ブレス・ユー・ユビキタス



ドゥルシネーアが東卍にトリップしたif。
※簡単に言うと『天竜人に転生した不老不死で見聞色の覇気持ちで笑顔しか作れない某D兄弟の叔母さんが東卍にトリップした話』です。




 モーセが手を海の上にさし伸べると、夜明けになって海はいつもの流れに返り、エジプト人はこれにむかって逃げたが、主はエジプト人を海の中に投げ込まれた。
 水は流れ返り、イスラエルのあとを追って海にはいった戦車と騎兵およびパロのすべての軍勢をおおい、ひとりも残らなかった。(出エジプト記:14章27-28節)



柴大寿は存外カンというものを大事にしている。

それは虫の知らせであったり野性的な第六感のうちであるかもしれないが、彼はよく“主のお告げ”と称している。なにも自分を神の子の再来などと大それた考えは持っていない。敬虔なクリスチャンであればあるほどそのような恐れ多い勘違いはしないものだ。ただ、神が遍在するのであれば気紛れに信徒へお告げがあっても良いのでは、と考えたまで。

さて、その日は夏の終わり。秋の始まり。そんな微妙な季節のこと。“主のお告げ”により、大寿は海にバイクを走らせていた。黒龍という暴走族の10代目総長を襲名し未だ日の浅い時分。やること、もとい潰すことが立て込んでいた忙しい時期だというのに、太陽がとっぷりと地平線の向こうに飲み込まれ闇が我が物顔で居座る夜に、無人の海岸にバイクを止める。おろしたてのブーツでシャクシャクと砂浜を踏み荒らし、穏やかな潮騒に耳を傾けていた。──その時。

とぷんっ。

微かな異音が海から聞こえた。じっと見ていたはずの海面に不自然な波紋が広がっている。大きな何かが海に投げ込まれたと考えるのが自然なほど、波紋は海面を掻き分け、乱し、そうして生命を産んだ。

女だ。
女が溺れている。

これも珍しいことに、大寿は何も考えずに砂を蹴っていた。着ていた赤い軍服の上着を砂浜に投げ、惜しげもなくタトゥーを晒して海に飛び込む。そうして幾ばくもしないうちに女を抱えて砂浜へと戻ってきた。「けほっ、けほっ」小さく小さく咳き込んでしばらく。落ち着いた女と目が合って、大寿は息を呑んだ。


「ぁぶないところを、助けていただきまして……なんとお礼を申し上げたら良いか」


淹れたての紅茶を思い起こさせる瞳を注いだ直後のように揺らめかせ、大寿を見上げる顔は白い。震える体に張り付く服は現代人にあるまじき古風な黒いドレスで、足首までのスカートが長細い脚に張り付いて形を露わにしていた。濡れた金髪を丁寧に払ってから女は慣れたように膝を軽く折り、つまめないほど濡れたスカートを諦めて礼をする。たったそれだけで女が特権階級の出であることが分かる洗練された動きだった。

……いや、いいや。そんなことであの柴大寿が驚くわけがない。真に驚愕したこと。それは女があまりに、──あまりに、笑顔だったから。

月明かりに照らされて、白を通り越して青くさえ見える顔色。それでもなお柔らかそうな目元や唇は穏やかな、慈愛さえこもっていそうな情を海水よりたっぷりと含ませて、大寿の肉食獣の相貌に感謝を捧げている。まるで自分が教会の十字架にでもなったかのような錯覚を与えてくるほど、女のソレは現実離れしていた。

現実離れした、美しさだった。

あの時、大寿がしたのは一目惚れ……ではなく、もっと別の何か。天啓──コレはオマエへの贈り物だと、“主のお告げ”だという誤想。

考えるより先に濡れたドレスの上から女の腕を取り、そのままバイクに乗せて家へと連れ帰ってしまった。後に大寿は懐古する。どれだけ総長だの化け物だのと呼ばれたところであの頃の自分は十代のクソガキ。惚れた腫れたをよく知らない一匹の坊主でしかなく。

ゆえに所有物として女を確保できたのも、まさしくカンの賜物だったのだろう。




***




花垣武道は帰宅途中、見慣れない人を見かけて思わず足を止めた。

一言で言うと金髪美女だが、それだとなんだか嘘を言っている気がしてしまう。金髪の外人ねーちゃんなんてボンキュッボンで唇真っ赤でフワァーオなイメージしか浮かばない。しかしその人は、なんというか、テレビでチラッと見たロイヤルファミリーのような、デで始まるアニメスタジオから抜け出てきたような。住宅街の一角でオロオロしているところなんてガラスの靴を落としたシンデレラにでも会ったみたいだ。普段は不良やら暴走族やらを目の当たりにしている分、あまりに現実離れしていて、ちょっとどうしようかとソワソワした。

ソワソワしている内に目が合った。碧眼のイメージは暖かそうな茶色い瞳で塗り替えられた。


「は、はろー?」
「Hello.ごめんなさい、お邪魔だったかしら?」


あ、普通に日本語しゃべれるんだ。ちょっとホッとした武道である。

足音を最小限に、長いスカートをあまり揺らさない足運びで近寄ってきた金髪美女。スラっと細い体躯は並べば武道より目線が上だし、他も意外とデカかった。さすが外人。感心したところで、ずずいと目の前に差し出されたのは、……携帯電話?


