隣接する幸福に気づけないことがあなたの不幸なのである



その刀がいつその意識を保っていたのか。それは刀にも分かりかねる事であった。

熱い炎に清められ、輝く身を手に入れた刀は、ある高僧を主として付き従い、彼の死後はその教えの本山に預けられることとなった。高僧はその刀を“悪しき思想を否定し、正しき思想を示す、正義の力が宿る”などと触れ回った。実際片時も離さずに彼の腰に提げられた刀は、それは大層美しく聖人に相応しいもので、血に汚れたことなどそうない。清らかな、高僧の御心を受け継いだ聖剣であると。人々は口々に誉めそやしたものであった。

それが刀のありもしない首を絞めることだと知る由もなく。


「一人で月見とは、寂しいものだなあ」


細く欠けた月を見上げていた数珠丸の側に、優美な所作で寄ってくる刀がいた。


「どれ、俺も邪魔をするぞ」


天下五剣が一つ、数珠丸恒次の隣に同じ天下五剣である三日月宗近が並ぶ。その道の者が見ればなんとも垂涎ものの光景だ。その道のものでなくとも、趣向の違う美青年二人が月光に照らされている麗しい光景であり、結局のところものすごいことには違いない。中身がただのお騒がせじじいであることに大変な残念が集約されているのはご愛嬌だ。


「貴殿が、こんな時間に起きているとはな」
「お前こそ普段ならば夢の中であろう。お互い様だ」
「ふむ、違いないな」


ほけほけと朗らかに笑う三日月と、むっつり無表情のままの数珠丸。二振りは目線を合わせることなく遥か高くに座す月を見つめるばかりだ。もっとも、数珠丸としては見上げた先の月も三日月であったのだから正味変わらないだろうという考えを持っていたが。


「人間の真似事は楽しいか?」


月が、数珠丸に問いかける。


「少なくとも、この肉の器は気に入っているな」


数珠丸は、間を置いて重々しく月に答える。


「眠れば夢を見れる。夢を見なくとも瞬く間に時が流れていく。煩わしいことなど思い出さなくとも良いとは、なんと便利なことだろう」


忘れたいことがある彼にとっては、なんと羨ましいことだろう。

あれは彼にとってはほんの、つい最近のことだ。

長い旅路の後。望むと望まないとに関わらず様々な人間の手に握られ、時には振るわれ、時には飾られ埃を被った。永久にも似た、それでいて瞬きに等しい日々が終わりを迎えたその日その時。見知らぬ国の奉公人の手によって数珠丸は己のいるべき場所に戻ってきた。見覚えのある、誰がしかの子孫であろう坊主が出てきて、丸めて長く経つ頭を深く下げ、数珠丸にとっては虚を突く言葉を落としたのだ。


『青江恒次殿の刀とこの刀は、鑢目も丁子映りも、なにより二字銘の場所も異なります』


なにをこの人間は言っているのか。

険しい顔をさらに険しく彩らせた坊主は、まるで汚らわしい蛆虫でも見るかの如く数珠丸を、天下五剣の一つである数珠丸恒次を見下ろしている。否、その人間にとっては真実、己は汚らしい物でしかなかったのだろう。その目の真意を深く感じ取ってしまったことは、不幸であり避けられぬ定めだったのであろう。

やはり、人の目を惑わすこの身に破邪顕正の力はなかったのか。


『これは我らが日蓮聖人の数珠丸恒次ではございません』


そうして数珠丸は帰る場所を失ったのだ。


「知っていたよ。この身に破邪顕正の力がないことなど。所詮は日蓮僧の恩恵に預かっていただけのことだと。あの寺に預けられていた時分から薄々は勘付いていた」


けれど、数珠丸はその真実を見て見ぬ振りをしていた。大事に仕舞われ、数多の僧に拝まれたこの身に聖なる力がないわけがないと。歪まぬ菩薩の微笑みを浮かべる下で不安も疑念もなかったことにして、彼はずっと聖人の刀たろうとした。疑うことすらできず、信じることでしか己を保てなかった。今思えば、あの時の己はほとんど死んでいたのであろう。微笑みを浮かべるだけの置物が生きているなど甚だおかしい話だ。

そのお粗末な仮面が剥がれ落ちたのは享保年間のこと。数珠丸に魂を抜かれた者の手により寺の外に出され、数多の人間の欲に晒され続ける日々を送ったが、最初に盗みなどという悪行をこの身を持って働かせた時点で、数珠丸は認めるしかなかった。

己に破邪顕正などという力はない。
己は聖剣ではなかった。
己はただの、刀だった。

矜持も何もかもを捨て、認めた瞬間に、存外簡単に数珠丸の仮面は剥がれ落ち、残ったのは現在の無表情。慈悲の心など持たないような味気ない表情が、本来の数珠丸の顔だった。それが、数珠丸恒次という刀だった。


「して、お前の神格が下がったのもそのせいだと言うのか?」


打除けの月が浮かぶ瞳で数珠丸の短い髪を流しみる三日月に、今度はあっけらかんと答えた。


「いいや、これはやつがれが切った」
「ほう? なにゆえそのようなことを?」
「邪魔だったからな」
「なんと」


朗らかな三日月の表情が僅かながらに驚き、目を丸める。


「もうやつがれは聖人の刀ではない。なればそれらしくする必要もあるまいて」
「……お前は本当に、人らしくなったなあ」
「ああ、ゆえに今は存分に悩み苦しむことにしておる。それもまた一興であろう?」


口端を引いて、彼にしては珍しい清々しい笑みを数珠丸は浮かべた。

人の器を得て、人の真似事をしても所詮は刀。歴史修正主義者との戦いに立つ刀が人の心に近づけば近づくほど、ただの刀であった時以上の苦しみが待ち構えているというのに。それすら今の数珠丸にとっては救いとなってしまうというのだ。

眉を下げどうしたものかと同胞を気遣う三日月と対称的に、当の数珠丸は大きな欠伸をして部屋に引っ込んでしまった。昔は確かに生真面目で付き合いにくそうな刀だと思ったものの、ここまで不真面目にならなくとも良かったろうに。

どちらにしろ、苦しまなければ生きてはいけない、息苦しい刃生を歩んでいくには変わりないのか。


三日月は以前に風の噂で聞いたことを思い出していた。

数珠丸恒次を巡って起こった廻るめく顛末。それはその美しい太刀に魅了された者たちの末路。奪い奪われ殺し殺されの血生臭いもの……ではなく、まるで流れる川のように人の手から手に渡って行ったという話だ。金で買った者がその鞘を、柄を、鍔を、刀身を見た瞬間から毒気を抜かれ、代わりに体中を巡り脳髄まで染み込んでいくもの。

罪悪感。

金や権力や悪行でこの美しいものを手に入れてしまったという事実に喘ぎ、苦しむ。あまりの責め苦に耐えかねた者はついには自ら手放さなければならない精神状態へと追い込まれていく。

罪悪感という感情を、数珠丸という刀は人間に知らしめる。

それはまさに、正真正銘、紛うことなき、破邪顕正の力に他ならないだろうに。


「数珠丸や、お前は立派に務めを果たしておったぞ」


それを面と向かって言ってやるほど、三日月宗近は友に素直じゃなかった。


数珠丸さんの真贋は諸説ありますがこのお話では本物ということで。去年数珠丸実装の際に消したお話がゴミ箱に残っていたので、もったいない精神で再録してみました。ちなみにこのお話を書いたのが2015年の夏か秋で、私の本丸に数珠丸さんが来たのが2017年の春です。書いたら出る(洗脳)

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