もしも私が神さまだったなら



そのメールが届いたのは大学が始まったばかりの四月の頭だった。


『シエと出会えたことは私の人生の中で最高の幸運でした。ありがとう。また会ったら今度こそ妹を紹介します。どうかお元気で。明美』


知らないメールアドレス。末尾の名前がなければ捨ててしまったかもしれない。彼女と連絡がつかなくなってもうすぐ二年になる。何の脈絡もなく久しぶり見た明美のメールは、次の約束を取り付けているくせに別れの挨拶のようでもあった。

気のせいでは決してない胸の騒めき。それは既視感。家族が遠い地で生きていると信じ切っている日々に突然飛び込んで来た訃報。あの落差は未だトラウマとして刻み込まれている。遠くで生きているのなら会えなくとも許容できた。けれど死んでしまうのは駄目だ。シエを……ドゥルシネーアを一人にする行為だけは決して許容できないことだったから。

杞憂であればいい。探し出して一目無事を確認する、それだけで良かった。

だが現状、明美の無事を確認する方法を持ち合わせていなかった。穂波シエは普通の大学四年生だ。悪い組織の助っ人ドゥルシネーアのようにベルモットを頼ることはできない。ただの一般人が、音信不通の友人を探すにはどうしたらいいか。

人探しの方法をパソコンで検索すると一番メジャーなところで探偵が上がった。口コミで一番目立っていたのは最近台頭してきた名探偵、眠りの小五郎だ。だが彼は殺人事件の専門だという口コミで埋もれている。人探しは門外漢かもしれない。頭を捻りながらスクロールすること一時間、結局シエは知り合いを頼ることにした。

大きな会社のトップだという枡山。彼ならば良い探偵を知っているのではないか。純粋な気持ちで彼に声をかけ、それが純粋なだけで終わらないことをすぐに理解した。


「私には、絶対に裏切れない相手がおる」


久しぶりの友人の集まりを解散させ、人払いしたマンションのリビング。高級ソファに浅く腰かけた枡山は、肘を膝に乗せるような前傾姿勢で俯いている。時折震える拳や、出しづらそうな声が彼の心情を良く表していた。


「あの方には良くしてもらった。私が今の地位にいるのも、あの方あってこそ。だから私は恩を仇で返すわけにはいかない。何より、私は、あの方が恐ろしい」


彼は自身の怯えに打ち勝とうとしている。


「しかしだね、私は、君のことを本気で友人だと思っている。かけがえのない友だ。この年になって、性別も年も何もかも違う君を、唯一無二の存在だと決めつけてしまっている。おかしいだろう? あれだけ恐ろしかったあの方を欺くための算段を一考するほどに、君を快く思っているんじゃ」


それはおかしい話ではない。ドゥルシネーアの実年齢を考えれば枡山とはそんなに変わらない年代だ。同年代の老人同士が語らう関係に友情が芽生えないなどとどうして言い切れるか。若者の皮を被った彼女は中身もそうであろうと必死だったが、真になり切れているかは甚だ疑問だった。疑問の答えは枡山という友人が持っていたわけだが。


「あの方は裏切れないが、君を悲しませることもできない」


握られた拳から震えが消える。枡山の感情が降り切れたことを肌で感じ取った。


「あの方は幹部の一人を宮野明美の監視役として送った。それは決して宮野明美を殺せという明確な命令ではない。だが死んでもいいとも思っている。だからこそ、あの男を選んだ」
「え?」


明美が、死ぬ?

