わからず屋に世界をあげる



人が人を殺した時、その手に残るものはなんだろう。

殺人が最大の禁忌として周知された法治国家日本。家庭環境はどうあれ、世間一般の真っ当な義務教育を受け、真っ当な人間と交友関係を築いてきた人間は、高確率で真っ当な人間に育つ。

真っ当な人間が殺人を犯した時の真っ当な反応とはどういうものだろう。

答えはその部屋の中にあった。


「ぅ、ぅう……っ」


45階建てマンションの最上階。メゾネットタイプの贅沢な造りの部屋。壁一面の窓から差す赤い夕陽。螺旋階段を上って一番奥の寝室、広いゲストルームに明美は匿われていた。


「こんにちは、宮野明美」


ドゥルシネーアは外付けの鍵を開錠し、ノックもせずに扉を開け放つ。

突然現れた金髪の女に明美は一人掛けのソファから立ち上がった。ジャケットは背もたれにかけられ、タイトなスカートは握りしめていたのかしわくちゃだ。精一杯の威嚇と警戒を顕わにドゥルシネーアを睨みつけてくる。武器どころか自殺できないようにアクセサリーも没収され、身を守る術は何もない。それでも気力だけで相手に立ち向かおうと細い両足で立っている。


「あ、あなただれ」
「ああ、もうすぐこんばんはの時間になるかしら」
「なにが目的? ジンは、十億円はっ?」
「こんばんは、宮野明美」
「取引は、どうなったのっ?」
「……少し落ち着いてはいかが?」
「早く答えて!! 答えてよぉっ!!!」


艶やかな黒髪を見るも無残に振り乱し、さんざん泣き喚いた後の声はかすれて濁っている。浮腫んだ顔の中で、充血した目だけが痛々しい感情を押し付けてくる。

ドゥルシネーアは溜息を吐いた。


「明美さん」


この手は使いたくなかったのに。

普段よりやや低く、抑揚があって、発音がハッキリとした声がドゥルシネーアから発せられる。


「……シエ?」
「はい、明美さん」


ドゥルシネーアにしては子供っぽい、溌剌とした笑み。穂波シエがいつも浮かべる平凡の象徴とも言うべき表情を、見ず知らずの外国人の女が浮かべている不可解。それこそ相手が本当の化物とも知らずに幽霊にでも会ったような反応をする明美。あまりの驚愕に二の句も告げられないらしく、ひゅーひゅーと過呼吸に近い音しか出さなくなった。

静かになったことにこれ幸いと畳みかける。


「まず、ジンとの取引は失敗しました。彼は初めからあなたたち姉妹を解放する気なんてなく、あなたを殺す理由が欲しくて強盗を強要したみたいです。相手を従わせるために嘘八百並べ立てるのなんて悪党の必須技能ですよ。拘束力のない約束なんて信じるものではありません」


義務的な内容。それでも穂波シエのように気安かった声音が徐々に内容に即した固さを纏っていく。


「ジンは今頃、宮野明美の死亡報告をボスに上げていることでしょう。これであなたは生きていてはおかしい人間になりましたね」


何か質問は?

小首を傾げる仕草で明美は魔法が解けたように動き出す。真っ白い顔色のまま、震える声を抑える気もなくドゥルシネーアを注視していた。


「本当にシエなの?」
「はい、後でそっちの姿でお話しましょうね」
「っ……わ、私を、どうするつもり? 妹はどうなるの?」
「その話をこれからするんですよ」


言うべきことは済ませた。あとは本題に入るのみ。表情は全く変えないまま、それでも細めた目を僅かに開く形で素直な感情を滲ませる。


「明美さん、自殺しようとしたでしょう?」


ドゥルシネーアは怒っていた。


「なんですか、あのメール。どう読んでも遺書ですよね。自分が殺されること、送信する時点で予期していたのでしょう? 自分が死んだとしても妹が組織から抜けられるのならそれでいいと? 立派な自殺ですね。嫌ですよ、私……」


唐突に訪れるフラッシュバック。

空から降って来る砲弾。掻き消される悲鳴。倒壊する街並み。道の上で潰れた林檎。血の臭い。罪のある人間も罪のない人間も死んで、死んで、死んで死んで死んで────それでも死ねなかった。

死んでしまいたかった。

復讐を遂げたその瞬間に、全部放り投げて死ねたなら、それはどんなに楽だっただろう。

人殺しは恐ろしい所業だ。ドゥルシネーアだって……シエだって、日本で生まれ育った普通の子供だった。殺人とは無縁の環境で育った普通の人間だった。それを狂わせたのはあの世界だ。権力と富と差別と無法がのさばるあの世界で、寄る辺ないまま生きていくことはできない。取りつく島を探して飛びついた先が家族だった。

その家族を奪った者をどうして許せようか。

狂ってしまった価値観は人殺しを良しとする。不老不死の身体を持て余し、自らが指示した砲撃を受けながら、天を仰いだ感情は無。涙は一滴も湧いてこない。泣けないほどの絶望。死ねない終われない生が人殺しの贖いに感じた。死んで終わらせてなどやるものか、と。呪われた身であることをあからさまに知らしめる。