「連絡用にといただいたのだけれど、その、お恥ずかしながら使い方が不慣れで。電話はどうかければ良いのかしら」
「へ」


金髪美女は中学二年生の武道よりもかなり年上だけれども、中身の26歳の武道とあまり違わない風に見えた。携帯ネイティブ世代の大人の女がおばあちゃんみたいにおっかなびっくり携帯を持っている。困り眉で笑う美女はほっとけない美女でしかなく、人差し指でポチポチ慎重に押すところとかギャップ萌えだ。

わたわたと連絡帳を開いてもらって、いくつかの操作を教えると、同じ画面を覗いているから必然距離が近づく。フワッと香った花の匂いはドラッグストアで売っている柔軟剤とはワケが違った。

本当に、お姫様に出会ってしまった気分になった。

丁寧に膝を折り、スカートを摘んで目礼する。古式ゆかしいカーテシーだとはもちろん武道は知らない。

鼻の奥に残る繊細な香りとおっとり嫋やかな笑み。たった5分の出会いでも強烈に印象に残っていた。


「アッ!」


だから、黒龍の総長・柴大寿に肩を抱かれて座る彼女を見つけて声を上げるほど驚いたのだ。

八戒が東京卍會を辞めて黒龍に行くと言い出し、ソレを止めるために大寿と話をしようと黒龍のアジトにまでやって来た三ツ谷、千冬、武道。学生が借りているとは思えないマンションの一室に通され、リビングの応接セットのソファに大柄な体を預ける大寿。背後に控える九井と乾、そして大寿の横に座る金髪美女が目に入ったのだ。

細身の女と大柄な大寿。さながら美女と野獣、姫と魔王である。


「知り合いか?」
「以前に少し。困っているところを助けていただきました」


「その節はありがとうございました」座ったまま深々と頭を下げられ、武道は慌てた。大寿の眼光が恐ろしい鋭さを秘めていたから。リーゼントが崩れるほどブンブン頭を振る武道。困惑も露わな三ツ谷が「その人は?」と尋ねると、八戒が小さく呟いた。「兄貴のオンナ」大寿の眉がピクリと跳ねた。


「ウチの交渉役だ。無視しとけ」


交渉役、と言いながらもその後の話で美女が口を開くことは一切なかった。ニコニコと笑うばかりでずっとお行儀良く座っているものだから、そういう置物として途中からスルーしていた。


「おい」


だから、最後の最後に大寿が声をかけた相手が誰なのか、武道は一瞬分からなかった。


「確かに」


何が。三ツ谷と千冬と武道は怪訝な顔をして、八戒だけは険しく眉間にシワを寄せた。

それから淀みなく大寿と三ツ谷が握手をし、両者の交渉は滞りなく成立したのだった。




「あのオンナは黒龍の嘘発見器だ」
「嘘発見器ぃ?」


カラオケ店の一室。買収した黒龍の内通者の口から予想外の言葉が飛び出した。嘘発見器。頭に吸盤だかヘルメットだかをつけて電気でビリビリ、というあやふやなイメージしか浮かんでこない武道と千冬。


「聞いたことがある。黒龍の金回りの良さは柴大寿の暴力だけじゃねえ。口だけで上手く立ち回っている交渉役がいる。まるで心を読めるみてえに嘘も出まかせも通じないんだと」
「ンだそれ。超能力者?」


冷静な稀咲と茶化す半間。漫画みたいな話をし出した周りに武道は置いてかれた。千冬だって同じはずだ。


『おい』
『確かに』


ふと、三ツ谷との握手の直前の会話を思い出した。「も、もしかして……」アレは三ツ谷が嘘をついているか否か見極めたものだったのだろうか。あんななんでもない短い会話の裏では自分たちを信用するか否か蛇のように値踏みしていた。柔らかくて暖かいと思った美女の瞳が途端に不気味で恐ろしいものに思えてきて、武道は思わず服の上から腕をさすった。

お姫様は不気味な魔法使いのイメージに塗り替えられたのだ。

それから、それからもっとイメージが変わったのは……。



「テメェ……なにしてやがる」
「っ、ふ、ふふ、うふふふふっ」


十二月二十五日、クリスマス。

聖なる夜の教会で、大寿を殺そうと飛び込んできた柚葉のナイフが、大寿を庇った美女の腹に深々と突き刺さった。




***




大寿の次に女の存在を認識した人間は柚葉だった。


「適当に服を貸してやれ」


久しぶりに帰ってきたと思えば見知らぬ金髪の外国人を柚葉に押し付け、自分は自室に引っ込んでしまった。勝手で暴君で恐ろしい兄に何も言い返せない柚葉。残ったずぶ濡れの女を無言で風呂場に押し込み、粛々と着替えを持って脱衣所に戻ってきた。洗濯してやろうと拾い上げた服は舞台衣装のように時代錯誤なドレスで、どこにもタグがついていない。正真正銘の手縫いのドレス。そして下着がレースと綿を合わせたようなキャミソールにほとんど布のパンツとくれば、「タイムスリップしてきたお姫様かよ」とありえない感想が頭に浮かんだ。まさか、そんなわけ。


「あの……」
「! なに。もういいの」


ソッと開かれた浴室のドアの隙間から赤茶色の瞳が覗く。つまみ上げたままだった下着を慌てて洗濯機に放り込み、なんとか体裁を整える。入って十分しか経っていない。金髪は洗うのに苦労しそうな長さなのに、こんな短時間で上がってくるものだろうか。タオルの場所、服のこと、下着は貸せないからキャミで我慢しろなど、言いたいことは全部言ってさっさと廊下へと逃げ込んだ。

