いっとうやさしい孵化の方法



絵に描いたような淡色の平凡な家庭で、その存在は誤って落としてしまった原色の絵の具だった。


彼女は幼い時から人一倍わがままだった。物欲が激しく目に付くものすべてが欲しくて仕方がない、そんな手のかかる子供。それは成長していくに連れ自我と理性に押さえ込まれる運命にあったはず。けれど彼女のわがままは欲望というものに名を変え成長し、質の悪い感情へと変容していく。そして彼女は渇望した。あれも欲しい。これも欲しい。手を伸ばしても届かない。家族は彼女の望みを叶えてくれるほど裕福でも優しくもなかった。だから彼女は飢えるしかなく、荒地に放たれた獣の如く大きな目を鋭く輝かせ、涎を垂らして暴れ転げた。

そんな荒んだ子供時代は、彼女がクレヨンを手にとった瞬間に終わりを告げる。

初めて嗅ぐ匂い。引っ掻くと爪に入る謎の塊を紙の上に滑らせると掠れた線となって新たな存在を構築していく。どんなに下手くそで汚くとも、一度紙の上に描き上げたものはすべて、彼女のものになった。むしろ現物と違ければ違うほど彼女自身の手で彼女の所有物になったという実感が増すものだ。青が目に眩しい空をわざと赤く染めれば、それは彼女だけの空になった。綺麗だと思った花に華奢な手足を描き足せば、それは彼女だけに微笑んだ。大好きな男の子の肌をお気に入りの黄色で塗りつぶせば、その子は彼女のものになった。彼女の感性と手によって現物が現実から乖離していく。その様子は元来の欲望を満たしさらなる征服欲を存分に刺激した。そうして驚くほど急速に彼女に人生は輝きに溢れていく。それが彼女の絵を描くという行為に火を灯したのは言うまでもないだろう。

一目その絵を見た人間は不気味に思い、次の瞬間にはのめり込む。絵とは描き手の心の鏡だ。どれほど鮮明に感情を写し込められるかで人を惹きつけるか否かが決まる。欲望とは人間の際たる感情だ。つまりその塊である彼女の絵はそれだけ人を惹きつける要素を十二分に持っていた。

人は彼女を天才と呼んだ。彼女は稀代の天才画家という肩書きを手にした。

家族は手のひらを返したように彼女を褒めそやす。描いた絵には莫大な値段がついたから、売った金で家計が裕福になったのだ。けれど彼女にとってはどうでもいいことだった。売られてしまった絵には興味はない。なにせ絵に描き終えた時点でそれは彼女のものになったということで、手に入ってしまったものはすぐに飽きてしまう。何より、家族からの言葉など彼女の欲望は塵とも欲していなかったのだから。


彼女の欲望はすべて筆に乗せてカンバスに昇華されていく。けれど止まることは終ぞなかった。

彼女はまだ満足していない。この世のすべてのものを目にして、感じて、絵にするまで、彼女は決して幸福を得ることはできないだろうと。家族を捨てて旅に出た。まだ少女の期間を抜け切っていない年のことだった。

欲したものを自分のものにするまで、彼女は何においても貪欲に食らいついた。強さが必要ならそれに比肩する強さを得た。金が必要なら絵を売って無理矢理作った。一般人が入れないような地域に行くためにハンターライセンスを取る苦労も厭わなかった。閉鎖された遺跡を見るために見ず知らずの男に頭を下げる屈辱も甘んじて受けた。その度に彼女のカンバスは強烈な感情を乗せて叫び出す。それが途轍もない喜びだった。


喜びは快楽だ。快楽は麻薬だ。一度知れば以前よりもなお求めてやまないものになる。彼女は狭い世界に留まらず、自身の持てるすべてを駆使して様々なものをその目に映した。その際にできた仲間とも呼べる人々との交流を残し、そうして辿り着いたのが現在の宿木。現実世界から隔離された架空の現実、グリードアイランドの某山某所の一軒家だった。

長い旅の小休止。誰にも邪魔されない人里離れたそこで、今まで見てきた世界と己の中で変化した感性を融合させ、新たな作品を描き始める。数年に一度訪れる、いわば内面整理の期間がちょうどその時のことだった。


ガタン


淡い水平線をなぞっていた腕が不自然に揺れて、下地の上から濃淡をつけて彩られた青が歪に波打つ。二階から聞こえてきた不自然な物音が彼女の集中力をぷっつりと切って意識を現実に引き戻したのだ。一人暮らしをしている家において、その音が示すもの。それは誰かが侵入してきたという警鐘に他ならない。

アクリルでベタベタな筆を置き、適当な布で手を拭きながら即座に円を展開する。その間コンマ数秒。慣れた様子で相手に認知されない程度のオーラを薄く伸ばして確認したところ、寝室に気配が二つ。大型と痩せ型の人間が引っかかった。と、同時に僅かな違和感が頭を過る。

無意識に足音を殺して階段を登り、音を立てずに扉を開く。何らかのアクションがあるだろうと構えていた腕は、しかしその光景を目の当たりにするとだらしなく垂れ下がった。


「マイペースな人たち……」


静かに寝息を立てる青年と、血だらけで瀕死状態な大男を見比べて、彼女は苛立ったようなため息を吐いた。侵入者よりももっと厄介な貧乏くじを引いたような気がしたのだ。青年はともかく、大男のほうは放っておけばものの数時間で死んでしまうだろう。動かない巨体を運ぶより自分で歩いてもらったほうがマシ。そう判断した。


「"ブック"」


青い石の指輪を掲げて、最強の絵描きさんは久しぶりの呪文を唱えるのだった。

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