あいつが含んだ空虚とサロメ



死にそうなほど平和な日だった。


「海に嫌われるのと、海を嫌うの。どっちがいい?」


海が見える窓辺の席。暖かな陽光の中、優雅に紅茶を飲んでいた女が珍しいことを口ずさむ。凪の海のように穏やかな女だった。その手元には日課の新聞が広げられており、今世界で起こっている悲劇がそこかしこに並べ立てられている。殺人、強盗、暴動、反乱。血と涙が滲むインクを眺める瞳は凪いでいる。シミ一つない白い顔も、きらめく金の髪も、すべてが女の瑞々しい若さと幸せな日々を物語っているようだった。そんな平和の光を浴びて生きてきた女の家に少年が保護されて三年が経った。


「……お前、久々に口開いて訊くことがそれかよ」


思わず、少年は開いていた本のページを閉じかける。女の意味不明な質問を聞いたのは久しぶりのことだった。初めて会った時から、この女は詳しいことを何も話さない。ただ少年が何かしようとすればそばに寄っていき、黙って事の成り行きを見守る。柔らかい微笑を浮かべたまま、少年を見下ろす様はまるで天使か聖母のようであった。が、そんな聖人ではないことくらい少年はすぐに見抜いた。簡単だった。女は少年が何を言おうと微笑を崩さないのだ。それが女にとっての無表情であると、少年はこの三年で深く理解していた。少年は女に対して容赦しない。容赦をする必要はないと、言ったのは女のほうだ。深く関わろうとしないくせに、いつもそばにいて微笑み続ける女に気を遣うほど少年は善人ではなかった。


「ねえ、どっち?」


少年の返事を待ち続ける女。いつもと変わらない微笑みで首を傾げると、途端に幼さが湧いて出る。少年は少し面倒そうに息を吐いて、読んでいた本のページにしおり代わりのペンを挟んだ。


「どっちもなにも、おれはもう海に嫌われてる」
「だからって、嫌われる方がいいとは限らないでしょう」
「だから、おれは嫌う嫌わない以前に勝手に海に嫌われてるんだって。なにが言いたいんだお前」
「なにも」
「はあ?」


訳が分からない。ヘラヘラしてるのは頭がおかしいからだと思っていたが、とうとう中身までおかしくなったのか。半目で頬杖をついたその時、少年は一瞬、自分の目を疑った。


「やっぱり、似ている」


女が笑っている。肩を揺らして、喉の奥でくつくつと笑っている。いつもの微笑ではなく、普通の人間のように笑っている。


「なにが、おかしい」
「だって、ロシナンテと同じようなこと言うんだもの」
「ろし……コラさんのことか!?」


少年が立ち上がると同時に座っていた椅子が倒れる。瞬間に感じるのは背後からの視線。この家に常時配備されている黒服たちからの視線は、大声を出した少年の背に殺気を送っていた。それが潜むのは女の手が振られた時。すぐに消えた視線にも構うことなく、少年は今まで何度も口にしたことを再度叫んだ。


「お前、コラさんとどういう関係なんだよ! なんでおれを匿う! おれが珀鉛病だって知っていて引き取ったんだろ!? 世界政府の人間のくせに!!」


そう、三年前だ。

ドフラミンゴに恩人であるコラソンを殺された日。泣き喚きながら必死に逃げたミニオン島の海岸で、見知らぬ船に乗せられた。海軍でも海賊でもない、無印の旗を掲げる船に警戒する間もなく引き込まれ、朦朧とする意識の中、この島のこの屋敷にたどり着いた。それからもう、三年も経つ。

女の屋敷にはたくさんの本があった。そのほとんどが医学書と悪魔の実についての文献ばかり。示し合わせたかのように少年の能力に関する内容に偏ったものが並んでおり、今読んでいた本でさえ女の持ち物に他ならない。当時、珀鉛病末期で死にかけだった少年は、そのおかげで能力を使いこなせた。だからこそ無事に生きている。

美味しい食事。清潔な部屋。温かな寝床。すべてが六年前に灰に帰したものだ。そして、二度と戻らないものをまざまざと思い出させる。

少年の家族、友人、故郷を焼き払ったのは世界政府。この女を守る男たちの胸に輝くのは、世界政府のシンボル。ならばこの女は憎むべきものの仲間でしかない。

何度ここから逃げ出そうと思っただろう。何度女を殺そうと思っただろう。コラソンからの遺言だと言われなければすぐにでもそれを実行していた。それを分かっていてコラソンの名を出したのだとしたらとんだ食わせ者だ。


「私は海が嫌いなの」


そして、その読みは外れていなかった。


「だから港へは、あなた一人で行きなさい」


今までで一番、喜色を含んだ声だった。グッと握り締めた拳がテーブルを叩く。それは紛うことなく、女の別れの言葉だった。


「……やっぱり、コラさんの知り合いなんて嘘だったんだな」
「どうしてそう思うの?」
「コラさんが死んだっていうのに、あの時泣かなかったから」
「まあまあ」


手を口元に当てて笑う。こんなに嬉しそうな笑みを浮かべたのは初めてで、それだけ女が少年との別れを喜んでいるのだと。そう思うと腹立たしい。嫌いはすれど好く要素なんてひとつもないと思っていた。けれどこの三年、実質少年の内には女に対して少ないながらの情が湧いていたのだと。こんな時にしか気づけない自分の感情に少年は目眩にも似た感覚を覚える。憎むべき存在に嫌われていることに、何故悲しみを抱かなければならないのか。

泣きそうに顔を歪めた少年の前で、女はより一層笑みを深める。その顔にどこか既視感を持ったけれど、次の女の言葉でそんなものはすぐに吹っ飛んでしまった。


「私は泣きたい時に笑うのよ」


笑うことでしか、この顔は動いてくれないから。

そう言った女の目尻に光ったものは、少年の見た幻だったのか。誰にも、もう分からない。



***



ローが目を開けると辺りはまだ夜だった。

芝生が青々と茂る甲板の上で、向かいの壁には海楼石の手錠をつけたシーザーがイビキをかいている。昨日、ようやっと手に掴んだドフラミンゴへの一手。それがこの十年の間にどれだけ願ったものか、ロー自身にすら計り知れないものがある。

海賊になり、仲間を集め、旅をした。その間一度も女の元には帰らなかったし、女の存在すら今の今まで忘れていたくらいだ。なのに、この一番の大舞台を目前にしてあの日の情景が夢に出てきた。あの、笑うことでしか喜怒哀楽を表現できない女が何故、今になって思い出されたのか分からない。

何が目的でローを匿ったのか。コラソンとどんな関係なのか。世界政府とどんな繋がりがあるのか。ローは結局なにも知らないままだ。ただ知っているのはあの女の名前のみ。


「シエ、か……」


聞いたことのない響き。それを唇に乗せていれば、ローはまたあの頃に戻ったような気になった。あのハリボテのような平和な日々。あの時間だけがローの人生の中で酷く浮いている。あの三年間こそが夢であったとしても不思議ではない。コラソンという存在を共有する誰かを欲した、ローの頭の中の住人。頭がおかしいと言われようが、ローにとってはそのほうがよっぽどマシだった。あの謎だらけの女がこの世界に実在すると考えただけで、ローには頭が痛いことなのだ。


「コラさんに似てた、な」


あの笑顔に、あの人との接点なんて微塵もないはずなのに。ローは再び目を瞑る。今度こそ、女の笑顔は瞼の裏から消え失せた。

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