大寿が家に女を上げるのは初めてのことで、少し複雑だったのかもしれない。ついに女遊びまで覚えたのかと。あの潔癖のきらいがある大寿が、柚葉と八戒のいる家で女を抱くのかと。生理的な嫌悪が湧き出して、その夜はヘッドホンをつけて眠った。

次の日の朝。休日だったこともありのんびりと起床した柚葉を待っていたのは、リビングのソファで雑誌を読む女だった。


「あら、おはようございます。よく眠れまして?」


ゆったりシルエットのトレーナーとジーンズ。柚葉にはピッタリでも女にはやや寸足らずで、ほっそりとした手首足首が露わになっている。


「兄貴は?」
「兄……? あなた、タイジュの妹さんでしたの?」
「なんも聞いてないの?」
「ええ、しばらく自由にしていいとしか」


冗談じゃない。


「ここはアタシたちの家だ。住むんならそれ相応の仕事をしろっての」


勝手にやってきて家の中を荒らされるなんて納得がいかない。苛立ち混じりに吐き捨てたのをすぐに後悔した。



「アンタ掃除機の前で何してんの?」
「いくらボタンを押してもつかなくて。変なところを押してしまったかしら」
「コンセントついてないじゃん」
「コンセント……?」

「あーあー皿洗いはいいって食洗機があるんだから」
「食洗機? とはなんでしょう?」
「は?」

「やめろやめろその凶器いったん置け」
「え……ですが、お食事を」
「いいってデリバリー頼むから! うちの包丁にアンタの血をつけるな!」


この女、家事が全くのドシロートだった。

コンセントが刺さってない掃除機の前にしゃがみ込んで首を傾げるわ、ありえないところまで泡だらけにして皿を洗うわ、殺人鬼も真っ青な持ち方でネギを切ろうとするわ。やることなすこと空回っている。箱入りどころの話じゃない。変わらぬアルカイックスマイルを貼り付けて口だけは困った声を出している。電化製品の扱いすらおぼつかないなんて思わなかった。


「どこのお嬢様だよ」
「……ええ、まあ、否定はできませんね」


おっとり微笑んで頬に手を添える美しい女。顔にも手にも傷一つない滑らかな肌。きっと暴力なんてものとは一切関わりのない世界で生きてきた。柚葉と八戒と違って。

舌打ちが漏れた柚葉。女はやっぱり笑顔のまま、眉ばかりが情けなく垂れ下がっていた。


「私の分のお食事は結構です。お邪魔にならないところにいますね。──ご家族の方も、私がいては気が休まらないでしょう」


読みかけの雑誌を手に大寿の部屋に引っ込んだ女。ご家族、のくだりで昨日から知らない女の気配に怯えていた八戒がそろりと顔を出した。いつの間に近くまで来ていたのだろう。どうして、あの女はすぐに八戒の存在に気が付いたのだろう。


「ゆ、柚葉、あの女ダレ?」
「大寿の女」
「ええ!? まさか、ずっとウチにいるの!?」
「大寿次第だろ」
「そんな……」


この世の終わりと言わんばかりに頭を抱える弟。苦手な女と一つ屋根の下は流石に酷だ。どうにか鉢合わせないように調整しなければ。柚葉の家での仕事が増えた瞬間であった。

肩を落とした柚葉だったが、予想を裏切って女は大寿の部屋から一歩も外に出なかった。大寿とよろしくやりすぎてベッドの住人、ならまだしも部屋の主人たる大寿がそもそも帰ってこない。もしかしてとトイレットペーパーの減りや冷蔵庫の中身を確認すれば一切変化なし。食事も排泄も、風呂すら入らずに大寿の部屋に篭っている。サァーッと血の気が引いた。お嬢様が柚葉の言葉を曲解して大寿の部屋で餓死。慌てて暴君の部屋に踏み入ったのは女が家にやって来て四日目、思い至った柚葉が帰宅した放課後のことだった。


「あら、おかえりなさいませ」


果たして、女は生きていた。最後に見たのと同じトレーナーにジーンズ。サラサラの金髪をゆるく結んでデスクチェアに腰掛けている。膝には大寿が置いている聖書が半ばほどで開かれたまま置かれていた。


「なんだ、アンタ、ちゃんと風呂入ってる、じゃん」


不潔さなんて一切ない完全無欠のお嬢様。髪には脂っぽさもパサつきもなく、反対に頬や唇には潤いたっぷり。絶食状態の人間にはどうしたって見えない。きっと柚葉や八戒の目がないうちに食事も入浴も済ませていたのだろう。心配して損した。ドアノブに縋りながらずるずると床にしゃがみ込む柚葉。女は慌てて近くにまで寄ると同じようにしゃがんで目線を合わせてきた。


「心配してくださったの?」
「そりゃ、アンタになんかあったらアタシが大寿に殺される」
「まあ」


何が「まあ」だ。全然驚いていない表情で口元を手で押さえる女。空気の読め無さが腹立たしい。


「これからは日に一度くらいお顔を見せましょうか? ご家族がいない時間の方がよろしいかしら」
「そう、かも。そうだね、八戒は女に免疫がないから」
「ハッカイさん」
「アタシの弟」
「では、あなたは?」


まとめていた金髪の毛束が薄い肩の上を滑る。シャラシャラと涼やかな音が聞こえて来そうなほど、この世のものとは思えない淑やかさで女が首を傾げた。柚葉は、そういえば女の名前を知らない事実にやっと思い至った。


