーヴァントとも寝てるなんて勘ぐったのかもね。好きな子が経験豊富で他の奴とも寝てるなんて想像しただけで童貞は簡単に不機嫌になるものさ」
「好きな子って、」
「鈍感気取りはいけないよ、キミ。思いっきり意識されて見てるこっちが火傷しそうだったというのに」
「あれは、私の思い込みのせい……ていうかアマデウスのせいじゃない?」
「僕は“童貞みたいにお固い奴”って言ったんだ。勘違いしたのはキミの方さ」
「せ、責任逃れだー! 政治家かー!」
「徹頭徹尾天才音楽家だよ」


フンフン軽やかに、そして絶対に音を外さない鼻歌。聞きなれた『Eine kleine Nachtmusik』が狭いマイルームに反響する。以前に蓄音機扱いで構わないと言われたことを思い出す。それどころか、このアマデウスではない彼の言葉が浮かぶ時も多々あった。

アマデウスの言葉のほとんどは最低で品位の欠片もないが、そこに立香の心に爪痕を残すような力があることはこの二年で知っている。


「マスターは、アレが本当にサリエリだと思うかい?」
「どういう意味?」
「んんー……僕はね、違うと思うんだ」


だから。次の言葉もまた、立香の脳裏に焦げ付き続けるのだろう。突然の話題転換にも慌てずに立香は耳を傾ける。


「サリエリは僕みたいに天才じゃなかったからね。英霊になるにはよほどのイレギュラーでもない限り無理な話だ。……なのにさ、マスター。アレはサリエリの顔でサリエリを名乗って僕を殺そうとしてくる。考えても見てくれよ、確かに僕はサリエリが好ましかったさ。同じ場所に立てないって分かりきっていて僕を一人にさせてくれない。僕の才能を認めて、僕のお願いを聞いてくれて、僕のそばに来てくれた。話し相手になってくれたアイツが……死んで、怪物になってまで会いに来るなんて笑い話にもならないじゃないか」


アマデウスの表情はいつもと変わらず爽やかで、どことなく嫌味っぽい。それでも猫のような釣り目はマイルームの天井を見てはいなかった。きっと生前の、在りし日の思い出を幻視しているのだろう。


「アレはサリエリじゃない。馬鹿な醜聞で塗り固められた憐れな男。僕の知るサリエリを騙る、無辜の怪物だよ。そうでなかったら、僕は……」


立香は信じられないような面持でアマデウスを凝視した。


「僕は、アレとどう向き合えばいいんだ」


あの、マリーがいなければどこまでもクズに成り果てそうな音楽家が弱音を吐いている。飄々としたいつも通りの態度は虚勢で、本当はアマデウスも傷ついたのではないか。立香が異聞帯ロシアで出会ったサリエリとのギャップに困惑したように、アマデウスもまた復讐者たるサリエリの殺意に慄いていたのだ。

こんなに長い付き合いなのに。サーヴァントの気持ちが話分からないなんてマスター失格だな。

キュッと唇を一度噛んでから立香はアマデウスの方に体を向けた。


「愛は簡単に憎しみに変わるって、アマデウスが言っていたんだよ」


正確にはオルレアンで聖杯によって召喚されたアマデウスだったけれど。

フランスに愛され、フランスに殺されたマリーに対して彼が言ったことだ。


「たとえ今のサリエリがアマデウスの知るサリエリじゃなかったとしても、あの憎しみは誰かの思い込みなんかじゃなくて、生前のサリエリがアマデウスを愛していた証拠だよ。欠片だけでも想いが残っているのなら、それは全くの別人じゃない。

──私はあのサリエリだって、本当のサリエリだと思うよ」


アマデウスの目がゆっくりと立香の顔を捉える。

こちらの真意を確かめるような視線の圧迫感。数々の王や神とも違う、徹頭徹尾人間でありながら只人には見果てぬ世界を見通す芸術家たちの目。決して不誠実であってはいけない。マスターである以前に人として。


