燐光と臨幸



「出して」


バーボンと別れてすぐ、ベルモットは外に停まっていたベンツに乗り込んだ。ドアを閉めると同時に滑り出す黒い車体。隣の運転席に乗る女は車線変更のために慣れた様子でウィンカーを点灯させる。数日前のあの動揺した様子など何もなかったように、ただ軽やかに。

数日前に見た光景。あんなにも怯えるドゥルシネーアは初めてだった。

表情は相変わらずの微笑であったが、それでも無表情に近い強張ったものであることも辛うじて分かる。珍しいものを見た。一瞬驚いてから、それもそうかとすぐに納得する。何せその時の彼女は、十階建てのビルから飛び降りたばかりだったのだから。

騒々しいサイレンの音を背にベルモットが運転する車内。そのすぐ横で土埃にまみれたコートが無遠慮に革張りのシートを汚した。ボロボロの服と反して白い肌には傷一つない。それでも一度はトマトジュースのようにペーストされてからまた今の形に戻ったことは容易に想像がついた。

おかしな話だと思った。死ぬこと自体を恐れず、死ぬまでの過程を恐れる。死に続けて生き続けている彼女にとっても自殺は恐ろしいことなのだろうか。ただ単に高所から飛び降りたことが駄目だったのか。いくら付き合おうと感情の振れ幅が分からない。それ故に彼女を愛しく、憎らしく感じるのだろう。

ドゥルシネーアの演技が人並み以上なのは生来の才能というよりは生きてきた年の功だ。ベルモットに比べればまだまだ拙い部分が目に付く。だからこそ彼女本心からの恐怖は“身代わりとして自殺を強要される憐れな女”の演技に真実味のベールを被せた。あの慎重派で疑り深いバーボンにはそのくらいがちょうどいい。


「本当に良かったの?」
「何が?」


先日の震えなど幻であったかのように。赤信号で止まったところを見計らって話しかけると、紅茶色の瞳がサングラスの下からベルモットを捕らえる。金髪は大きなキャップの中に隠されているとはいえ、先ほどまで近くにバーボンがいたというのに堂々と素顔を晒すものだ。それとも本当のドゥルシネーアとして顔を見せても構わない心持だったのか。

薄いベージュピンクの口紅が最低限のマナーだと言わんばかりの愛想笑いを引き立てる。ベルモットはそれが彼女なりの無表情だということを知っていた。ずっと。まだ両手にも満たない年数の付き合いだというのに。この柔らかさと神秘を纏った人外の、薄皮一枚分の浅さに潜む本心を知っていた。


「彼、本気であなたに落ちてたんでしょう?」
「もしかしたら、の話よ」
「あなたの勘ほど正確なものはないと思うけれど」


遮蔽物で隠れた人間の思考まで読み取るような。勘の域をとうに過ぎている能力を使いこなしている人間が、“もしかしたら”なんて不確かな言葉を使う。あまりにも今さらな言葉だ。それだけに、彼女の希望的観測が含まれていることがずいぶんと分かりやすい。

ドゥルシネーアは一呼吸置いて少しだけ笑みを深める。正しく自嘲の笑みだった。


「私は彼の気持ちに応えられないし、彼も私のような女を好きになって不幸でしょう」
「あら、あなたはとってもイイ女よ。私の次にね」
「あなたに褒められるのはとても嬉しいけれど、少し勘違いしてるわ」


信号が青に変わる。ゆっくりと踏み込まれるアクセル。


「私は女ではあるけれど、人間ですらないのよ」


いつも頑なに人間だと言い張る彼女が、自らを化け物だと認めた。その瞬間、ベルモットは理解した。

ドゥルシネーアは、本気でバーボンに情を持ちかけていたのだ。

だから逃げた。正しく、危なくなる前に逃げたのだ。ベルモットが片手以上の年数をかけて縮めた距離が薄皮一枚分の距離だというのに、バーボンはそれ以上の距離を短期間で肉迫したのだろう。ドゥルシネーアの複雑怪奇で柔く脆いブラックボックスに這い入った。そして危機感を抱かせた。触れられるのを恐れるティーンの生娘のようにドゥルシネーアは距離を取る。そこには確かな愛情があった。

自分を卑下して、相手を思い遣る。

化け物が持つ感情にしては上等すぎて、何より人間らしい。

ベルモットとの契約に不老不死の秘匿が含まれていることを抜きにしても、バーボンとの個人的な関係は許せないことだったのだろう。犯罪組織の人間とはいえ、相手は健全に成長し自然に老いていく普通の人間だ。不老不死の化け物がその隣を務まるはずがない。最低限のビジネスパートナーの関係を保つためにベルモットの策に乗ることで無理やり距離を取った。地球の裏側並の距離を取るのはどうかと思うが、彼女の複雑怪奇な思考では仕方ないと納得もする。