「柚葉。柴、柚葉」
「ユズハさんね、私は、」


名前。金髪美女には似合わない純日本的な名前はすぐに柚葉の中に溶け込んだ。

名前は関われば関わるほど不思議な女だった。どこからどう見ても外国人な見た目で日本語がペラペラなのもそうだし、生活感が一切感じられないのも不気味だ。大寿が連れてきた金髪美女、というよりかはどこぞから攫ってきたと言う方が妥当な深窓のお嬢様っぷり。小さい頃に母が読み聞かせてくれた絵本のお姫様みたいに言動に品と優しさが滲んでいる。そしていつ何時もその口元から笑みが消えることはなかった。


「ピザ、食えないの?」
「いえ」


みょーんと伸びるチーズをはむはむ追いかける柚葉。それを微笑ましく見やる名前。その手には一口も齧られていないピザが一切れ。いつ食べているのか分からない状態が気にかかり、八戒の帰りが遅い日だけデリバリーを一緒に食べようと提案した柚葉。歯切れ悪く頷いた名前は、似合わないピサに困惑しているようだった。


「私、あまり食事を取らないもので」
「一日一食とか? やめときなよ、病気になるよ」
「そう、ですね」


意を決してピサを一口。みょーーーん。噛みきれなかったチーズが柚葉のより伸びる伸びる。目を丸くして寄り目で見つめるお嬢様。あまりのミスマッチに柚葉は口の中のピサを噴き出しかけた。寸でのところで耐えたものの、名前はいまだにチーズと戦っている。家事ができなかったりピサに慌てたり、得体の知れない美女の得体が知れていく感覚は、柚葉の頑なな心を少しずつ解していった。


「アホヅラ」


家で一緒にご飯を食べてくれる女は、死んだ母以来だったから。

それから少しずつ、柚葉は名前に家事を教えた。電化製品の使い方を教えて、ドラマや映画を教えた。三ツ谷に連れられて八戒がいない日か、夜に人寂しくなった時。大寿の部屋に近付くと足音を聞きつけた名前が勝手に出てくる。「どんなマジック?」「人の気配に敏感なだけよ」やや砕けた口調になった美女を、柚葉は少しだけ母のようだと思った。歳はおそらく離れていても十かそこら。姉と言う方が近い女性に対して、亡き母を重ねたのは何故だろう。生活力が皆無なくせに喋り口調がどうにも落ち着いているせいだろうか。

ある日、辛抱たまらなくなった柚葉は直球で今まで口にできなかったことを尋ねた。


「大寿とどんな関係?」


彼女? 愛人? セフレ? ヨメ?


「危ないところを助けていただいたの」
「……大寿が? 人助け?」


ピンと来ないにも程がある。猫のようなつり目をまんまるにして、「大寿、人助け?」そもそも助けた人間をどうして拾って家に住まわせるのだろう。名前が来てそろそろ一月になる。大寿は家に帰ってこない。いや、名前の言う通りなら平日の日中にちょくちょく顔を出しているらしいが、柚葉たちが帰ってくる頃にはもう外に出ていた。目的が見えない。どうして、何のために。

もごもごと混乱する柚葉に、名前はコロコロと喉を鳴らした。


「ユズハさんは、タイジュが大好きなのね」
「────は?」


大寿が、大好き?

聞き慣れない異国語を急に投げかけられたのかと思った。それだけ飲み込めない単語が微笑みの女から善意たっぷりに差し出されたから。


「タイジュがどうして私のような年増を拾ったのか、不思議で、心配なのでしょう? お兄様のことをたくさん考えているのね」


──お兄様が、大好きなのね。

重ねて重ねて重ねて重ねて。頭の中でぐるぐる巡る単語。大好き、だいすき、ダイスキ──────。


『なんで八戒に手ぇあげてんだよ!? 約束が違うじゃねぇかよ!!』
『約束?』

『そんなモンで家族をタテにしてやがったからよぉ。オレが躾けてやったんだ』

『二人共こっち来い!! オラ!!』



「家族だもの。素敵なことだと思うわ」



────あんなクソ野郎、大好きなモンか。


「家族だからって、無条件に好きになれるほど単純じゃねぇよ」
「そうかしら? 結局どこまで行っても家族は家族でいるものよ。血が繋がっているのならなおさら、」
「なんにも知らないくせに」

「キレイゴト言ってんじゃねぇよ、偽善者」


頭に血が昇っていた。お綺麗なツラでお綺麗な体でお綺麗な境遇で。何も知らずに無神経にお綺麗な言葉を吐く。それが柚葉にとってどんなに醜い凶器かも知らないで、無遠慮に振りかぶって、傷口に刺し入れて。切り裂かれた肉から血が出たことにやった本人が驚いている。反吐が出そうだった。

実際に吐き出してしまった鋭利な刃はお綺麗な微笑みに傷一つ付けられなかった。それどころか珍しく柚葉が起きている時間に帰ってきた大寿が荷物をまとめさせることなく名前を連れ出して、それっきり。

美しい金髪の女は二度と柴家に帰って来なかった。

風の噂で黒龍のヤバい仕事を手伝わされていると聞いたが、あのお綺麗すぎるお嬢様に何ができると言うのだろう。まさかハニトラなんかかけさせているのでは、という疑惑はガッシリ巻きつく大寿の腕によって否定される。外で遠目に見たあの女は大寿に執着されているようにしか見えなかった。どうしてあそこまで手元に置きたがっているのだろう。あれでは柚葉から近付くことなんてできっこない。