言われた内容にシエの笑みが薄まる。眼前に突きつけられた核心に対して、半開きになった口が二度三度と開閉を繰り返した。


「あの男は失敗を許さない。たとえ捨て置いても困らない小娘相手でも機会があれば絶対に殺す。宮野明美もこのままではきっと、」
「ま、待ってください、何の話をしているんですか。殺すって、」
「君はベルモットの子飼いじゃろう?」


枡山の顔から柔和な笑みは消え去っていた。薄く開いた眼光は鋭く、こちらの嘘を許さないと言わんばかりだ。


「調べさせてもらったよ。と言っても、分かったのはベルモットに支援を受けて大学に通っていることくらいだ」


暗に大学に入る前の過去は分からなかったことを示されて、彼がドゥルシネーアの存在を知らないことを察した。彼にとってのシエは日本に突然現れた正体不明の女で、ベルモットに養われているペットということだけなのだ。訝しがるのはおかしなことではない。それでも、枡山はそれ以上は踏み込まず、穂波シエの友人の領分を保とうとしている。

それが彼からの変わらぬ友情を感じさせた。


「明美さんは、なんで殺されそうなんですか。なんで、監視なんて、」
「彼女の両親は組織に属していてね、その後継を妹の方が務めている。宮野明美は妹の人質だよ」
「なら、殺さず生かされるべきでしょう?」
「二年前まではそうだった。彼女が不用意にNOCを引き入れるまでは」
「ノック?」
「Non Official Cover……宮野明美はスパイに付け込まれたんだよ。アメリカのFBI捜査官にね」


シエの中で、様々なことが腑に落ちた。


「諸星大?」
「いかにも」


諸星大。赤井秀一。
繋がっていなかった二つの名が線で繋がる。

アメリカで赤井秀一という男を誘き出した時、シエは赤井の正体をFBI捜査官としか知らなかった。夜だったために顔はよく見えなかったし、声も一度も聞いていない。それでも逃げる時に既視感を覚え、ビルの屋上からジッと覗き込んだ先に諸星大を幻視した。きっと見間違いだろうとすぐに逃げたが、あれは本当に諸星大だったのだろう。

あの男が明美を裏切り者に仕立て上げた。明美の失踪に悲し気な顔をしたあの男が、明美を追い詰めた本人だった。

そして諸星大を裏切り者だと摘発したのはドゥルシネーア。

つまり、ドゥルシネーアの仕事が結果的に明美を死に追いやる切欠を作った。

ドゥルシネーアのせいで、明美は……


「枡山さん、お願いがあります」
「……なんだい」
「会ってほしい人がいるんです」


その時、穂波シエの中で明確に線引きされていた境界が急速に薄れていく。何故なら、明美が殺されそうになっているのはドゥルシネーアのせいだから。ドゥルシネーアの領分が突然シエの領分に侵攻してきたのだ。

だから、仕方ない。



***



「あばよ」


強い衝撃が体を突き抜ける。一発、二発と無遠慮な鉛玉が打ち込まれ、女の薄い身体はあっけなく吹き飛ばされた。背中から倒れ込んだ先は海。人気のない埠頭で海を背に会話していたのだから、それは自明の理だった。


「馬鹿な女だ」


男の捨て台詞と意地の悪い笑い声。遠くに消えていく足音を不愉快な水の中で聞き届け、彼女は海から地上へと這い出た。海水を含んで重たい服を脱ぎ捨て、持ってきた袋に詰める。顕になった身体に先ほどの銃撃の跡はない。あるのは下着に仕込まれた輸血パックと顔に張り付く宮野明美のマスクだけだ。

心臓がドクドクと嫌な音を立てる。上手く騙せたことと同じくらい海に自ら飛び込んだことが心臓に悪かった。汚物に塗れているような不快感に眉を顰めながら中途半端に残ったマスクを剥がした。

枡山にドゥルシネーアとして対面する直前、広田雅美という女が十億円強盗犯としてテレビで報道された。銀行や公道に設置された監視カメラからは詳細な顔はよく見えない。しかし顔を知っているこちらとしては彼女が宮野明美であることは一目瞭然だった。

ドゥルシネーアはベルモットと穂波シエの繋ぎ役として枡山に会った。枡山は何を考えているのか分からない顔だったが、こちらが提示した条件をすんなりと飲んで明美の救出に協力してくれた。