これだ。この人間離れした言動をしたかと思えば人間らしい情を持ち出してくる。老女の成熟と生娘の未熟を見せつける。何者にもなれて、何者にもなれない。誰かを大切にするためなら誰か自身をも簡単に切り離せてしまう。矛盾をマーブル状に混ぜ合わせた彼女が、ベルモットが愛した彼女だ。

ベルモットだけの親愛なる神様。


「あなたって意外とリアリストね。少しくらいは夢を見たっていいんじゃない?」
「うふふ。美女と野獣が成立するのは御伽噺で十分よ」
「まあ。彼、お姫様って柄じゃないでしょ」
「見た目だけなら素質はあるわ。死ぬ前にドレスでも贈ってあげれば良かったかしら」


クスクスとどちらともなく笑ってしまえば車内は柔らかい雰囲気に様変わりした。

軽口を軽口で返し合う気安さ。同じ金髪を持つ美女二人を乗せたベンツは標識に従い道路を走る。行先は自由の女神の座す街。


「やっぱり変なところで生娘ね」


口の中で転がすような小さな呟きだった。隣人は気付いているのかいないのか、まっすぐに前を向いている。まっすぐと言わずとも、人間の側面なんてたくさん見ているだろうに。

人間は愛する対象がいなくなったからと言って情が消えるほど単純な生き物ではない。それも目の前で最愛の人が死んだなんて、余計に忘れられない思い出になる。強く、深く、濃く。風化してもなお刻み込まれたまま死ぬまで残り続ける。そんなことも彼女は分からないのだ。それも仕方ない。


神様は人間の気持ちを正しく理解できないのだから。


バーボンの凍てつくような視線を思い出して、ベルモットは急に愉快になった。

いつか痛い目に合うのはどちらだろう、と。



***



燐光:ある種の物質に光を当て、光を止めた後もしばらく発光し続ける現象。



***



「神様なんて本当にいるのかしら」


聖書の神様はどこにもいない。


「天使は私に微笑んでくれなかったわ」


聖書の天使は神の子のためだけに微笑む。

だからベルモットはベルモットだけの神を信仰する。聖書ではなく、すぐそこにいて、見て、触れられる……唯一の存在を、女は信じるのだ。


「ところでシャロン。そちらの子は?」


ニューヨーク、ファントム劇場前。

わざわざ約束に間に合うように爆走してきたらしい有希子がジャガーの運転席から顔を覗かせる。朗らかにはしゃぐ彼女はいつまでも少女のように無邪気だ。彼女によく似た息子も、そのガールフレンドも。同じ世界に生きているのに、全く別の生き物に見える。


「ああ。彼女、私の弟子よ」
「初めまして、ミセス工藤。ルシアです」


シャロンに向かって大きな傘を傾ける彼女。Dulcinea...Lucia Den。安直な偽名にお似合いの簡単な変装は、長い黒髪のウィッグにブルーグレイのカラーコンタクト、大きな眼鏡の下はメイクを変えただけでドゥルシネーアの素顔そのままだ。それでも色とメイクで印象はガラリと変わる。釣り目に跳ね上げたアイラインや真っ赤な口紅は気の強そうな自信家を見事に演出していた。


「まあ! シャロンの弟子! 将来のハリウッドスターね!」
「いいえ。女優という意味では間違っていないけど、彼女は変装の方が専門なの」
「ついでに先生の付き人もさせてもらっているんです。あのシャロン・ヴィンヤードに師事できるなんて、まるで夢のようで!」
「はいはい。口が上手い弟子を持てて嬉しいわ」
「うふふ。仲の良い師弟ね!」


有希子が両手を合わせて声を上げる。後ろでは息子が白けた目を、ガールフレンドがキラキラとした目でシャロンとルシアを交互に見やった。


「そうかしら。ルシアが本当に仲がいいのはクリスの方よ」
「先生、つれないこと言わないでください。友達は友達、先生は先生ですよ!」
「詭弁ね。友人の非行を知っていて離れるどころか変わらずつるんでいる癖に」
「仕方ないじゃないですか、クリス、私にだけ悪いところ一切見せないんですもの」
「あの子にそんな可愛げがあるかしら? 疑わしいわ」
「クリスは可愛いですよ、先生に似て!」
「あら嬉しい。そろそろ時間も迫ってきているし、楽屋に案内するわ」