謝りたいなんて一ミリも思っていない。自分が言ったことは何一つ間違っていない。あんな世間知らずの箱入りなんてどうなったって構うもんか。何度となく悪態をつけても、二度と会いたくないとは口が裂けたって言えなかった。


『ユズハさんは、大寿が大好きなのね』


普段の微笑みであることは変わらないのに、妙に目にこびりつくあの暖かな表情。


“アタシだって、あんな兄貴じゃなきゃ好きになりたかったよ。”


トチ狂ったもしもが頭に浮かぶくらい忘れ難かった。




「っ、っ、ぁ、」


布に押し込む。れる。皮膚に押し込む。斬れる。骨に押し込む。切れる。内臓に押し込む。切れる。ぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶ。切れた感触が手のひらに残っている。ナイフの刃から柄を伝って柚葉の皮膚に残り続けている。

人を刺した。言葉で傷付けられた相手をナイフで傷付けた。

大寿を殺すはずだったナイフが突き刺さったのは、黒龍の特攻服に似た白いケープコート。その下のドレスシャツを簡単に突き破って腹筋なんてない腹に侵入した。骨や内臓を掻き分けて、無遠慮に。

八戒を、花垣を助けに来たはずだった。大寿を殺すつもりだった。なのに柚葉は、大寿を庇った名前を、柚葉はナイフで、ナイフで、ナイフ……っ!


「どうして、」
「ごめんなさい」


薄気味悪い笑い声を立てた後、ナイフよりも鋭い大寿の視線を浴びたまま、名前は柚葉を抱き締めた。柚葉の手はナイフから離れていない。いまだ抜けきらない衝撃で固まる十代の少女の体を一方的に包み込む妙齢の女の嫋やかな肢体。不思議と血の臭いはしなかった。ただ空々しいほどに上品な花の香りばかりが強張った身を解きほぐそうと漂っている。

何がごめんなさいなのか。何に対して謝っているのか。


『結局どこまで行っても家族は家族でいるものよ。血が繋がっているのならなおさら、────


「“きっと分かり合えるわ”」


祈り。十字架を見上げる信徒のように、囁きは柚葉の耳に注がれた。


「私の勝手な願望よ」
「ぁ、はやく、救急車、よんで、」
「良き娘にも妹にも叔母にもなれなかった。母になんて一生なれない。それでもと願わずにはいられなかった私のワガママ。叶うことは、なかったの」
「だれか、花垣、きゅうきゅ、しゃ! 早く!」
「ごめんなさいね、ユズハさん」


刃を全て飲み込んだ腹で身を寄せる女。痛みも苦しみもないいつも通りの微笑みに、ほんの一滴の悲しみを滲ませて。柚葉の背に回った腕がさらに強まった。


「あなたみたいな娘がいたら、なんて」


何言ってんのか分かんねえよ。

両手が塞がっていなかったらきっと抱き締め返すことができた。ナイフを持ったまま、名前を刺したままの手ではどうしたって無理な話だ。抱き返して、甘えて、ごめんなさいと謝ることはできない。一生できない体に柚葉はなってしまった。

大寿の女じゃなきゃアンタのこと友達だと思えたのに。

名前の肩越しに青筋を浮かべる大寿が近づいてくる。柚葉は自然と歯を食いしばった。


「どけ」
「タイジュ」
「兄弟を憎むものは人殺しである。兄に刃を向けた柚葉はもはや人殺しも同じ。オレは神の試練に応えねばならない」
「妹を殺せばあなたは救われるの?」
「乗り越えてこその試練だ」
「違うわ。ぜんっぜん違う」


「家族を殺せと唆す男が神なものですか」


『八戒が大寿を殺す前にテメェがカタを付けろ。八戒を守ってやれ』少し前にそんなことを言ってきた男を思い出した。…………稀咲鉄太。ああ、アイツにアタシは利用されたのか。いいように使われて八戒も花垣も劣勢に立たされている。アタシは死にかけている名前に慰められながら惨めに祈るしかなかった。死なないで。アンタを殺したくない。

誰も殺したくなかったんだ。

ボロボロと落ちる涙が白いコートの肩口に吸い込まれていく。その時、背後から頭をポンと撫でられた。


「下がってろよ、柚葉」
「三ツ谷……なんでここに」
「携帯持ってるか? まず救急車呼んで、コートかなんかで傷口押さえてろ。大寿くんはオレがなんとかすっから」


腰の力が抜けた。女二人分の体重で寄っかかってしまったのに、三ツ谷は軽く受け止めて花垣を呼び寄せる。ふらふらと下がったところで、携帯を取り出した手を捕まえる白い手が。


「いいの」
「名前、ごめん、アタシ、ごめんなさ、」
「いいのよ、いいの。何もいらないから、このままで」
「このままって、死ぬ気なんスか!?」
「うふふふ、……死ねたら、どんなに楽かしらね」


長椅子に寄り掛からせた名前が不気味な笑い声を上げる。そこからおもむろにナイフの柄を掴み、ゆっくりと傷口から引き抜いていく。柚葉も花垣も悲鳴を上げた。血が噴き出すかに思えた腹部は一瞬じんわりと赤色を広げただけで、すぐに巻き戻しボタンを押したみたいに元の白いコートに戻っていった。──コートに空いた穴の奥、名前の腹部には滑らかな白い肌だけが何もなかったように残されていたのだ。