『宮野明美を救出することは、あの方への裏切りになりませんか?』


ドゥルシネーアらしい微笑みでおっとりと尋ねると、枡山は温度のない無表情で見返してきた。


『あの方はジンに宮野明美の監視を任せたが、殺せとは命じていない』


つまり、ジンに勘違いをさせ、実際に明美が生きていたとしても、あの方の命令に背いたことにはならない。むしろ虚偽報告をしたジンの方がペナルティーを受けるかもしれない、と。酷い屁理屈ではあったが、協力を頼んでいるこちらは口を挟める立場になかった。

ドゥルシネーアが頼んだのはジンに会う前の明美の確保と、必要物資の調達だ。

濡れて張り付く金髪を適当に纏め、素肌の上からライダースーツを着用。最後に車のトランクにしまっておいたソレを海に投げ捨てた。必要物資──宮野明美そっくりに整形した女の死体を。

ジンに会いに行く前の明美と変装したドゥルシネーアが入れ替わり、彼女の代わりにジンに撃たれる。撃たれてふらつき、ポケットからダミーの鍵を取り落としてから海に倒れ込む。目当ての鍵が手元にあり、海に浮かぶ体と赤く濁るほど夥しい血液量を見れば死体を探ることはないだろう。目論見通りに事が進み、ドゥルシネーアはすぐに現場の偽装を始めたのだ。

偽装を終えるまで約一分。さすがに誰かに見つかる心配はないだろう。濡れ物が入った袋を背負い、近場に止めておいたバイクまで走ろうとしたところで小さな気配が彼女のセンサーに飛び込んできた。


「子供?」


スケボーのようなもので猛スピードで近付いてきた子供は、海に浮かぶ死体とそこに佇む女を見比べて顔を激情に染め上げた。


「お前が、お前が雅美さんをッ!!」
「彼女を知って、る……」


尋ねようとした女に有無を言わさず子供は時計を構えた。殺意はないが敵意はある。そう感じ取れた時には僅かな痛みとともに意識を失った。そして数秒で意識を取り戻したのは、ドゥルシネーアの身体が異物をすぐに排出したからだ。しばらく起きないと思ったのだろう。堂々と持ち物を探ろうと近寄ってきた少年は驚愕で体を強ばらせた。


「なん、で」
「いいことを教えてあげる」


離れかけた小さい体を腕を掴むことで引き止める。至近距離で覗き込んだ瞳は眼鏡越しでも分かるほど動揺している。

彼は本気で広田雅美を、宮野明美を救いに来たのだろう。子供に何ができるのか、という見下しも含みながら、知人の死に震える少年を哀れに思い、小さな声で囁きかけた。


「死体はfake……彼女は生きている」


弾かれたように海に浮かぶ死体を凝視する子供。その耳元に唇を寄せ、真実の代償を無遠慮に被せかけた。


「子供の言うことなんて聞かないでしょうけれど、一応。私のことを誰かにバラしたら、本物の彼女は死ぬ。私が殺すんじゃない。あなたが騒いだせいで彼らにバレてしまうの。そうしたら、あなたが彼女を殺したことになるわね」


掴んだ腕が震え始める。離してはやらない。まだ目的は残っている。


「そうそう、十億円? の隠してあるロッカーの鍵は車のダッシュボードよ。早めに回収しないと本当に彼らに取られてしまうから」
「……彼らって誰?」
「黒い格好をした怪しい人たちよ。長生きしたいのなら近付かないことね……子供が殺されるのは私も悲しいわ」


──だから約束よ、坊や?

怯えきった様子を見なかったことにして、その細い首筋に下手な手刀を入れた。痛いだろうが仕方ない。このまま着いてこられでもしたら命の危機が迫るのは少年の方だ。あの枡山が子供という理由だけで手心を加えるとはどうしても思えなかった。

車の近くに寝そべらせ、ドゥルシネーアはバイク置き場まで走った。まだやるべきことが残っている。溢れ出る感情が彼女の一挙手一投足を荒々しいものにしていた。


「許さない」


明美に対する怒りだった。


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