軽く手を振ってあしらう様子は逆に二人の親密さを見せつけている。有希子にジャガーを駐車してくるように伝えてから二人は歩きだした。

ドゥルシネーアは本気でベルモットを可愛いと思っているのだろうか。頭の隅で引っ掛かった疑問は、有希子のように無邪気な少女が受かべるソレだった。まるで親友に本当はどう思われているのか悩むティーン。馬鹿らしい。ルシアが肩を濡らしてまで傾ける傘に入ったまま劇場に足を向ける。演技とはいえ、ドゥルシネーアを雨に打たせるのは気が引けた。


「いいんですよ、先生」


心を読んだかのようなタイミングだった。実際、本当に読んだのだろう。ルシアにしては安心させるような柔らかい笑み。視線で嗜めると元の自信家の笑みに戻ったが、相手には伝わってしまっただろう。これはベルモットの照れ隠しだということを。

有希子たちを案内してから別れた後、シャロンの変装を解いたベルモットは素早く別の人間に成り代わる。くすんだ銀髪の怪しい日系人。ジンの特徴を掴んだ全くの別人。

裏切り者のライ。赤井秀一を誘き出すための変装で街の暗がりを駆け抜ける。そこでAngelに会うなんて、ベルモットは思いも寄らなかった。


「私だけの天使を見つけたわ」


降り続く雨が体から熱を奪っていく。ニューヨークの薄暗い路地を走って、走って、走って。

赤井秀一から受けた傷が痛む。非常階段から落ちかけた際に無理に伸ばしてしまった腕も関節が炎症を起こしている。早く手当しなければ後遺症が残るかもしれない。満身創痍の中、ドゥルシネーアが肩を貸す形でなんとか持ち堪えている。その彼女もついさっきまで右肩を負傷して使い物にならなかった。

通り魔に化けて赤井秀一に殺されかけた時、隠れていたドゥルシネーアは威嚇射撃をした。

実際は本気で撃ったのかもしれないが、まともな射撃訓練を受けていない彼女の弾が離れた人間の的に当たるのは十中八九無理な話だ。しかも彼女はいくら鍛えたところで反動に耐え得る筋肉がつくことはない。永久に筋肉のない腕で銃を扱うことになる。

彼女が使ったワルサーPPKは小型化されているとはいえ反動が大きい。何発も撃てば一般人の女の細腕ではすぐにイカれる。ベルモットの予備ではなくそれなりの銃を見繕っておけば良かった。もっとも、痛みが治まったそばから撃っていく狂ったスタイルの彼女には、あまり深刻な問題ではないかもしれないが。

赤井の注意を引き付けてから二手に分かれて逃げた後、ベルモットは毛利蘭と工藤新一に助けられたのだ。

Angelと別れたばかりの高揚の中、再び合流した時の第一声が「初めて人に向けて撃ったわ」なあたり空気の読めなさは相変わらずだった。いくら汚れようと水で流せば元の色に戻る。不老不死の体と同じく、彼女は変わることなくそのままなのだろう。

天使は神様とは違う。天使は汚れない。ベルモットと一緒に汚れてはくれない。汚れたが最後、天使は天使ではなくなってしまう。それでいい。汚れず綺麗なまま生きる儚い存在をベルモットは大切に慈しむ。それが世界に絶望して孤独を選んだベルモットには救いになり得る。

まだ、この世界で生きていける。


「かみさま……」


一緒に地獄の底で生きてくれる神様がいるのだから、まだ。


「帰ったら子守唄でも歌いましょうか。それともAmazing Grace? 神の恩寵はお嫌い?」
「それなら、私が歌う側だわ……」
「駄目よ、お腹が痛いのに」


“私のように悲惨な者を神はお救いなさった。”なんて、神様に歌わせるわけにはいかないでしょう。

朦朧とする意識の中、あらかじめ停めておいた車に乗り込む。ここからしばらく走ってまた別の車に乗り換えることになっている。それまでの間、ベルモットは少しだけ眠ることにした。


God bless you.お大事に


ああ、おかしい。くしゃみなんかよりよっぽど魂が抜けそうな状況でわざわざその言い回しを選ぶなんて。いつもなら無視する慣習に対して、夢見心地のまま唇は勝手に動く。


「Thank you,my...」


久しぶりに幸せな夢を見た。



***



臨幸:天子様が外出し、その場に臨むこと。



***



古巣に戻ってからの仕事は事欠かなかった。ニューヨークはアメリカの中でも人口が密集する大都市。人が集まれば犯罪率も増加する。加えて仲間は日本から帰国した赤井に率先して仕事を回してくる。大方、忙しさで潜入捜査の失敗を忘れさせようという腹積もりなのだろう。余計なお世話だった。