「ね? 本当は刺さっていなかったの。ユズハさんが謝る必要はないのよ」



コート以上に白々しい嘘だと、指摘する術を二人は持っていなかった。





「アンタのこと、ママだとはどうしても思えない」


大寿が総長を辞め、黒龍が死んだ。全てが終わった後、一度だけ柴家を訪ねてきた名前に、玄関先で柚葉は告げる。

もう白いコートを着ていない。大寿が買い与えたであろうクラシカルなドレスワンピースを着こなす美女。その隣には大寿はいない。どうしたのかと聞くのは野暮だと思った。


「そうね、その通りね」


相変わらずの微笑。あんなことがあったとは思えない軽やかな雰囲気。その中にはやはり一抹の寂しさが浮いて見える。

寂しさ。母を亡くし、大寿が暴力に目覚めてから恐怖で塗り込められてきた感情。目に見える脅威が去った今、母の墓前でしたお願いがじんわりと頬を染め上げた。

『いつかまた、ギュってしてネ』


「ギュってして」
「あら?」


無言で腕を広げるとあの時と同じように身を寄せて背中に回った腕。柔らかい肢体。胸に合わさる別の胸。落ち着かない花の香りを鼻腔いっぱいに吸い込んで、吐き出す。温かい。どういうわけか無傷だったけれど、この体を刺したのは柚葉だ。傷つけたのは柚葉で、傷つけさせてくれなかったとも言える。刺された事実なんて無理やりなかったことにした女の背に、震える手をゆっくり添えた。暖かい。どこもかしこも暖かい、人間の体温。

不思議で不気味な柚葉の、


「ママは本当のママひとりだけどさ、友達ならいいヨ」


歳の離れた、ママみたいな友達。


「私、ユズハみたいな友達が欲しかったの。嬉しいわぁ」



いつか義姉になるかも知れない、柚葉の友達だ。









「それで、アンタって結局なんなの?」
「何、とは?」
「天使? 妖精? 妖怪? おばけ?」
「一応人間のつもりなのだけど」


「人間は刺されてもすぐ治らないんだよ」手を握ってそっと説き伏せると、「まあ……」と困り眉を下げる。この時の名前はまるで途方に暮れたおばあちゃんのようだった。




***




 「光の中にいる」と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。
 兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。
 兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである。(ヨハネの手紙第一:2章9-11節)



名前と名乗った女を大寿の家に匿ってから四日。深夜に帰宅した大寿は2階のトイレの明かりが着きっぱなしであることに気付いた。また八戒が消し忘れたのかと、小学生から変わらない無作法に青筋を立てたのは一瞬。扉越しにかすかに聞こえた嗚咽。高い女の声。ノックも忘れて開け放ったその先で、四日前に拾った女が喉に指を突っ込んで嘔吐していた。


「何をしていやがる」
「っ、ぁ、まあ、女性のお手洗いを覗くなんて、」
「何を食わされた」
「何も。おかしなものは食べていませんよ」


口元をトイレットペーパーで拭い、変わらず柔らかい笑みを浮かべる美しい女。邪魔にならないようにまとめていた金髪が解かれ、朝焼けの光のように優しく広がる。食べつけないものを食べて気分が悪くなったのかと、その時は流していた。

女が軽く口を濯いでから大寿の部屋に入っていく。それに続いて扉を閉めれば、己の部屋は随分と様変わりしていた。いや、見た目は何も変わっていない。本棚の本とデスクチェアの場所がずれているだけで、ベッドもクローゼットも何も変化していない。ただ、見慣れた部屋の真ん中にひとり、金色の光が立っているだけで落ち着かない気持ちにさせらる。この部屋にこの女は浮く。もっと相応しい部屋が必要だな、などと見当違いの思考が脳を滑った。


「おかえりなさいませタイジュ。それで、私はあなたのために何をすればいいのかしら」


大寿は珍しく喉にものが詰まったような心地になった。なんの目的で連れてきたのかなんて、そんなこと大寿の方が知りたかった。

拾った初日に女への尋問は終えていた。どうしてあそこにいたのか。どうして何もないところから海に現れたのか。どこから来たのか。ほとんどが『わからない』で返ってきた無意味な時間だった。女を家に送り届けてすぐ大寿は九井からの電話で別件に駆り出されるハメになったし、なんやかんや暴れ回っているうちに四日も過ぎていた。

時間を置いて冷静に見れば女に対する興味も失せているだろうか。そう楽観視して帰ってみればこのザマだ。あの柴大寿がただの女ひとりを前に黙り込んでしまった。いっそ腹立たしささえ感じ、おもむろに赤い上着を脱ぎ去った。


「来い」
「ぁ」


腕を取られた女が大寿のベッドに沈む。金髪がシーツの上に広がり、見上げる紅茶色はぬらぬらと怪しげな光沢を帯びて。先ほどまで嘔吐していた唇を見ても嫌悪より先に欲が掻き立てられた。そうか、オレはこの女を抱きたいのか。一瞬の直感。首筋に牙を突き立てようとする様は肉食獣の捕食となんら変わりなく、貪られる直前の獲物である女は無抵抗に──「ふ、ふふ、うふふふふふ」笑った。


「何がおかしい」
「タイジュ」


“タイジュ”と、少しおかしな発音は女が外国人であることをまざまざと知らしめてくる。ネイティブに近い日本語を扱い、純日本的な名前を名乗っているくせに。耳慣れない“タイジュ”を聞くと、服の上を弄っていた手がピタリと止まってしまった。主人に待てを突きつけられたペットのようだ。


「言い忘れていたけれど、私、本当はおばあちゃんなの」
「アァ?」
「この身は二十代で止まっているけれど、正真正銘、八十は過ぎた年寄りよ。そんな女を抱く趣味があなたにはある?」


