夜更けのハネムーン



高貴に付随する義務ノブレス・オブリージュ”。貴族として生まれた女の務めは何か。そんなもの彼女は分かっているつもりだった。

不幸なことは連続して起こり、目を背けていたことは当たり前に目の前に突き付けられる。名前はラインヘルツ家の自家用ジェットから憂鬱な気持ちで降り立った。あの不可解な霧の街は目と鼻の先で悠々と存在している。まさか昔憧れた都会の喧騒が、こんな異界ナイズドされた形になっているとは夢にも思わなかった。御伽噺のような異空間に、まさか、夫を訪ねて来ることになるなんて。


「奥様はクラウス様の職務が終わられるまで屋敷でお過ごし下さい」
「分かりました」


恭しく、慇懃に車までエスコートする執事に連れられ、名前は後部座席に背を預ける。周りに執事と運転手と護衛がいるものの、ミセスベイツの視線がないだけ幾分かマシだった。

名前はつい半年前まで、ドイツの片隅で細々と生活する子爵家の令嬢だった。何代か昔にどこそこの貴族から別れたしがない傍流の貴族。朝は朝日とともに目を覚まし、庭師とともに広大な庭の世話に明け暮れ、使用人から家事の仕方を習い、母直伝の玉ねぎケーキツヴィーベルクーヘンを焼いて過ごす。貴族でありながら手は水仕事で少し荒れが目立っていた。髪も長いばかりで適当にまとめるだけ。流行りの服はなく、余所行きとパーティードレスがそれぞれ一着ずつある以外には一般人と変わらない質素なものしかない。ただ血筋が良いだけの小娘の運命が、どこをどう転んだのか。家の大元の大元、本家筋だと言うラインヘルツ家に呼び出され、見も聞きもしないその家の三男坊と婚約をすっとばした婚姻関係に収まってしまったのだ。

今回、異界と現世が交わる街HLヘルサレムズ・ロットに飛ばされた目的の一つが、今更ながらの夫との初対面。ラインヘルツ家の末席に名を刻んでから既に二月が経過した時分のことだった。


「ご安心ください奥様。クラウス様は大変素晴らしい御方でいらっしゃいます」
「存じております」


執事の微笑みに微笑みを返す。それでも名前の不安はなくならない。当然だ。貴族の、公爵家の高貴な血を引く御方と夫婦になるのだ。いつかは見知らぬ誰かと結ばれる運命にあったとはいえ、相手が規格外過ぎる。長い旅路の疲労と相まって屋敷に着く頃には不安は最高潮にまで達していた。

そもそもの話。今回彼女が遠路はるばるHLまでやってきた理由は、ラインヘルツ家の上層部から言い渡された命令によるものがある。それが彼女の不安を不安足らしめる元凶なのだ。


「奥様、どうやらクラウス様が既にお帰りになっているようです」
「な、」


まだ心の準備ができていないと。主張する権利は彼女にはなかった。嫁ぎはすれど所詮は余所者でしかないのだ。辛うじて血筋が良いだけの彼女が、公爵家の手を煩わせる恐れを甘受できるほど豪胆でも鈍感でもない。メイドたちに軽く髪を整えられながら屋敷の主がいる執務室へと案内される。

そこで彼女を待ち構えていたのは、恐ろしい獣だった。


「お初にお目にかかる、名前嬢」


とても、重厚な声だった。相手を威圧するために生まれてきたかのような物騒な響き。それは風貌にも反映されているようで、人外染みた巨体も、唇からはみ出す大きな牙も、眼鏡の奥からこちらを射抜く鋭い眼光も。すべてが一人の頼りない小娘に向けられている。大きな、厳めしい顔のその男が、彼女の夫となるクラウス・Vフォン・ラインヘルツだと。変わらぬ事実として彼女の前に立ちはだかっている。

確かに、今までの執事の言からは彼の容姿に関することは一切聞かなかった。すべて夫がどんなに素晴らしい御人かというだけで、どんな目の色でどんな髪の色でどんな背格好の御人かは彼女は知らなかった。言外に見目がよろしくないということかと邪推したものだが、まさか、別のベクトルに振り切った見た目だとは。

その偉丈夫と面と向かって対峙するには、名前は少し繊細すぎた。


「名前嬢!?」


こうして元名前・V・名字嬢、現名前・V・ラインヘルツ夫人は初対面にして夫の目の前でひっくり返る失態を犯すことになったのだ。



***



「クラウス。何があったか説明してくれないと僕も対処に困るんだが」


スティーブン・A・スターフェイズはライブラの執務机の前でスマートフォンを片手に頭を抱えていた。かれこれ十分だろうか。彼の友人であり上司であるクラウス・フォン・ラインヘルツが電話の向こうで獣のような唸り声を上げているのは。本日、私用で申し訳なさそうにライブラ本部を早引きした彼がものの一時間で電話をかけてきたのだ。何か事件があったのかと早急に電話に出たスティーブンであったが、煮え切らないクラウスの態度に事件は事件でも極々プライベートなことだと判断し、片手間に書類確認をしていたのだが。それにしたって長すぎる。


「む、すまない、スティーブン。どこから説明していいものか私にも分かり兼ねるのだ」
「なんだい、そんなに困ったことなのかい? まさか異界産の子犬でも拾ったなんて言うんじゃないだろうな?」
「いや、その、私の妻のことなのだが」
「なんだ、君の奥方のことか………………奥方ァ!!???」


しーーーーーーーん。


「旦那に嫁ェ!!?」
「クラウスさんの奥さん!?」
「ミスタ・クラウスが既婚者……?」
「ちょっとクラっち聞いてないわよ!?」


ちょうど、本当にタイミングよく揃っていたいつものメンツがスティーブンのリアクションに顔を向ける。その顔には一様に驚愕を貼り付けており、今己が聞いた内容が事実か否かを見極めようとスティーブンを凝視していた。


「あー、とりあえず質問いいかな、クラウス」
「うむ。ちょうどそちらに着いたところだ」
「ええ? 戻ってきちゃったのかい?」
「ああ、彼女が倒れてしまったのでな」
「倒れたァ!?」


それは普通そばについててやるものではないのか。と言う前に彼らのリーダーは有能な執事を伴って颯爽と部屋に入ってきた。


「ひっどいじゃないクラっち! いつ結婚してたのあたし知らなかったわよ!!」
「旦那ァ! 俺に教えないなんて水臭いじゃねぇか! どんな美人なんだよちょっくら味見ぃいいぎゃああああええええええ」
「クソ猿はちょっと黙ってなさい」


半狂乱のK・Kとチェインの攻撃を受けたサップの悲鳴が響き渡る中、スティーブンが頭をかきながらクラウスに近づく。いまいち混乱の原因を分かっていないらしい彼の友人は、キョトンとした顔でスティーブンに向き直った。


「で、いつ結婚したんだい、君」
「二月前、だそうだ」
「だそうだ、って」
「うむ、私もついさっき知ったのだ」
「は?」


と、気の抜けた声を発したのはレオナルドだったが、それはその場にいた面々に共通したリアクションだった。


「どうやら本部が勝手に進めた婚姻らしい。私は先ほど初めて相手に会ったのだが、その……私の顔を見て、相手が倒れてしまったのだ」


本日何度目かの間。誰も彼もが話さない無言の空気を先陣切ってぶち壊したのは、ザップの下品な大爆笑だった。


政略結婚から始まる恋ってのもいいよね、と思った次第。

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