今回の標的は女性ばかりを狙った通り魔の追跡。追い込んだ先で向かって来た銀髪の男は謀ったかのようにジンと同じ特徴をしていた。その瞬間、赤井の第六感が組織絡みの臭いを嗅ぎ取った。誘き寄せられていたのはこちらの方かもしれない、と。

油断などする暇もなく抜いた銃。腕は赤井の方が上だった。まんまと返り討ちに遭った男が転がるようにその場から逃げ出す。狩りは得意な部類だ。じっくりと追い詰めていざトドメを刺す、その瞬間まで。赤井は己の優位を疑ってはいなかった。

一発。銃弾が足元に撃ち込まれるまでは。

第三者からの威嚇射撃。すぐさま弾の出所に当たりを付けつつ死角に身を滑り込ませる。その隙に逃げ去った男については他の仲間に連絡し、第三者の出方を伺う。追撃はない。やはり男を逃がすことが目的だったか。

壁際に背をつけ、頃合いを見計らって僅かに身を出す。再び銃撃。やや離れた位置に着弾。再び威嚇射撃か、それにしては着弾位置が意味不明だ。考えるに、相手の狙撃スキルは素人。護身用に持っていた銃を咄嗟に取り出したと考えたといい。

雨のせいで相手の気配が読みづらい。それでも二発目の着弾でその場から走り去ったことは感じ取れた。待ち伏せを警戒しつつ、応援を呼びながら相手を負う。全力で走り去る影は遠目でも分かる細さだった。そして思ったよりも足が遅い。しかも定期的に的外れな銃弾が向かってくるときた。そのたびに相手との距離が徐々に狭まる。雨で不鮮明な視界でも相手の姿かたちが見えてきた。

女だ。黒いコートでフードを目深に被った女が廃ビルの一つに入り込んだ。

苦し紛れの行動か、計画済みの罠か。どちらにしろ素直に一人で入ってやる義理はない。続々と集まってきた応援に廃ビルの出入り口になりえる場所に包囲網を張らせ、袋のネズミを作り上げる。後は突入するのみ。

その段階で、赤井はビルを見上げる。それもまた、赤井の第六感だった。

ビルの屋上に、一人。先ほどの女がジッとこちらを見下ろしている。夜、雨の薄曇りで悪い視界の中、フードから僅かに漏れた金髪と、真っ赤な唇が良く見えた。恐ろしいほど鮮明に見えたのは、赤井が感じた違和感によって誇張されたヴィジョンか。


『あの死に方、もうしたくなかったのに』


読唇術で読み取ったのは日本語。意味不明な言葉に己の目を疑った。“もう”とは既に経験したことがあるような言い回しだ、と。その正誤を確認する術もなく、黒いコートが背を向ける。

見えなくなった姿。それでも出入り口は全て張っているのだから逃げ場などゼロだ。必ず捕まえて通り魔との関係を吐かせる。意気込んで、突入して、そして現実は薄ら寒く赤井の背筋を撫で摩った。


「消えた、だと……?」


出入り口は全て張っていた。そこを避けビルから逃亡を図ることなど不可能なはずだ。なのに、中を見て回っても隠れられる場所も脱出できる通路も見当たらない。あの包囲網からどうやって逃げたというのだ。

ここから逃げるとすれば、まずこちらの人員が配置されている場所を正確に把握し、こちらの死角になるような場所を探し、ビルから飛び降りる必要がある。最低でも三階の窓、屋上なら五階。運が良ければ骨折で済むが、打ち所が悪ければ即死。運任せで逃亡できたとして、こちらに気取られない速さで走ることなど不可能だ。

不可能を可能にする魔法でもない限り。


「また会ったのか」


あの覗き屋に。

例の組織の関係を臭わせる通り魔。それを助ける黒いコートの女。人のいる場所を正確に把握する能力。胸を掻き毟りたくなるような違和感。

初めてその存在を疑ってから早二年。影も形もない。それでも徐々に輪郭を作り、不安を内に注ぐように実体化しつつある幽霊。本格的に動き出すとすれば、来年か、再来年か。

嫌な予感を察知した赤井に隣の仲間が尋ねてくる。“あの黒コートを知っているのか?” “例の組織の人間か?”答えはたった一言。


Who knowsさあな.」


それから一年後、赤井の予感は証明される。

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