「だからアマデウス、サリエリのこと、」
「マスター、残念ながら時間切れのようだ」
「え?」


突然、樹齢を何百と重ねた大樹のようだった雰囲気がいつも通りのろくでなしに様変わりする。飛ぶようにベッドから起き上がったアマデウスは何も言わずにマイルームから出て行ってしまった。

あまりの突然さにしばらく扉を見つめていた立香。

何だったのだろうか、と戸惑っている内に答えは向こうからやって来た。


「アマデウスゥゥウウウ!!!!」


入れ替わりで礼装を纏ったサリエリがマイルームに飛び込んで来たのだ。

周りを確認していなかったのだろうか。はたまたアマデウス以外の全てをシャットアウトしていたのか、彼は立香を視認するや否やまた部屋から出ていこうとした。


「令呪を以って、」
「やめろ」


目にも止まらぬ速さで口を塞がれる。

礼装を解いていない状態で触れられれば立香の軽い体は簡単に吹っ飛んだ。


「ぁ、オオオ、違うのだ、我は、」
「だ、だいじょぶ」
「だがッ、ああ……痛ましい」


運よくベッドの方に吹っ飛んだためにダメージは少ない。が、頬にピリッとした痛みを感じ、それがサリエリの爪による引っ掻き傷であると気付く前に事は起こった。

生温く水気を多分に含んだ感触。舌だ。人間にしては異常な長さの舌が裂けた口から立香の頬に伸びている。


「サリエリ? サリエリさん?」


たった1分間で突然が複数重なると逆に冷静になってしまう。サリエリの名を呼びながら立香は一瞬だけ遠くを見つめた。

その間にもピチャピチャと長い舌が傷の上を行ったり来たりする。それどころか目元の涙袋や耳たぶの近く、唇のギリギリ端をかする時もあった。


「あの、くすぐったいというか……」


これはまずい。

立香はまだベッドに倒れたまま。その上に乗り上げる形で無辜の怪物を纏ったサリエリが立香の顔を舐めている。まるで押し倒されて襲われているみたいだ。


「もういいんじゃ、んぶっ!?」


瞬間、長い舌が立香の口の中に這い入ってきた。


「んっ……ん、んん、んぅッ!」


口蓋を通じて粘着質な音が直接聞こえてくる。

舌は縦横無尽に、それこそ蹂躙するように立香の口を這いずり回った。唇の裏の歯茎、前歯の裏、舌の根、ついには喉の奥まで到達しそうになり、立香は咳き込みかけた。咳き込もうとしたにも関わらず、サリエリの手は立香の肩を痛いほどベッドに押し付ける。

結局、立香が解放されたのは酸欠で半ば白目を剥きかけていた頃だった。


「うっ、げほっ、はぁ、はぁ、さりえぃ、どうしてこんな、」
「……アマデウスの残滓がない」
「はい?」
「この部屋はかの神才の残滓に満ちている。寝具など特に色濃いというのに、何故貴様には欠片も残滓がないのだ」
「何故って、逆に何でそんなこと聞くの?」
「先ほどまでアマデウスと性交していたのだろう?」


性交。
男女が性的に交わること。

──つまりセックス。


「は、はあああああ!? なんっ、ッ!!」


なんでさ!?

叫ぼうとした言葉は唾液が気管に入って声にならなかった。

この唾液すら立香のものかサリエリのものかも分からない。むせただけでは到底ならない赤色が立香の顔に上ってきた。


「どんな気持ちだ。神の愛し子に愛される悦楽は。さぞ気分が良かろう。自分が神に愛されているとすら錯覚できたのではないか? だが安心しろ。貴様は我が刃を向けるまでもない凡庸な存在だ。我が慈悲など必要としない人の子。思いあがるなマスターよ」
「うんうん凡庸なのは理解しているから、ちょっと落ち着こうサリエリ」
「我はサリエリではない」


