誓えないなら目を閉じて



赤井秀一が諸星大という名で宮野明美に近付いてそろそろ一年になる。

上から言われたことをやるだけの下っ端から、使える構成員、そしてコードネームを与えられるほどの地位になった頃。明美の話題に一人の女の名前が上るようになった。

穂波シエ。歳は二十。二年遅れで入学してきた同い年の女を、明美はたいそう気に入ったようだった。最初は特に気にもしていなかったが、あまりにも彼女が親しげに話すものだからとりあえず会うことになってしまった。面倒だと思いつつも、彼女の恋人としての役割上断ることもできない。軽く挨拶をしてすぐに切り上げよう。その時は組織に溶け込むことに重きを置いていたために深く考えてはいなかった。


「穂波シエです」


自己紹介はお互いに簡潔だった。ヘラヘラと笑っているくせにやかましい印象は受けない。動きやすい格好をしているが足さばきは長いスカートでも履いているかのように控えめで、どこぞの箱入り娘のように丁寧な仕草をする。金持ちの家の娘か。それにしては崩れた口調で今時の若者らしい。職業柄、相手のことをいちいち観察してしまうのは仕方ないだろう。諸星大なりの愛想を浮かべながらも、一応の警戒は怠らなかった。

だからだろう。赤井は彼女の奇妙さに少しずつ触れていくことになる。

穂波シエの周りは少々きな臭い。

普通に友人として接する人間と、羨望を向ける人間。そして信望する人間。前の二つは学年はバラバラなものの同じ大学という接点がある。だが最後の人間は大学との関係は一切ない。そこらの喫茶店の店員や中小企業の会社員、学校をサボりがちな高校生にゲートボールに勤しむ老人。無職のホームレスから大病院の理事長まで幅広い職種、年齢、男女問わず彼女と何らかの繋がりを持っていた。

週に三、四回。年頃の違う人間と会う彼女。三時間ほど茶を飲んで、それで終わり。決してホテルなどといったいかがわしい場所には行かないで、ずっと喋っているだけの和やかな雰囲気。あまりにも何もなさすぎると、赤井はたまたまを装って彼女と見知らぬ誰かが会っているところへ行ったことがある。その時の相手は四十手前のスーツ姿の男。兄弟というには年が離れているし、親子にしては少し無理がある。何より男の表情がただごとではない。友人や家族に向けるにはいき過ぎた好意をありありと浮かべていたのだ。二十も年下の若い女に、愛人に向けるには些か盲目すぎるそれを。例えるなら、犬が主人からのスキンシップを待っているような……。


「奇遇だな」
「すごい偶然ですね」
「そちらは君の……」
「ああ、こちら私のバイト先によくいらっしゃるお客さんで。ヒマな時に趣味の話とかよく聞かせてもらってるんですよ」
「趣味?」
「写真ですって、ねー?」


最後だけ相手の男に首を傾げると、相手は満面の笑みで頷いた。母親に素直な子供か。シエは普段の、諸星大や明美と話す時とまったく変わらない砕けた敬語を使っている。ヘラヘラとした顔は確かに安心感と親しみを感じるだろうが、年上の男に腹を見せられるほどの手腕は見えない。ならばこれは、無意識のことなのだろうか。何も意識せず、何も狙わずに、人格から魅了する。そんな人間がこの凡庸な存在だとでも言うのか。

僅かな引っかかりだった。だがなんの拍子で足元をすくわれるか分からない。赤井は組織での仕事の合間、内密に彼女の調書を作ることになる。書類は呆気ないほど簡単に彼の手元に出来上がった。

穂波シエは三年前、十七の時に行方不明となっている。家出の線は考えられず、誘拐の可能性が色濃く出たものの、手がかりは全くのゼロ。神隠しだのなんだのと噂になるほど、一人の女が煙のように、消えた。そしてその二年後、今から一年前に彼女は記憶喪失の状態で東都のとある港で発見されたのだ。外傷はゼロ。精神は安定しており会話は通じる。だが今まで生きてきた自分に関する記憶をごっそりと失っていた。覚えているのは自分の名前のみ。結局犯人に通じる手がかりは見つからず、事件は迷宮入りとなった。

穂波シエの両親は娘が消えたことに心を病んで心中。家に自ら火を放ち全ての記憶は灰になった。彼女の家族も、帰る場所も、この世のどこにももうない。

果たして、こんな馬鹿なことがあるだろうか。こんな、“成り代わるのにうってつけな事件”が。赤井の疑念は膨れ上がる。

明美に付いている監視は彼女に反応を示さない。明美も彼女が組織の人間ではないと言っている。彼女が組織から送られてきた諸星大への監視だとすれば、赤井はボロを出さないように注意しながら捨て置けばいい。自分の立場を組織の中で安定させるのが今は先決だ。だが、もしも他の何かだったら。組織とは別の闇に繋がる団体。日本の警察。もしくは他国の諜報機関からの回し者。いや、まだ組織の下っ端でしかない自分にそんなたいそうなものが付くことはないだろう。となれば組織からの探りの一択か、もしくはこれは赤井の考えすぎで本当に彼女がただの一般人だった場合。どちらにしろこの潜入捜査への影響はない。今までどおりの諸星大を演じるしかない。そうは分かりつつも、彼女に探りを入れる必要は確かにあった。


「明美さんの車に轢かれて心も惹かれてってヤツですね」
「…………」


話をしている分にはただの気の抜けた女なのだが。


「意地悪なだけで済んでくれたらいいのに……」


たまに言葉に意味深な音を含ませる時がある。それに引っかかると少しだけ笑みを深めて軽く躱してくるのだ。悪戯でもしかけているつもりなのか。得体の知れない小娘の底はまだ分かりそうもない。それでも赤井が唯一確かだと思うことはあった。


「明美さん、諸星さんとお幸せにー」


明美がシエを気に入っている以上に、シエは明美を好いている。

少なくとも、赤井よりは真剣に。

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