だからこそ、ドゥルシネーアは怒った。



「私、自殺する人、大ッッッッ嫌い」



自分ができないことを簡単にしようとしたことへの、明確な嫉妬だった。

相手の怒気に当てられて床に座り込んだ明美。赤い目元に反して顔色は白い。睡眠薬だと伝えられた薬で結果的に共犯者を毒殺し、取引現場に行く直前で正体不明の人間に誘拐され、監禁された部屋に訪れた外国人が実は友人の素顔で、今は怯えるほどに強い軽蔑の眼差しを受けている。これが混乱せずにどうしろというのだ。


「“シエ”には覚えていてほしいから、あのメールを送ったのでしょう。残念ながら、私は嫌いな人間はすぐに忘れることにしているの。自殺なんてした人間は、絶対に、記憶から消し去ってやるわ。宮野明美の声も顔も思い出も。絶対よ、絶対」


顔の向きを動かすことなく、視線だけで見下すように伺うドゥルシネーア。深みのある紅茶色の瞳は冷え切って、何もかもを無価値にする非情さが浮かんでいる。

事実、ドゥルシネーアは非情だった。


「そうそう、妹さん、宮野志保だったかしらね。死んで綺麗さっぱり忘れる気なら、妹のことももうどうでもいいんでしょう? 組織に使い潰されようが、私に殺されようが」
「っダメ! ふざけないで!」
「だって、明美さんはもう死んでいるんだもの」


情を傾けた相手に裏切られたその時、彼女は非情になり切れる。


「死人に生きた人間をどうこうする資格なんてないわ」


とうとう明美はもう何も言えなくなって、涙も流れないようだった。希望も絶望も判別がつかず、考えることはどうすれば妹を組織から……この目の前の脅威から助けられるかということで埋め尽くされている。心がポッキリと折れてしまって、それでも正解の分からない答えを探している。追い詰められてなお、彼女の頭には妹のことでいっぱいだった。

明美を心配する人間の気持ちなんて分かりもしないで。

せり上がってくる涙を耐えながら、ドゥルシネーアは明美の前に膝をついた。あからさまに震える体。怯えを感じ取りつつも、何も気にせずその手を取る。これからが彼女が言いたかったことで、脅してでも言うことを聞かせたかった本題は、もっと狭く、とても個人的な、彼女の願い。



「本当に妹のことが大事なら自殺なんてしないで。少しでもいいから、自分のことも大事にして。ねえ、お願いよ。お願いだから、

──死なないで、明美さん」



握り込んだ手を胸元に引き寄せて、懇願する顔は微笑んでいる。明美がいつかの時に幻視したシエの無表情。平凡な女の子が非凡に隠し込んだ素の表情を明美は重ね合わせ、結び付けた。


「あなた、本当にシエなのね」


これに驚いたのはドゥルシネーアの方で。至近距離であったせいで僅かばかりの動揺は相手に伝わってしまった。明美の思考が急に緩まっていくのを感じる。それは友人穂波シエを前にした気安さ。向ける眼差しに姉が馬鹿な妹を見るような呆れが含まれる。

こんな姿になったシエを、明美は完全に友人だと認識している。

絶望から這い出たばかりの瞳に強い意志が宿る、その瞬間を至近距離から確認した。


「二度と、私の妹を殺すなんて言わないで」
「二度と、自殺しようだなんて思わないで」


あらかじめ決められていた合言葉のように、お互いにお互いへ誓いを立てる。明美の表情から剣呑とした気迫が滑り落ちる。残ったのは情けなさと幼さ。宮野志保の姉でも諸星大の恋人でもない、穂波シエの友人の宮野明美になって、今日素顔を知ったばかりの友人に抱き縋った。


「もう死のうだなんて思わない。絶対に自殺しないって約束するわ。ごめんなさい、シエ」


謝ってほしいわけじゃない。

言いたいのに、言えなくて。明美の身体を抱きしめ返しながら、少しだけ目を潤ませた。

ドゥルシネーアの精神年齢は実年齢に比べて拙いが、見た目の年齢とは比べるまでもなく老成している。だからこそ、二十そこそこ平和に生きた小娘から欲しい言葉を引き出すことなど簡単だった。

犯罪組織に人質として所属する妹。
スパイを恋人として引き入れてしまった責任。
強盗と殺人の罪で汚れた手。
社会的に死亡したことで失くした戸籍。
直接的な妹の殺人予告。

複数の要素を駆使して隅の隅まで追い詰めて、最終的な選択肢を一つだけに絞り、あまつさえ誘導された答えを自分自身の決断だと誤認させる。そうして引き出したたった一言は、これからを生きる彼女の重りになるだろう。

汚い手を使ってまで引き出した、“自殺しない”の一言。

ドゥルシネーアは本気で喜んだ。


「ありがとう、明美さん」


明美の頭に頬ずりしながら、直接耳に吹き込むように。何度も、何度も……何度だってありがとうを言い続ける。

きっと、明美を繋ぎとめる重りはもうこの世に妹しかいない。その妹が脅かされたのなら、文字通り死ぬ気で立ち向かって、そして本当に死んでしまうのだろう。だって、妹がいなくなれば彼女には何もない。重りがないということは不安定だということだから。倒れやすく、吹き飛びやすい。だから死ぬ覚悟なんてものを簡単にしてしまう。

彼女に必要なものは重りだ。

倒れても吹き飛んでも勝手に戻って来てしまうドゥルシネーアと違って。生きるためには重さが必要なのだ。


「ありがとう、ありがとう」


重ねて、絡めて、纏わせて、祈る。

きっと、それが明美が生きるしがらみになると信じて。



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