違う。あなたはサリエリだ。

本当はそう言いたかった。けれど今はまだその時ではないと立香は思った。憶測に憶測を重ねたような直感は、不用意に彼の地雷を踏むよりはずっといいと判断する。

だから、まずは誤解を解くことが先決だ。


「サリエリ、私はアマデウスと寝てないです」
「戯言を」
「だって私、処女だから」


自身のセクシャルな個人情報が思ったよりも大きくはっきりとした発音で出ていった。

偉人のセクシャルな個人情報を勝手に捏造したのはこちらの方だ。恥ずかしがってもいられない。


「試してみる? サリエリが私で童貞卒業したら、私の勘違いもなくなるよ。スキルが元に戻るし、そうしたらアマデウスもスムーズに殺せて一石二鳥だ。それか魔力供給だと思ってもいいかもね。私の魔力なんて微々たるものだけど、呼び水くらいにはなるはずだってダ・ヴィンチちゃんが言ってた」


あはっ、と。立香は笑った。涎と涙と鼻水で汚れた顔のまま。

サリエリが話しやすい雰囲気を作れるように、精一杯。強がりで笑った。


「ごめんね。こんなことでしか返せないよ」


サリエリというサーヴァントには異聞帯ロシアでの恩がある。

何よりあの時の演奏料をまだ払っていない。

レクイエム二短調『怒りの日』。灰色の男が依頼したというヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの遺作を、わざわざチョイスしてくれた。雷帝を翻弄するためとはいえ、それはいったいどんな気持ちだったのだろうか。殺したくとも殺せない相手への怒りを乗せながら、それでも神の愛した才能の産物を音として世に産む気持ちは。

立香はきっと分からない。想像するだけで本当のことなんて一生聞けないままなのだろう。サリエリが言うところの凡庸であるがゆえに曲の真の価値なんて分からない。それでも、名曲に対しての対価は支払って然るべきだろう。

お代は私の体で、なんてふざけたことを言う機会が来るなんて。人生は分からないものだ。


「ほら、凡庸なマスターのお粗末な体でもいいのなら……いいよ」


果たして、サリエリは固まって押し黙った。

未だ押し倒されたまま、下から見上げることは多々あれど仮面の下の顔色は流石に読み取れない。


「君は本気で言っているのか」


怪物が一人の男へと姿を変える。

礼装を解いたサリエリは、もはや見慣れた赤い顔で立香の様子を伺っていた。罰が悪そうな表情。口が四十路とは思えないほど子供っぽくへの字に曲がっている。

なんだこの可愛い生き物は。

唾液と舌で酸欠にさせられたことも忘れて立香はニヤけそうになる。

初体験への恐怖が薄れる程度には心動かされる反応だったのだ。


「本気本気。まあ優しくしてくれたら嬉しいけれど」
「初めては痛いと聞く」
「あー、火傷や壊死やお腹ぐちゅぐちゅよりはマシかなあって」
「人理修復の過酷さが良く分かった」
「いやあ、大変だったな。あれに比べれば魔力供給くらいどうってことないよ」
「魔力供給、だと?」


手袋越しの手が立香の頬に添えられ、親指が唇の周りの涎を拭う。

サリエリの顔は変わらず赤いままであったが、表情は一気に大人の余裕を感じさせる微笑みを湛えていた。


「純潔を捧げるのが目的ならば、それは立派な“愛ある行為”であろう?」
「は……」

いつかに苺飴のようだと思った赤い色。飴玉が溶けて変形しそうなほどにそれは熱を持って立香を見つめている。

まるで愛しい女を見るようなその目は少し揺れ、そしてやや暗い色を落とした。


「私は、恐れているのかもしれない」


弱音にも似た、深層の表面化。


「アマデウスを殺すことがこの身の存在意義ならば、アマデウスを殺した後の私に何が残るのだろう。私はアントニオ・サリエリ。灰色の男。かの神才を殺す者。だが、その先は? 人殺しを成し遂げた醜い怪物は、存在意義を失えば何になるというのだ。無辜を背負わせた者たちへの復讐? 私にさらに罪に汚れろと? その先に何がある。サリエリの為せなかったことを為せば、それは本当にサリエリなのか? 分からぬ。分からぬものは恐ろしい。私は、恐ろしい」


