触れた棘から薔薇になれ



ロシナンテの記憶の中の叔母は怖い人だった。

決して声を荒らげる人ではない。手を上げる人でもない。ただ優しく、穏やかに、ロシナンテが寄っていくと微笑んで膝に乗せてくれる。抱き上げる細い手足も、頬をくすぐる金髪も。何もかもが母と変わらない要素を併せ持っているのに。ロシナンテは叔母が怖かった。


「ロシナンテ……?」


実に十一年ぶりに会った叔母は、目をまん丸に見開きながらも、その口元は変わらず笑みを浮かべていた。母のように笑う女だった。本当に、ロシナンテが最後に見た顔そのままで、姓だけがロシナンテと同じものに変わっていた。若々しく、ロシナンテと同い年くらいに見える。けれど確かに彼女は母の妹であり、ロシナンテと十以上も年の離れた女性であるはずだ。

困惑を浮かべるロシナンテの背をセンゴクが叩く。この九年間、彼を育ててくれた第二の父。その男の顔は苦渋の決断を経た精悍な顔をしていた。


「ドゥルシネーア宮。ご報告が遅れて申し訳ありません。あなたの甥御様をお連れしました」


椅子から音もなく立ち上がった叔母が、ロシナンテの手を取る。節々が太く、傷とあかぎれで触り心地の悪い手を女の手が確かめるように撫でていく。白く、滑らかで、関節のひとつとして変形していない。ロシナンテはこんな手を見たことがなかった。いや、記憶の中の母の手はもしかしたらこんなだったのかもしれない。それどころか目の前の人の手だって当時と変わりなく綺麗なままなのだろう。小さいと感じるのはロシナンテの方が大きくなってしまったからだ。


「おかえりなさい……無事で良かった……」


強く、ロシナンテにとっては微々たる力で手を握られる。揺れる薄い肩は泣いているのかと勘違いさせたが、俯いていた顔を上げた瞬間に杞憂であったことが分かった。涙一滴も浮かばない晴れやかな笑顔がそこにあった。この感覚だけはしっかりと覚えている。泣いたり、怒ったり。悲しいとか憎いとか。そういった感情を浮かべた叔母をロシナンテは見たことがなかった。掠れる声が鼓膜を打ってもそれが彼女の感情を表しているとは限らない。この、本心がどこにあるのか分からない叔母が幼いロシナンテには恐ろしかった。


「おかえりなさい、ロシー……」


やはり、叔母はなにも変わらない。

ぎこちなく握り返した手は、ちゃんと震えずにいられただろうか。


「お久しぶりです、ドゥルシネーア宮」
「あら……もう叔母とは呼んでくれないの?」
「ッ! 申し訳ありません、叔母上」


ロシナンテが敷いた予防線を叔母は当たり前に飛び込んでやって来る。所詮、十一年前に父が地位を捨てた時点で彼はただの庶民なのだ。自分たち以外を下々民と蔑む天竜人相手に、血縁者とはいえ家族面をするのは気が引けた。なによりロシナンテにとって天竜人は自分たち家族を見放した大人という認識が強い。その中には電伝虫をかけても一度も繋がらなかった叔母も入っていた。

母と似た顔で優しさを振りまく彼女が、知らないところで自分たちを貶めていたのだとしたら。そう考えるとロシナンテには無条件で彼女を家族だと判じることはできなかった。父を殺しても聖地に入れず、今では海賊として世界を荒らす兄。生まれついての凶暴性を遺憾無く発揮するバケモノと、誰にも知られず水面下で欲望を飼い慣らすバケモノ。形は違えど同じバケモノ。ロシナンテの目には兄と叔母が見えない糸で繋がっているように思えた。


「叔母上は、その、何故、見た目が変わらないのですか」
「悪魔の実の能力のせいよ」
「悪魔の実ィ!?」


聖地マリージョアから出ることのない天竜人が、どうやってその実を手に入れたのか。思わず、ロシナンテの口から敬語が取り去られる。それにセンゴクが気付くも、天竜人相手に言葉を挟むことがどういうことか、分からない彼ではない。結果ロシナンテは図らずも家族のような馴れ馴れしさで叔母との会話を続けていた。


「叔母上も能力者なのか!?」
「も、ってことはロシナンテは能力者なのね」
「そうだ、おれはナギナギの実を食べた無音人間……じゃなくてだな!!」
「まあまあ、昔のように口車に乗ってはくれないの。成長したわね」
「いや、だから、」
「ああ、お返事がまだだったわね。私は能力者ではないの」


それは、どういう。

明確な答えを求めて開こうとした口は唐突に閉じられる。


「積もる話は帰ってからにしましょう」
「帰る?」
「ええ、あなたのお家に帰るの」


あなたの部屋も昔のままなのよ、と。手を引く叔母にロシナンテは寒気がした。同時に、センゴクの顔がいつもよりも固い理由をまざまざと理解する。十年以上も前に天竜人ではなくなった男を、叔母は聖地に住まわせようというのだ。あの時自らが見捨てたであろう家族と、名実ともに家族になろうと。厚顔無恥にもほどがあることを平気でやってのけようとしている。

その瞬間に、ロシナンテは叔母の白い手を振りほどいた。二人の同じ色の目が再度交わり、けれど叔母の微笑みはやっぱり崩れない。


「おれの家は、マリンフォードにある」


そこ以外に帰る場所はない。

普通の天竜人ならばその場で射殺を決行する不敬だ。実際「ロシナンテッ!」と焦った様子のセンゴクの声が聞こえてきた。が、彼は焦ることなど何一つなかった。叔母があの頃とまったく変わっていないのだとしたら、恐れることなど何もないのだから。


