あなたの庭でひとりきり



「まずは整理しよう」


スティーブンは十分ほどでザッと調べた簡単な情報をテーブルに並べた。


「君の奥方、名前・V・名字元子爵令嬢の家はドイツ北部の小さな領地を治めていた貴族だ。そして君の遠い遠いとおーい親戚に当たる」
「どんだけ遠い強調するんスか」
「何代も前にラインヘルツから分かれた弱小貴族らしいからね。血も薄まって限りなく赤の他人さ」
「なるほど……」


貴族に対してふわふわな印象しかないレオナルドとチェインがとりあえず頷く。彼女の靴底には強制的に笑い止ませたザップの頭が震えていた。


「だから分からないんだよ。血筋ならもっと近場に素晴らしいお嬢さんがいるだろうに、そんな遠戚から嫁がせるなんて」


そう言って額に手をやるスティーブンを尻目に、クラウスは神妙な表情で呻いた。それは彼とて不思議に思っていたことだった。

華奢な体躯の少女だった。自分より年の頃が十は下だ。野花を飾りたくなるような素朴な可愛らしさがある、物腰が丁寧なレディ。小さな口を半開きにしてクラウスを見つめる瞳はこちらが罪悪感を抱くほど如実に恐怖を表していた。自分のような無骨者には似合わない、平和の中で笑っているのが相応しいお嬢さんだとクラウスは思った。

クラウスは誠実な男である。政略結婚で結ばれた初対面の女性であれ、彼の博愛にかかれば庇護の対象になりうるだろう。問題は、庇護される側の彼女の方だ。あんなにもクラウスを見て怯えていた。痛々しい感情を詰め込んだ、あまりにも惨い視線だった。それだけで見た目に寄らず繊細な心の男は我慢できずに仲間の仕事場へ逃げ帰ってしまったのだ。普段のクラウスなら倒れた人がいると知れば目が覚めるまでそばに付き添っていただろうに。


「んなこたあどうでもいいのよ! クラウス、あたしをその女のとこまで案内しなさい! 貴族だろうがなんだろうがうちのボス泣かせたらタダじゃおかないんだから!」


“愛のない結婚ハンターイ”と叫びながら銃をぶっぱなしかねない幸せ既婚者と、それを諌める色男の構図が出来上がった。そのあたりで唐突に鳴った電話にギルベルトがワンコールで出る。騒がしい室内をものともせず静かな口調で二言三言の相槌を打ち、再び電話を置いてからクラウスに向き直った。


「坊ちゃま、奥様がお目覚めになられたようです」



***



名前が目を覚ました時、既に日はとっぷりと落ちていた。

天蓋付きのベッドの上、ぼやけた視界が現在地の手がかりを探し始める。そうしてすぐに自分の夫の屋敷であったことを思い出して慌ててベッドから起き上がった。


「お目覚めですか、奥様」
「っは、はい!」


家具のように不動で控えていたメイドが部屋の隅から声をかける。裏返った声で返事をした彼女の様子を気にも留めず、手を叩いて呼ばれたメイド達が名前の身支度をし始めた。その冷静な手つきと表情は、先の失態について触れる様子もない。まるであの対面が彼女だけが見た夢だったかのような気持ちになる。


「あの、旦那様は、」
「一度職場に戻られました。日付を跨ぐ頃にはお帰りになりますので、それまでに奥様はご準備を」
「じゅんび……」


それはつまり、そういうことだ。

軽い夕食を取った後、数人がかりで体中を洗われ、全身に揉み込むように香油を塗られ、指通りの良くなるまで長い髪を梳かれ。極めつけに寝るという目的とはかけ離れた服を手際よく着せられたあたりから、彼女の顔はすっかり真っ白になっていた。とうとう、この時が来てしまったのだと。絶望にも似た感情が彼女の慎ましやかな胸の内を締め付ける。この婚姻を結ぶにあたって提示された最低条件。それを遂行する時が来てしまったのだと、冷静になりきれない頭が弾きだした。

あやめイーリスの清涼感漂う香りが場違いですらある。メイドたちの誘導のもと通された一室。通常のものよりも一回りは大きな天蓋付きのベッドに腰を落ち着け、名前は部屋の主が帰ってくる時を待った。

赤い獣が扉を開ける、その時まで。


「名前嬢、何故ここに……いや、体調の方は大丈夫なのかね」
「クラウス様、折り入って御願いしたいことがございます」


部屋に入ってきたクラウスの言葉尻を遮るように、名前は深々と頭を下げた。見た目に寄らず優しげな声音だとか、とてつもなく戸惑っている挙動だとか、そんな一目で分かるような相手の様子を推し量れるほど、彼女は冷静ではなかった。夕食に無理くり喉の奥に通したスープが逆流しそうな程の緊張と恐怖だ。それをなんとか飲み下すように、彼女は目の前の夫に心の底から乞うた。


「どうか今宵、矮小なこの身に、お情けを」


クラウス・フォン・ラインヘルツの子を孕め。

それが名前が故郷に帰るために提示された最低条件だった。


ドイツでのあやめの花言葉は“素晴らしい結婚”らしいです。最高に皮肉。オチまで考えてしまったせいでこの二人が幸せになるまで書きたい衝動がすごい。長くなったらいろいろにまとめて載せたいです。長くなったら。

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