理性を取り戻したサリエリ。自己を見つめた彼の語り口は驚くほど朗々と流れた。

サリエリ、と。立香は彼の名を呼ぼうとした。

唇は、唇によって厳かに閉ざされた。


「恐ろしい。この感情も、怪物が一時に見た夢幻なのだろうか」


あまりにも優しい口づけであった。

先ほど体験したばかりの怪物の蹂躙とは比べるのも烏滸がましい。むしろまったくの違う行為であるように感じられる。もはや言い逃れもできない。

それはサリエリから立香へと贈られた、確かな愛情表現だった。

立香は目を覆いたくなった。

こんなにも優しい愛情を理性あるサリエリは持ち合わせている。これはスキルの変容による副産物だ。いつか消えてしまう自我に他ならないというのに。

立香は絆されそうになる。


「サリエリ。流石にそれはダメだよ」


本気になってはいけない。それでも、今この瞬間だけは夢に浸ってもいいだろうか。

揺れる思考を笑みの下に隠そうとした。恐らく失敗したのだろう。サリエリの眉根が少しだけ歪んだから。


「ダメ。流石のマスターも勘違いしちゃう」
「我がマスターは凡庸以下か」
「うぁっ」


礼装のベルトを引っ張ることで立香の上体を持ち上げるサリエリ。

口から飛び出した呻き声はは不快な音だったのだろうか。不機嫌そうに歯ぎしりをしてから、もう一度その唇を唇に重ね合わせた。

やや揉むように、その柔らかさを教え込むように。丹念に、丁寧に、何より性的に。教師らしいお手本のような口づけをたっぷり一分施して、色男は目を回す立香の腰を抱いた。

本当に『無辜の怪物(初)』はまだ機能しているのか。もう払拭されたのではなかろうか。

そう疑念を抱くほど、目の前の男は色気たっぷりに立香を誘惑した。


「あと何度口づければ、君は本気になるだろうな」


情けない悲鳴がサリエリの耳を汚した。



***



「サリエリのこと認めないって言ったの嘘だよね」
「やっぱりバレた?」


翌日、アマデウスはまたマイルームにやって来た。

前日と違うのはベッドには決して近寄らず、壁際のスツールに座って足を組んでいることだ。本当に部屋に設置された蓄音機のように好き勝手話し始める。


「うんうん僕は正直者だから仕方ないよね。ということでマスター、サリエリに伝えておいてくれ。“一度ヤッたくらいで童貞捨てたと思うなよ。キミはまだ素人童貞だ”ってね」
「ヤッ、ヤヤッヤッてません! ヤッてませんけど!?」


キスだけは死ぬほどやりましたけど!?


「ヤッてない? 嘘だろ流石童貞! 据え膳にも手をつけない堅物さ! 僕にとっては僥倖だね!」
「はあ!?」


何を突然。失礼の極みのようなことを言い出すのだろう。


「正直、僕はあの愉快なスキルには助けられている。無辜の怪物を纏ったサリエリとこの僕がタイマンでギリギリ殺されない程度に善戦してるんだぜ? キミの呼びかけにも素直に止まるしさ。このままの方が僕たちにとってはいいことなんじゃないかな」
「そういうこと……」


昨日と同じようなあっけらかんとした態度でネタ晴らしするアマデウス。

立香は脱力したように机に突っ伏した。昨日とは別の理由で突っ伏すことになるとは思わなかった。


「これは真面目な話だよ、マスター。僕はアイツに殺される気なんて微塵もないんだ」
「はいはい、マリーと会えなくなるもんね」
「うん、まだまだやりたいこともあるしね」