「そう」


あっさりと離れた手と、傷ついた様子のない顔色がそれを物語っている。家族にさえ、微笑みという無表情を向ける女にとって、ロシナンテなどいてもいなくても代わらない存在なのだろう。


「たまには顔を見せに来てね」


そう、ロシナンテは確信していたから。



***



その再会から三年が経った。

今ロシナンテは叔母の屋敷で無駄に香り高い紅茶を持て余している。向かいにはニコニコ顔の叔母が同じ紅茶を飲んでおり、その見た目は相変わらず若いままだ。

三年前、ロシナンテは叔母と会うのはそれきりだろうと踏んでいた。見た目も中身も変わらない得体の知れない人間とヘラヘラ笑い合うほど彼の面の皮は厚くない。大人でもないし、家族でもいられない。だから叔母の願いも無視してやろうと意気込んでいたのだが、センゴクがそれを許さなかった。彼女が天竜人である以前にロシナンテの少ない肉親との繋がりを絶ってほしくなかったのだろう。結果ロシナンテは長くも短くもないスパンでマリージョアの生家に足を運び、叔母と楽しくもない茶をしばく生活を送ることになった。

それから、三年が経ったある日。

長期任務を間近に控えたその時期に、一応は顔を見せておけというセンゴクの指示に従ってやって来た。ロシナンテにとってはいつも通り、何の実りのない時間になる予定だった。


「海に」


紅茶の色を眺めていた瞳がさらに伏せられる。吸えない煙草に思いを馳せていたロシナンテは、突然口を開いた叔母に意識を向けた。


「? うみ?」
「海に嫌われるのと、海を嫌うの。どっちがいい?」
「……なんだそりゃァ」


どんな言葉が飛び出してくるのかと思えば。いつものロシナンテの近況を訊く言葉ではなく、脈絡のない質問に彼は気の抜けた声を発した。

叔母の考えはこの三年でも理解できない。なにせその表情が喜楽しか浮かべないのだ。本当に喜んでいるのか、もしくはその下に嫌悪を隠しているのか。探るのもアホらしいほどに優秀なポーカーフェイスが張り付いている。いっそ体だけが成長した白痴の少女だと言われた方が信憑性があるものだ。けれど事実、叔母は何も知らずにヘラヘラ笑う馬鹿ではない。天竜人と世界政府の窓口として口利きをするそれなりの役職に就いた立派な大人だ。本来は若さよりも老いに偏り始める年の頃であるのに、口調はいつまでも軽やかで見た目相応の落ち着きを一定に保っている。

そんな叔母の答えを待つような沈黙に耐え切れず、ロシナンテは渋々と口を開いた。


「……おれはもう悪魔の実を食ったから、とっくの昔に海に嫌われてるんだ」
「だからって嫌われるほうがいいというわけじゃないでしょう」
「嫌う嫌われる以前の問題だしなァ。考えたこともなかった」
「……私は海が嫌いなの」


その声に、その一言に。

体の芯が例えようのない感覚に襲われる。身震いを起こす背筋。叔母との再会の時に起こしたそれに似ていて、けれど圧倒的に違うのは。胸を掻きむしりたくなるほどの悲壮感。いくら凝視しても変化のない笑み。その弧を描く唇から吐き出された音は、この世の悲しみをありったけ詰め込んだような冷たさを身に纏ってロシナンテに襲いかかった。


「深い青も、白い泡も、潮の香りも、波の音も。この体にされてから、海の何もかもが嫌いになった。この意味が分かる?」


この人は誰だ。

朧げな記憶の彼方。自分の手を引く母の顔と似た、少しだけ幼さのある女の顔を見つめる。その変化は徐々に引いていく潮のように、彼女が嫌いな海と同じく青ざめていった。


「不老不死と引き換えに、海ではもう生きられないってことよ」


ドンキホーテ・ドゥルシネーアという名を持つ微笑みの女。その頬に一筋の涙が伝う。不思議な、ありえない、幻の光景をロシナンテは目の当たりにしたのだ。


「だから私は海に出ることもできない。ドフィを、ロシーを探すことも誰かに頼らなければできなかった。不甲斐ない、役立たずの叔母なの」


ごめんなさい、ごめんなさい、と。叔母の口から謝罪がこぼれ落ちる。


「ワガママな叔母でごめんなさい。あなたたちを助けられない叔母でごめんなさい。もう泣き止むから、これで最後にするから、だから生きて帰ってきて。私にはもう、あなたとドフィしか家族がいないの」


ひとりにしないで。

聞こえたのは弱々しい懇願。唇は震え、辛うじて保たれた笑みが眉根を寄せているせいで台無しだった。

ロシナンテは初めて、叔母がただの人間であったことを知った。

ちゃんと心に血の通った人間であるのだと。ただ家族を失うことに恐怖する弱い女だったのだと、握り締めすぎたせいで血の滲んだ白い手を見つめる。沈痛に、冷静に、動揺など見なかったフリをして。ロシナンテは真に叔母という人間を理解していなかった自分を知った。例え滲んだ血が巻き戻すように白い手の内に帰っていっても。爪が突き破った肌が瞬く間に修復される光景を見ても。彼女は確かに人間であったのだと、深く、深く思い知った。


「なんでもするから、お願いよ」


ドンキホーテファミリーに潜入する一月前。ロシナンテが叔母の顔を見たのはそれが最後であった。


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