何を馬鹿げたことを。

大きな大きな、女の頭なんてすぐに握り潰せる手のひらが名前の顎を掴む。手触りの良い珠の肌が大寿の無骨な指を押し返してくる。若い女のよく手入れされた肌。毛先まで枝毛の一本もない金髪。すらりと伸びた四肢。柔らかく大胆にトレーナーを押し上げる胸と尻。どこをどうとっても極上の美女で、深窓の令嬢で、若い女でしかない。けれどその表情だけが困った子供を見下ろす母親のようだった。

見下ろしているのは大寿の方なのに。


「疲れているのね。それに、気が立っている。眠れなくて辛いのでしょう? こちらにおいでなさいな。私でよければ寝かしつけて差し上げましょう」


ポンポン大寿のベッドを叩く名前。そこはオレのベッドだ。などという気力もなく、無言で言われるがまま女の隣に体を寝そべらせた。足元にわだかまっていたタオルケットを引き上げて肩まですっぽり覆ってしまうと、鼻歌のハミングが小さく小さく始まった。ガキ扱いしやがって。悪態をつく前に、精一杯背中に回った腕が宥めるようにポン……ポン……と。

母が生きていた頃は、大寿にもこんな時間があったのだろうか。

眉間のシワが徐々に解けていき、強張った筋肉がゆっくりとスプリングに沈んでいく。そうして次の日の昼間まで大寿は深く眠り込んでいた。このやりとりがかなり頻発することになるのを、この時の大寿はまだ知らない。


「本気で言ってやがるのか、八十だのなんだのと」
「ええ、私は嘘をつきません」
「嘘だな。嘘つき野郎の空寒いツラだ」
「まあ」


口に手を当てて笑う。詐欺師のようでも、揶揄うのを趣味にしている老人のようでもある。本当に長生きしたババアかも知れないと魔が差すほど、名前は大寿に言葉遊びを投げかけた。ぶん殴らなかった大寿がおかしいのか、戦意を削ぐ空気を相手が意図的に出しているのか。いつの間にか柚葉まで籠絡し、次は八戒かも知れないと考えつくと、大寿は早々に女の居城を移すことに決めた。黒龍の使っていないマンションの一室に女を移した。以降、大寿の足は自然とそちらに向くようになり、家に帰る頻度はグッと下がった。


「ボス、あの女はヤベェ」
「どうした九井。テメェも遊ばれたか?」
「遊ばれたのはウチの下っ端ですよ」


なんでも大寿が気にかけている女に悪戯してやろうとちょっかいをかけた下っ端が言葉でコテンパンにされたのだとか。


「あのお上品な言葉でどうやって傷付くってンだ」
「なんでも、思ったことを全部言い当てられたとか。まるで心が読めるみてぇに」
「……心が、読める?」


『この身は二十代で止まっているけれど、正真正銘、八十は過ぎた年寄りよ』あの時の冗談が何故だか急に頭に浮かんだ。そんなバカな、と否定し切れるほどに女のことを大寿は知らない。何が大寿の琴線に引っかかったのかすら分かっていない。それでも、あり得ると頷けるほどの底知れなさが女にはあった。


「聞いてみるかァ」


果たして、名前は本当に心が読めた。読もうと気を張り巡らせた時ばかり、人の上澄の言葉が読み取れるのだと。これに目をつけたのが守銭奴九井で、交渉の場で相手の嘘を見破る装置として女は有効活用されることとなる。交渉の場に連れ立たせるために名前は大寿の女として広く知らしめる結果になった。

黒龍の特攻服に似た白いケープコート。初めて会った時の服によく似たドレスシャツと黒い足首までのワンピース。金髪を背中に惜しげもなく流した美しい女は、大寿の女にしては大人しすぎるお嬢様だった。普通なら怯えるなり泣くなりする。けれど大寿が肩や腰を無遠慮に抱いても恐れず穏やかに微笑み身を預ける胆力。時が経つにつれ流石大寿の女と恐れられるようになっていった。

馬鹿馬鹿しい。


「オマエはなんなんだ」


夜。ベッドに寝そべる大寿を寝かしつける名前。隆々とした肩を撫でさする手は傷一つない。


「質問が曖昧ねえ」
「存在自体が妙なんだよ」
「まあまあ」


くすくすと笑う様はまるで少女のよう。ずっと笑っているくせに、たまに今が本当に笑っているのか真顔なのか分からない時がある。不気味だと思うことが多々あるというのに、大寿はこの女がそこにいるとホッとしてしまう。海に突然現れたように、突然姿を消すかも知れない。そんな曖昧な女が、この世に存在する愛情とはこういうものなのだと言わんばかりに。

神は遍在する。愛は天から注がれる。教えとは光となりしるべとなる。


「聖母マリアは将来を誓った相手がいるというのに天使に告げられて清いまま神の子を授かった。婚前交渉は外聞が悪い時代に、夫となる男がそばにいながら姦通の罪を被せられる瀬戸際で、馬小屋で子を産んだ」


だからこそ、マリアは信仰の対象になり得る。


「私はその逆ね。いくら子種を注がれたところでこの腹は子を孕めないの」
「ハッ! 八十過ぎのババアだからか?」
「いいえ、そういう体なの」


うっそりと、眉を下げ、頬を和らげ、唇を寛げて。ベッドに寝そべったまま、妖しい女の色香を撒き散らかしながら。名前は悲しげにホントウを口にした。


「二十代のある日から私の体の時間は止まったまま。老いも傷付きもしない、胃液は分泌されないし、生理は来ない。溢れた血は元あった場所に戻っていく。そういう体で、六十年生きてきたのよ」


ブチリ。子猫のような牙が己の唇を突き破る。ぷっくりと膨れた血の玉がたらりと白い顔を伝ってシーツに落ちた。その瞬間、逆再生されたかのようにシーツの赤が吸い取られ、唇の傷へと吸い寄せられた。瞬く暇もなく唇の傷は無くなっていた。大寿が親指を這わせても血の残滓すら触れられなかった。


「私、人間じゃないのよ?」


──怖いでしょう?