それに、と言いかけてアマデウスは少し黙る。

それに? と聞き返した立香に対して、神才は悪いことを思いついたような厭らしい笑みを向けてきた。


「昨日僕が置いて行った新曲、そのままそこにあるってことはサリエリは気付かなかったんだろ? この僕の作品に見向きもしないなんて、キミ、相当愛されてるね。この機会に大人になっておいた方がいいんじゃないかい?」
「…………」
「おっとそろそろアイツが来そうな予感がする。見つかる前に僕は消えるよ。せいぜい童貞スキルの持続に尽力してくれ、マスター」


悠々自適に扉から外に出ていくアマデウス。

突っ伏した机からよろよろと体を起こした立香は、相手に聞こえないのを承知でサリエリのように叫んだ。


「アマデウスゥウウウウ!!!」




***



『僕はアイツに殺される気なんて微塵もないんだ』


先ほど言ったばかりセリフを噛み締め、呑みくだす前に。誰もいない廊下でそっと呟く。



「友殺しなんて罪、アイツに背負わせてやるもんか」



彼を友達だなんて認めないくせに、彼に友達だとは認められている自負。身勝手な思考を身勝手なままに押し込めて、音楽家は人差し指でリズムを取った。

どうか彼と彼女に小さな夜が訪れますように、と。



***



サリエリは混濁している。

狂っているともまともだとも言えない。正しく混ざり濁っている。

異聞帯ロシアに召喚された汎人類史のサーヴァントであるからか。史実の人物に創作のイメージをペーストされた無辜の怪物だからか。アマデウスのオルタナティブとして洗脳されていたからか。いくつかの要素が重なりあったことでサリエリは常に己の内の混沌を見つめ続けることになる。

もっとも、見つめるその目は決して理性ではなかったが。


「サリエリさんは何か欲しい物あります?」


叛逆軍の砦の内。その隅に陣取ったサリエリのところまでやって来たカルデアのマスター。彼女はこんなはぐれ者と対話する面倒を厭わない。


「ピアノ」
「あーっと、」
「冗談だ。何も必要ない」


朗らかな顔から困り顔になった少女をチラと見てすぐに訂正を入れる。反射で答えるといつもこうだ。我欲が無遠慮に出て困る。

夜。辺りは変わらず雪が降っている。吹雪とまではなっていないあたり、一応晴れていることにはなるのだろうか。永久に雪と嵐に閉ざされた国。それでもインスピレーションは降って湧くものだ。ピアノに触れたい。音を奏でたい。譜面に書き記したい。

──ああ、だが、あの神才は。

ピアノなどなくとも、口ずさんだだけで恐るべき天上の調べを生み出してみせるのだろう。


「ァ、ァアッ……!」


暴れ出したそれは混沌ではなく、監視する側の目。深淵の中に棲む激情。悲しみ、怒り、殺意。それこそが復讐者たるサリエリの黒い炎だった。


「サリエリさん」


ひたとマスターの瞳がサリエリを捕らえる。

honig……miel……蜂蜜のようにトロリと光沢のある金色が舌に甘味を幻惑させる。傷めたばかりの喉を飲み込んだ唾が重く通り過ぎていった。


「本当に何も要らない? ピアノは無理だけど、あなたが必要な物を私は知りたい。言うだけタダだよ」


手袋越しに手を握られれば、まるで首まで握り締められたかのような息苦しさ。獣のように鋭利に尖った牙が不協和音を口腔で奏でた。


「何か、甘い物を」
「うん。どこかに木の実でも落ちてたらいいね」
「ああ、そうだな」
「小麦粉とかあったらクッキーでも作れたんだけどな。あ、それだと砂糖も必要だよね。砂糖って何から採れるっけ。サトウキビ?」


はしたない丈のスカートのまま雪の上に座るマスター。魔術的な施しがあったとしても寒々しく映る。


「失礼」
「わっ」


攫った腰は貴婦人にしては太く、少女にしては筋張っていた。女性を子鹿に喩える文句があったと言うが、なるほど言い得て妙だ。サリエリは膝に乗せたマスターの温もりを感じた。感じられる理性があることに僅かに瞠目した。


「私はサーヴァントだからな。存分に椅子替わりにでもするといい」
「あはは、ありがとサリエリさん」
「いや、礼には及ばない」
「……あったかいね」


それはこちらのセリフだ。

サリエリは自覚した。このマスターはいけない。これは己の目を眩ませる。眩んだ先の視界で、濁り揺蕩う混沌がサリエリの自我を曖昧にしていく。

サリエリは神を信じ神に愛されたかった男だ。神が愛した男を殺す者だ。人を、それもかの神才を殺す復讐者が、この温かい少女を抱きしめている。一時に眩んだ自我。悲しみも怒りも殺意も掠れたこの残り滓が彼女を尊いものとして扱おうと歌い始めた。

このまま彼女のサーヴァントとして彼女の手足となり、彼女の偉業を見届けることを夢想する。それはなんと冒涜的なことであろうか。


「私は、我は、」
「ん?」
「いや、なんでもない」


きっと、目が眩んだからだ。この温かいものに。だからサリエリでも無辜の怪物でも抱かないであろう夢を一瞬思い描いた。


「星は、見えないな」
「そうだね、この嵐だもんね」


綺羅星。あの男の曲を連想させる物でも見れば、また狂気に戻れるだろうか。

tを発音しようとした唇。無理やり歪めると笑いに似た空気が白く宙に溶ける。

何故「Ah! vours dirai-je maman」ではなく「Twinkle,twinkle,little star」が出て来たのか。その答え。サリエリの照れは、ついぞ彼自身にも自覚されなかった。


「サリエリさんの目って苺飴みたいな色ですよね。思い出すなあ、小さい頃は飴と雪を一緒に食べてかき氷にしたっけ」
「……ここの雪は食べない方が良いと思うが」
「わ、分かってますよ」
「君は存外食い意地が張っているな」
「張ってない! 張ってないです!」
「どうだか」


膝の上で暴れるマスターを宥める。生前見てきた子供よりよっぽど子供らしい。生前、とやらもサリエリには遠く脆く曖昧な記録でしかないが。


「君に舐められたら、この目も治るかもしれないな」
「え?」
「冗談だ。……本当に冗談だぞ。そうあからさまに引かないでくれ」


途端に体を強張らせた少女に、少しだけ慌てたサリエリだった。









眩んだままでいさせてくれればどれだけ良かったか。

サリエリはひび割れた夜空を見上げた。指に馴染んだ曲は鍵盤を見ずともそれなりの水準で雪原に響き渡る。恋の歌は、誰もいなくなった世界に消えていく。あの天才が、神に愛された存在が作り出した曲。神に愛された男。アマデウス。あの男の才能が分からない聴衆などいない方が良いと、すべからく消えてしまうべきだと憎悪した。その感情が揺らいでいるのは、やはりこのサリエリが混濁しているからだろうか。

ここに彼女がいてくれたなら。

アマデウスとサリエリの違いなど分からない。凡庸な自分の演奏でも笑顔で称賛してくれるであろう凡庸な少女。


「『私たちは恋人なしで生きていけるの?』……か」


はっきりとした視界の向こう。綺羅星が一つ、地に落ちた。



別名義で公開しているサリぐだでした。個人的に気に入ってるお話だったのでこちらにもこっそり転載。二部1章終わった二週間後くらいに書いた突貫小説です。この時点であんな入念な村焼き討ちがあるとは思いも寄らず…。今でも100レベまで育てたサリエリ先生で元気に周回しています。僕らのサリエリ先生は最強なんだ!

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