聞こえてきた幻聴に、悍ましさより先に湧き上がったのが、怒りだった。この女は今頃になって何故だか大寿を突き放そうとしているらしい。これしきのことで大寿が怖がって離れていくと、本気で。


「寝ぼけたこと言ってンのはこの口か?」
「は、っ?」


アーー。大口を開けて大寿は名前の口に食らいついた。いっそ唇ごと飲み込んでしまう勢いで塞ぎ、牙を立て、傷つける。血の味がしないほど素早く閉じていく傷は、タネも仕掛けもないホントウだった。

この女は、ずっとホントウのことを言っていた。

それを額面通りに受け取れなかったのは大寿の器の小ささ。度量のなさだ。どんなに体が大きくても大きなチームの総長でも。女の言葉一つ受け取れなかったなど恥ずべき失態だった。


「どんな化け物だろうと人間だろうと関係ない。オマエを拾ったのはオレだ。オレが、オマエの持ち主だ」


大寿の唾液でテラテラと濡れる唇は半開き。微笑みは最低限のカーブで維持されていて、やっとこの女の素の表情を見れた気がした。予想外の事態に現実が見えていない、夢現な視線が大寿の胸の内側をくすぐってくる。ドレスシャツのボタンにそっと指を這わせた。

ぺち。思わぬしっぺが大寿の手の甲に襲い掛かった。


「オイ、」
「だめよ」
「……まだ何も、」
「イヤ」


こんな時に心を読みやがって。

ほとんど真顔に近い顔で拒絶してくる名前は、大寿の顔に枕を押し付けてくる。あからさまな拒絶を突きつけられ、無理強いするのも憚られ、大寿は眠れない夜を過ごすことになった。

手元にあるのだから、いつかはそんな時が来るだろう。大寿としては珍しく“待て”をしてやったというのに。




『やっぱりダメね。私たち、分かり合えないわ』


大寿の前から名前は去って行った。

分かり合いたかった家族がいたと言った。結局分かり合えなくて先立たれたと言った。分かり合える機会があり、まだ生きている家族がいるのに、殺そうとした大寿が名前には受け入れがたかったのだと。


『どうしても重ねてしまうの。甥っ子を思い出して、悲しくなるわ』


甥っ子に抱かれる趣味はない、だと。

オレはテメェの甥じゃねえ。反論してやれるほどの気力が大寿に残されていなかった。黒龍が敗れ、九井と乾が去り、弟妹が育った。大寿の居場所はどこにもなかった。

一度くらい、無理やりにでも抱いておけば良かった。

何年経っても、どんな女を抱いても。ある時ふと思い出しては心が十六のガキに戻る。あの女はまだこの国にいるだろうか。あの体のまま、歳を取ることもなくこの街を彷徨っているのか。それともかつての大寿のような止まり木を見つけて飼われているのか。

十二年経った。八戒が殺され、毎日毎夜教会で祈りを捧げる。ステンドグラスに描かれた聖母マリアは変わらぬ顔で人々を見下ろしている。天使は空を、主を見上げ。“主のお告げ”は大寿に齎されない。


「ドゥルシネーア……名前という女性のことを、覚えていますか」


花垣武道が連れてきた警察野郎の口から、あの女の名前が出るまで。




***




「待ってくださいタケミチくん。十二年前の黒龍にあの女がいたんですか!?」
「あの女?」
「ドゥルシネーア。──“神の眼”。東卍でまことしやかに囁かれている重要人物ですよ。金髪の外国人女性ということ以外は一切不明。分かることと言えば、あの女の噂が聞こえてくる間、各国のスパイが軒並み炙り出されて殺されたこと。ドゥルシネーアの出現で東卍はさらに手が付けられない組織になりました」
「そんな……あの穏やかそうな人が……?」

「いいですかタケミチくん。十二年前の時点でドゥルシネーアの存在は確認されていません。その後、東京卍會、もしくは稀咲鉄太との接触で現在の凶悪な組織形成に関わっている可能性が高い。過去に飛んで、東卍とドゥルシネーアとの関係を絶ってください。それが君への追加ミッションです」




***




「会わなくていいのか、ドゥルシネーア。昔の男だろ」
「何年前の話をしていらっしゃるの、稀咲さん」
「この女にそんな情があるわけねぇだろ。なんせ血も涙もねぇバケモンなんだ」
「そう言うなよイザナ。東卍への忠誠は本物なんだから」

「あら、大寿は乾さんと九井さんの方に残ったみたい。ターゲットは裏口から出てきます。ここに来るまであと、十八秒」
「便利だなァ。テメェの超能力」
「おかげで裏切り者の炙り出しも楽になった」
「頼りにしてるぜ、ドゥルシネーア」

「……ええ、誰かの役に立てて、とっても嬉しいわ」



────でも、そろそろ飽きてきたわね。






久しぶりのドゥルさんでした。大寿夢のつもりで書いたんですが、あんまりですね……。

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